お願い 

 当ブログは多くの方にご覧頂くことを念頭に置いておらず、実証分析に耐えるような代物ではない生煮えの意見を載せていることが多いです。
 寧ろ自分が今後分析しようとする際の仮説としてどんなものがありえるかといった観点でメモ書きしているに過ぎません。研究やレポートということであれば、(重々ご存知のところかと思いますが)このような場末ブログの記事ではなく、素晴らしい書物や論文があまた存在しますので、そちらを読むのが王道ですし、遥かに有意義です。そして、私自身単なる一経済学徒です。
 誤解をされる方は余り居ないと思いますが、何卒ご寛容の程、お願い申し上げます。リンク等々はご自由に。

伊藤正直『なぜ金融危機はくり返すのか』、ジョセフ・E・スティグリッツ『フリーフォール』、宇沢弘文・内橋克人『始まっている未来 新しい経済学は可能か』

 様々な本が積読状態となっている訳ですが、あまりそれには構わず買える時に購入しようということで、新たに購入した書籍のご紹介。
 まず一冊目の伊藤先生の本ですが、こちらは現代の金融危機を考えるために、金融危機を横断的に捉える視点と歴史的に捉える視点の二つを考慮しながら纏められた書籍です。わかりやすくかつ伊藤先生の過去の著作と比較すると分量は多くは無いのですが、非常に勉強になった書籍。恐らく邦語文献で過去の金融危機を包括的に整理した上で直近の動向(2009年9月の金融サミットあたりまで)を考慮した書籍は他には無いのではないかと思います。今の段階で広く読まれるべき本だと思います。
 二冊目はご存知、スティグリッツの新作です。焦って洋書でも購入したのですが、邦訳版が出てますのでこちらも購入。現代の金融危機を契機としてアメリカ経済をいかに再生させるか、又経済学をいかに再構築するか、といった論点が論じられていると思います。後はスティグリッツの視点からアメリカ経済というものがどのように映っているのか、この点が関心があって購入。まだ十分読めていませんが、この問題意識は拙著でも少しだけ提示しています。
 三冊目は宇沢先生、内橋氏による対談を纏めたもの。個人的には展開されている事実認識について疑問に思うところや、フリードマンに対する苛烈とも言える記述については辟易する部分もありますが、「市場原理主義」に対する批判は理解できるところです。社会的共通資本や新しい経済学といった視点については考えていきたいと思っています。


なぜ金融危機はくり返すのか―国際比較と歴史比較からの検討

なぜ金融危機はくり返すのか―国際比較と歴史比較からの検討

フリーフォール グローバル経済はどこまで落ちるのか

フリーフォール グローバル経済はどこまで落ちるのか

始まっている未来 新しい経済学は可能か

始まっている未来 新しい経済学は可能か

勝間和代・宮崎哲弥・飯田泰之『日本経済復活 一番かんたんな方法』、上念司『デフレと円高の何が「悪」か』

 ご存知、光文社新書として本日発売された勝間・宮崎・飯田三氏による鼎談が収録された著作。世界金融危機震源地であった欧米が紆余曲折を経ながら着実に景気回復の途に入っている一方で、直近の2009年第4四半期のSNAからも明らかなとおり、我が国の経済状況は「デフレ」の深刻化が観察されるという状況です。デフレは既に10年超続いている訳ですが、この間日本経済は様々な問題を内包・深化させる形で推移してきました。
 現状を打開するためには何をすべきか、お三方による本書にはその解答が書かれていると思います。内容をざっと拝見した限りですが、経済学を学び・利用する人間にとっても耳の痛い話もあるようですね(汗。勉強したいところです。
 既に各所でご紹介されているところですが、光文社新書として先月公刊された上念司氏の『デフレと円高の何が「悪」か』も非常にわかりやすくポイントをついた著作です。こちらもあわせてご覧になると吉かと。

日本経済復活 一番かんたんな方法 (光文社新書 443)

日本経済復活 一番かんたんな方法 (光文社新書 443)

デフレと円高の何が「悪」か (光文社新書)

デフレと円高の何が「悪」か (光文社新書)

