青山ひろし35歳の春第3回

あおやまひろしは毎日例の部長の会社に顔をださねばならない。これは仕事であるから仕方がない。
今日も気が進まないまま、「まいど〜」と会社扉を開けた。できれば、部長とは顔を会わせたくない。部長が抽選に漏れた日から、顔を見るたびに「ねちねち」といやみを言う。

「あおやまくん、毎日ちゃんと走っているの?毎日走らないとだめだよ。なにせ、京都マラソンを走るんだから。僕は走らないけれど」といった調子である。

「本当は部長と走りたかったんやけど」と愛想を言っても、どうも気持ちが収まらないらしく
「抽選には実力は関係ないしね、運だけだもん」と、諦めきれない様子で皮肉めいた言葉を返す。
とりつく島がない状態であった。

そそくさと、仕事上の担当者のデスクに向かう途中で、運悪く部長と出くわした。
「あおやまくん、どうしたの、まずは走りの恩人に挨拶に来ずに仕事だけ済ませるつもり」
「いや〜部長はん、毎度おおきに、先に用事を済ませてから、部長のところに顔をみせて、いろいろマラソンの件で、お話を伺おう思うてたんですわ」
「そ、じゃあ、あとで僕のデスクまで来てね。僕もいろいろ聞きたいこともあるし」
「ほな、またアトで」

仕事上の打ち合わせを担当者と済ませ、仕方なく部長の席に向かった。
「よー、やっと来たか、こちらにどうぞ」

部長席の近くの打ち合わせデスクに座るように指示される。
「よーこちゃん、あおやまくんにコーヒーを入れてあげてね!」
近くの女性事務員に指示する。こんなことは珍しい・・・・・。

「今月は何キロ走ったの?」
「今のところ月半ばで100キロってとこですかね」
「え〜!頑張ってるんじゃん」
「そうでっか?」
「そうだよ、りっぱりっぱ!で、ちゃんとレース当日までのトレーニング計画はたててるの?」
「え!そんなもんいるんでっか?」

「いるんでっかて、あおやまくん、何いってんの?」
「・・・・・・・」
「だから、困るんだよね、素人衆は!」
「しろうとしゅう?」

「そうだよ、恐れを知らない素人衆って怖いんだよね」
「へーそういうもんでっか?」
京都マラソンの制限時間って知ってる!」
「なんでっか、せいげんじかん?」

「全く、いちいち説明しなくちゃならないの、いやだなー。いい、ちゃんと聞いてよ。フルマラソンだからあおやまくんは42.195キロ走るんでしょ、たとえば、平均1キロ7分で走ったとすると、約300分だから、5時間で完走できるわけです」
「キロ7分でっか?きつそうやな〜」

「その≪キロ7分≫っていう言い方やめてくれる、豚肉買うんじゃないんだから!≪豚ロースキロ980円閉店間際の大特売!≫ってスーパーまつもとのちらしじゃないんだから、ったく!」
「えろーすんまへん」
「京都シティーハーフの制限時間は6時間以内だから、これならセーフなんだよ」
「つ、つまり一キロ7分のペースで走れば、問題ないわけでっか?」
「そう!そういうこと!」
「もうちょっとまかりまへんか?」

「・・・・・あのね〜、さっきも言ったでしょ!ミートショップ弘で値切っているわけじゃないの!」
「ひぇー!そんなまじに怒らんかて・・・・・・」

「じあ〜あおやまくんだから、もうちょっとおまけしてあげまひょ!一キロ8分で走ったとしたら、何分かかる?」
「えーっと、ちょっと電卓貸してもらえまっか、・・・・・340分やさかい、5時間40分でっか?」
「そうその通り!ごめいさん!」
「はーなんとか8分ならいつも走っているペースでっさかい、頑張ればなんとかなりそうでんな」

「とっころが!そーはいかの金玉!」
「きんたま〜!?!?」
「そう、きんたま〜!!!」
「部長、えらい下品でんな〜」

「いちいちうるさいね!いい?16000人の以上ランナーが一度に走り始めるんだよ!素人衆はわからへんと思うけど、≪よ〜いどん!≫の合図が鳴ってもだね、君がすたーとラインをまたぐのに、何分かかると思う?」

「想像もつきまへんわ!」
「そうでしょ!まあ10分はかかるわな」
「そんなもんでっか?」

「そう、そういうものなのよ、これは京都市の条例でね。ゼッケンの順番に並ぶわけ。君はゼッケン7000番台やから、ずーっと後方からのスタートになるね。この順番をごまかして、前に並ぶと、即、京都市条例72条の第3項、京都マラソンスタート位置違反の罪で、懲役3年または、執行猶予5年の刑で逮捕やね」
「そんなあほな!」

