創世記1章と2章の構造

前回の記事で、創世記の中に見られる構造(同心円構造の他に細かく言えば、並行法・交差並行法など、多くの修辞技法がある)について書いたが、肝心の1章と2章についての構造関係について簡単に以下に書いてみる。


<1章>
A 神が天と地を創造
 B 地は何もなく、水だけがあった。
  C 世界の創造−最後に人の創造 
   D 神の人への命令(増えよ;地を従えよ)
    E 人の必要を備える(食物)
     F 創造の完成と完全な状態(非常に良かった)


<2章>
A`神が地と天を創造
 B`地は何もなく、水だけがあった。
  C`エデンの設定−最初に人の創造
   D`神の人への命令(善悪の木からはとるな)
    E`人の必要を備える(助け手としての女性)
     F`創造の完成と完全な状態(恥ずかしいと思わなかった)


(以下、詳細を書いている途中で変なところをクリックしてしまい、全部消えたorz..)


。。上の図(?)は、1章と2章に対応関係があることを簡単に示したもの。その詳細な例として、2章4節の分析をヘブル語を一語一語説明して書いたのだけど、自己満足的だったのでやめた。


書いた内容は、2章4節は1章のはじめを繰り返すことで、そのテーマの終わりを示し(inclusio)、同時に交差並行法(キアスムス)をとりながら、別のテーマのはじまりを示している(焦点移行)、というもの。
わかりやすく言うと、1章は天と地の創造について書かれている。1章1節の「天と地」というのも、ヘブル語用法の「メリスムス」といい、対極にあるものを並べることで、その中のすべてを示す用法。
つまり創世記1章には全宇宙の創造について書かれ、それが人の創造に集約されている(「さあ人を造ろう」(26)は、それまでの創造が人のために準備されていたことを示唆)。
そして、2章では、全宇宙の創造から、焦点が「地」に絞られ、さらに「人」の創造に絞られて書かれている。
それは、1章全体としては全宇宙の創造がテーマでありつつ、人の創造がクライマックスだったことに対応し、
今度は、1章でのクライマックスだった人に焦点が当てられ、人の創造に関して2章で詳細に取り上げられ書かれている(scope change)。


。。すこし投げやりな書き方になってしまったかも。


ここで言いたいことは、創世記は先日書いたような綿密な(こまかく書けば、もっと緻密)構造を持っていたように、1章2章の部分に関しても、対応構造(調和)を持ちつつ、テーマを移して書いている、ということ。
現代人が、時間的に一直線に読むと「おかしい」「矛盾」に見えるだけ。
「二つの一致しない創造物語がある」のではなく、非常に計算された美しい創造の記録であることが、少しは見えてきたでしょうか。。