中村宗悦「「高橋財政」に対する新聞論調−『東京朝日新聞』社説の分析−」を読む。

 歴史科学協議会編集の『歴史評論』3月号の特集は、「1929年世界恐慌と日本社会」と題されている。井上財政の失敗と高橋財政の成功については、これを「歴史の教訓」として肯定的に捉える論調と、恐慌から戦争に至る過渡期として捉える論調の二つがあり得るだろう。前者はエコノミストが好んで用いる論調であり、後者は日本経済史のテキストで語られる論調である。
 勿論二つの論調の相違と断絶をどう捉えるかという論点はあるが、この特集では、世界恐慌前後期における経済政策やこれに対する日本社会の反応を多面的に解釈することで、複雑な社会背景を浮かび上がらせようということを意図している。本特集では6編の論文が収録されているが、以下では、その中で中村宗悦氏の論文を感想を交えながら簡単に取り上げてみたい。ご興味のある方は(門外漢の誤解等も十分あり得ると思うので)是非取り寄せてお読み頂ければ幸いである。
 中村論文では、東京朝日新聞の社説を丹念にたどることで、金輸出再禁止から馬場財政への転換までの時代の経済政策に対する公衆の反応がどのようなものであったかを明らかにしている。
 岩田規久男編『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社)に納められた論文(「金解禁をめぐる新聞メディアの論調」)では、『東京朝日新聞』と熾烈な購読者競争を繰り広げていた『大阪毎日新聞』の論調を取り上げて、メディアの論調と政策との関係が考察されていた。内容を簡単に要約すれば、a)金解禁に関する経済学者・エコノミストの論考は殆ど見当たらなかった、b)一方で金解禁に関する解説記事は頻繁に見られた、c)金解禁から金輸出再禁止に至る期間では、新聞の明確な論調の転換はなく、寧ろ一貫して産業合理化や不良債権処理の断行を旨とする井上財政の清算主義に親和的な論調であった、d)1932年以降に高橋財政が本格化しはじめても、新聞はリフレ政策による景気回復を「空景気」として警戒感を弱めていないが、明確な金融政策の転換が進み景気回復が本格化するとともに、「空景気」とする論調は影をひそめていく、ということだろう。
 掲題の論文は、発行部数が若干多い『東京朝日新聞』を取り上げつつ、金輸出再禁止、赤字公債の引受け、5.15事件、公債漸減主義の採用、2.26事件、馬場財政といった6つの政策転換において『東京朝日新聞』の論調がどのように変化していったのかという点が分析されている。順次見ていくことにしよう。

1.金輸出再禁止前後 まず、「金輸出再禁止」直後の1931年12月〜32年3月までの論調については、金輸出再禁止の決定(1931年12月13日)と、犬養内閣による「新内閣の予算方針」(1931年12月18日)に対する反応が対象となる。金輸出再禁止が決定された翌日の社説は、金本位制を「国内及び国際間の貸借関係を公正なものにするための唯一の制度」として、眼前の苦痛、つまり昭和恐慌の苦難を緩和するために撤廃することは好ましくない、と論じている。また、「新内閣の予算方針」については、増税や緊縮財政の緩和については賛意を示すものの、公債の増加の可能性には批判的で、さらに公債の増加によりインフレが進むことについても批判的であった。そして金輸出再禁止による為替の下落に際して「対外信用を失墜せしめ、為替を惨落させ、円貨の価値を暴落させ、それによりて国内産業を振興せしめようとすること程不堅実な方策はない」と痛切に批判している。さらにインフレに対する懸念も述べられている。例えば「大多数の国民は収入の増加なく、購買力の増進ないのに物価の急落、従つて生ずる生活苦の増進に脅威されている」とある。


2.日銀の赤字公債引き受け
 次の局面は高橋が日銀による赤字公債引受策を表明した1932年3月8日の局面である。この時期の論調は、インフレ政策が財界の利益となることを評価しつつも、それが一時的な人気取りを人為的な形で引き起こす政策で、放漫財政の旗振り役として機能することを恐れるというものであった。つまり、デフレかつ不況に陥っていたという現状において、インフレを伴う財政赤字の拡大を懸念し、「空虚な景気論に迷わされることなく、財政悪化を阻止して立て直しをはかるべき」との論調である。
 このデフレ下での赤字公債発行を伴うインフレ政策への批判は、思うように景気が回復しない当時の状況とハイパーインフレへの懸念とが結びつくことで、インフレをコントロールすることの不可能性を指摘する事に繋がる。以上のように、日銀の赤字公債引受策が発表された当初では、1.の清算主義的な論調の影響も相まって、ハイパーインフレと放漫財政への懸念が表明されていたのである。