「あほ言うたな!あほ言うたやつがあほや!」
「子供みたいな人やな、ほんまに!疲れるわ!」

「なに、ぶつぶつ言っているの?まあーいいや。まず制限時間の6時間から10分を引いたら、5時間時間50分だね?実質的にはそれが君の制限時間になるわけ!」
「はー、5時間50分ならま〜、何とか・・・」

「ところが、スタートラインを過ぎても、まともに走れるわけもなく、西京極陸上競技場を出てもま〜5キロ先の松尾橋までは、もうごったごったの状態やから、思うように走れへん!そのアトもしばらく団子状態が続くから、その状態が悪くすると、嵯峨野を出るまで続くわけ!」
「想像もつきまへんわ!」

「だろうね〜!ごちゃごちゃやから、前のランナーの後ろ蹴りは飛んでくるわ、後ろのランナーの手や肘が飛んでくるわで、もう乱闘状態になるね。もう、バトルロワイヤル状態で、まるで生きるか死ぬかのサバイバル消耗戦やね!」
「ひぇー!そんな殺生な!部長はん、これ京都市の主催でっせ!そんなあほな!」

「あおやまく〜ん!!僕に向かって又「あほ!」ゆーたね!」
「あっ!えろーすんまへん!部長!堪忍しておくれやす!」
「まっ、僕は心の広い人間やさかい、そんなに気にしてへんけど・・・・」
「部長・・・・その割りにこめかみに青筋がたってまっせ!」
「うっ、うっ、うるさ〜い!!!」
「すんまへん!」

「えーか、京都マラソンでランナーの集団が通過したアトのコース上のすさまじい光景を想像してみい?集団の中でぼこぼこにされて気絶したランナーがあっちこっちに倒れているんやで!まるで応仁の乱のアトのような光景や!」

応仁の乱?部長は応仁の乱見たことおますのんか?」
「・・・・・・誰に向かって、ため口たたいてるの?また切れるよ!」
「はー、すんまへん!」
「ったく!・・・・」

「ところが、その状態でハーフを過ぎて、北山通りまでくると、キロ8分ペースが、がくんと落ちるな〜・・・。さらに鴨川の河川敷で30キロを超えたところで、さらにペースが落ちると思うよ。やから、ハーフを過ぎて残りの距離21キロの平均タイムがキロ10分から、悪くすると12分ぐらいかかると思うよ・・・。

すると、スタートしてからスタートラインを過ぎるまでのロスタイムが10分。前半のハーフがキロ8分かかったとして、約2時間50分だね。そして残りのハーフがキロ10分として3時間30分・・・。合計すると6時間30分で、制限時間アウト、って〜ことになるね〜・・・。さらに、途中トイレの行列に並んだり、エイドで補給食を取ったりしてたら・・・」

「ひぇー!そんな殺生な・・・とほほ」
「でも理論上はそうなるわな〜・・・」

「だからね、あおやまくん、それなりの計画をたてて、練習しないと、完走は難しいというわけだよ、わかるね」
「はー・・・・・・」

「まーいきなり素人衆が完走ペースで走ったら・・・・・・・」
「は〜?」
「ちょっとこの先は言えないね・・・」
「そんな、部長〜、途中までゆうといて先をいわへんやなんて、あんまりでっせ・・・・」
「いやね、あんまり、厳しいこと言って、君の純粋な決意に水を注すようなことも言えないしね・・・・」
「大丈夫やから、どうかゆーてください、この通りだ、お願いしま!」

「そう?じゃ言うよ、素人衆が完走ペースで走ったら、まず、・・・・」
「まず・・・」
「死ぬね・・・」
「え?なんかいわはりました?」
「だ・か・ら・・・・死ぬ!っちゅーとんじゃわれ〜〜〜〜!!!!」
「ひぇー!、ぶちょう!失礼しま〜す!」

「ちょっと、あおやまく〜ん!突然どうしたの!そんな逃げるように帰らんかてえーやないの!お〜い!おおやまく〜ん!」
「そやかて・・・・わて、死んでまで走りとないし!!!」
「だ〜か〜ら、ここはいっちょ、僕が代わりに走ってあげようか、ゆーとるんじゃ!どう?代わってあげようか?」
「ちょっと、よ〜考えてきまっさ!ほな、さいなら!」

あおやまひろし35歳は、逃げるように会社をたち去ったのであった。