3.5.15事件と公債漸減主義への転換
 5.15事件以降に成立した斎藤内閣から公債漸減主義への転換が図られていくまでのこの時期は、高橋財政により着々と政策が実行され、インフレと実体経済の回復が進んだ時期であった。1933年4月にアメリカが本格的なインフレ政策へと転換すると、新聞の論調が「インフレ政策」に対して親和性を持つものに変わっていく。しかし、この「インフレ政策」の効果は一時的で、以下のような根本的な日本経済の問題を解決するものではないと捉えられた。
 中村論文では、当時新聞が認識していた日本経済の5つの問題点を指摘する。一つ目は赤字公債の発行の中での軍事費の膨張についての懸念である。二つ目は、増発された公債の市中消化能力の限界と増税の必要性についてである。三つ目はインフレについての懸念である。つまり、インフレが進むことで財政上の悪影響が生じることを懸念していた。四つ目は財政支出と公債発行そのものが問題の根本であるとの認識である。五つ目は、為替についてである。貿易が好調に推移したのは為替の急低下によると新聞は指摘していたが、一方でこの貿易の拡大の原因は満州への輸出拡大といった貿易構造の変化にも依ると指摘していたことである。
だが、高橋蔵相が赤字公債漸減を明らかにすると、新聞は高橋の表明に賛意を示すことになる。更に遠慮がちに述べられていた増税策についても明確な肯定が表明されるようになり、財界の一部で増税の余力が生じているとの指摘もなされるようになった。
 1935年初の社説では、1934年の経済状況を総括して、不測の災害を蒙った農村方面の窮迫といった状況は生じたものの、日銀の国債引き受けと低金利の平準化、為替の低位安定に基づく輸出の好調、軍需品及び輸出関係事業の活況を評価している。また1935年半ば以降の局面では一時的な景気後退はあるものの、その影響は軽微であるという観測であった。1936年後半においては、高橋が進める赤字漸減政策について新聞の論調は好意的である。だが、一方で軍部をはじめとする圧力も存在しており、健全財政主義を時代遅れと言いふらす論者も少なくないという情勢であった。


4.2.26事件以後から馬場財政まで
 そして1936年2月に2.26事件が生じる。これにより高橋は暗殺され、日本の針路は転換点を迎えることになる。高橋財政に対する新聞の評価は以下のようなものである。つまり、「中心は公債価格の維持によるインフレーションのコントロールであり、4年間に渡ってインフレーションを操作するにあたって、さすがの高橋も健全財政の建前まで退却せざるを得なかった、しかもこの政策も根本においては行き詰まりという状態にあった」というものである。そして今後の財政政策に関しては、高橋財政での健全財政を一歩進めなければ、名人芸により支えられた金融及び為替の安定は不可能であるというのである。
 馬場財政においては「庶政一新」、「国民の生活安定」がスローガンとして掲げられた。新聞は馬場財政の増税路線と積極財政主義への転換を好意的に捉えたものであったが、公債増発による拡大予算が軍部の要求を呑む形で成立すると、新聞の論調も準戦闘態勢へと転じていくことになるのである。


5.感想
 以上駆け足で中村論文の内容をまとめてみた。内容を読むと、当時と現在の新聞の論調が似通っている点に改めて驚く。
 例えば、1.のくだり、つまり、安易な増税は現下の不況下では好ましくないとしながらも、一方で財政出動の為の赤字国債の発行には批判的で、インフレが生じた場合に当初生じうる実質所得の低下に対する懸念が表明されるといったところは現在の新聞論調と同じである。
 そして、『昭和恐慌の研究』で納められている論文の論点のd)が『東京朝日新聞』の社説においても確認される。つまり、金輸出再禁止後においても新聞の論調は変わらず、「インフレによる景気刺激が有効ならば、世の中に不景気打倒ほど容易なものはない」という議論である。この点も、現在の停滞を様々な構造的要因に求め、インフレなどといった小手先の対策では容易に解決しないという一部識者の議論をトレースしている。結局80年経っても何も変わってはいないのである。
 奇しくも現在、デフレが深刻化するとともに財源確保がうまく進まないこともあって、鳩山政権の周囲では消費税増税議論がにわかに生じている。菅副総理は昨年の勝間氏とのヒアリングで「そんな簡単にいくのか」とインフレ・ターゲティング政策への懸念を表明した。これらの点を念頭に読むと、まさに当時の『東京朝日新聞』の論調と現代のマスコミや政策担当者の認識との間に共通点を見出すことができる。
 もう一つ論点がある。新聞は当時「庶政一新」、「国民の生活安定」をスローガンとした馬場財政を好意的に捉えた。この二つのスローガンは民主党が政権を奪取した際のスローガンと類似してはいないだろうか。馬場財政は増税と積極財政という二つの政策を旨としていた。現在において確認できるのは、「国民の生活第一」という旗印の元で予定されている「子ども手当」といった積極的な財政政策であり、一方で無駄な予算の削減は思うように進まず、経済の停滞も相まって増税が議論されるという状況である。
 勿論、現代は今と違い軍事費の膨張が際限無き財政膨張を生み出すことはないだろう。しかし政局の混乱の中で、なし崩し的に増税と歳出拡大という道に進んでいくのではないかという懸念も拭えない。我々は80年前の失敗から脱することは不可能なのだろうか。成功の経験から学ぶことはできないのか、そんな感想をもってしまうこの頃である。

歴史評論 2010年 03月号 [雑誌]

歴史評論 2010年 03月号 [雑誌]

昭和恐慌の研究

昭和恐慌の研究

橋本五郎『範は歴史にあり』を読む。

 読売新聞特別編集委員を勤めていらっしゃる著者のコラムを一冊の本にまとめたものである。一つ一つが短いので空き時間に気楽に読めるが、中身は色々と考えさせることが多い。本書のあとがきに御母堂が著者に対して言われた三つのことが書いてある。曰く、第一に、何事にも手を抜くことなく、全力で当たれ、第二には、仕事に慣れてくると生意気になる、傲慢になってはいけない、常に謙虚であれ、第三は、どんな人でも嫌いになることはない。その人に自分より優れているところを見つければ、嫌いにならないものだ、と。文章からはこの三つに対して真摯に向きあってきた著者の心根が感じられる。
 さて、内容は三部構成で、最初が「範は歴史にあり」、次が「現代政治を読む」、最後が「あの人・この人――同時代を生きて」となっている。
 「範は歴史にあり」では福澤諭吉後藤新平及び岩倉使節団について語られたコラムが興味深かった。私のみるところ、「失われた20年」を経過し、新たな10年の最初の年を迎えた我が国では海外の状況を謙虚に学び自らに活かすという進取の機運が失われているようにも感じる。一方で異論もある。例えば大塚久雄氏について書かれたコラムでは経済と倫理との関係について書かれていた。バブルに酔い、そしてすべてを失った人や金融機関に対して倫理感の欠如を指摘するのは容易い。しかしそもそも人間とは、許されれば強欲に走り、富を得ようとする存在ではないのだろうか。こう考えると、我々の経済活動を支える枠組みやそれに影響を及ぼす政策といったものが、人間の持つ生の本性を顕わにして、「倫理観の欠如」として表出したのではないか、という見方も可能となる。
 「現代政治を読む」では、小泉・安倍・福田政権に対する批判と警句がまとめられている。民主党政権となった今にして読むと懐かしい感じがするが、新たな政権になったとは言え政策担当者の性根に変化があったわけではない。現代の政治に不在なのは、「知性」と付随する「言葉」の欠如であり、ビジョンと覚悟のなさだろう。
 「あの人・この人――同時代を生きて」は、橋本氏と同時代を生きた人々について綴られている。中でも高坂正堯李登輝について語ったコラムは印象に残った。政治家には決めたことを断固としてやり遂げる意思が必要である。しかし、その意思は現実世界に関する冷静な観察眼と民意を汲み取る謙虚さが伴ってこそであろう。
 鳩山総理にはこの二つの要素が備わっているのだろうか。私には寧ろ、この二つがかけていることこそが現政権の問題であり、民主党政権を選択した国民自身の問題なのではと思うのである。

範は歴史にあり

範は歴史にあり

atプラス03号

 毎回見本版を頂いているのにご紹介できず仕舞いだった「atプラス」。申し訳ありません。稲葉先生の論考が面白そうなのですが、いかんせん途中までしか読むことが出来ないので、やはり購入するしかないのかなぁ。

 気になったのですが、次号(04号)の特集は「エコノミストはなぜ、経済成長の夢をみるか」とのこと。う〜む・・・・。

atプラス 03

atプラス 03

R.スキデルスキー『なにがケインズを復活させたのか?』(山岡洋一訳)

 楽しみにしていたスキデルスキーの最新作。原題はKEYNES:THE RETURN OF THE MASTERなわけですが、この題名からはヨーダを連想するのは仕様でしょうか。第二章あたり(淡水と海水とか、現代的なマクロ経済学への批判的視点の議論)あたりから段々と本領発揮な予感がしますね(笑。じっくり読みたい本です。
 山岡氏のあとがきも読みましたが、『説得評論集』に収められているケインズの論文をピックアップしつつ『自由放任主義の終わり』の全文を加えた時評集も刊行されるとのこと。現代的な話題ということならば、『説得評論集』中にあるインフレーション・デフレーションに関する論文を加えて欲しいし、そうなっていると期待。

なにがケインズを復活させたのか?

なにがケインズを復活させたのか?