現代小説における時間(人物の意識の内部を流れる時間)                  ----------『燈台へ』 

 ヴァージニア・ウルフは、1919年あるエッセイの中で次のように書いた。
 「平均的な一日における平均的な情緒について、ほんの一瞬でも吟味してみるがよい。情緒は、おびただしい印象を-------すなわち些細な印象、幻想的な印象、漠然とした印象、あるいは鋼のように鋭利に刻み込まれる印象を受けとめる。それらは四方八方から、無数の原子が絶え間なく降りそそぐようにやって来る。作家が奴隷でなく、自由であるならば-------作家が自分の作品を、因襲にではなく、己れ自身の感情に基づいて作ることができるならば、在来の意味での筋や、喜劇も悲劇も、また恋愛感情やカタストローフも存在しないであろう。人生は、規則正しく並べられたアーク燈の列が切れ目なく輝いているようなものではなく、散乱する光のようなもの、われわれの意識を初めから終わりまで包んでいる透き通る被膜のようなものである。この移ろうもの、未知なもの、言い換えのきかないものを--------たとえそれがいかにもつれた複雑なものであろうとも--------再現することが小説家の課題ではないだろうか。」Zitiert in Wolfgang Kaiser:Entstehung und Krise des modernen Romans.5.Aufl. Stuttgart 1954, S.488-514.
 この文章には、現代小説の歩むべき方向とその危機が、鋭敏な感覚で一世代も二世代も早く先取りされているように思われる。
 次に引用するのは、ヴァージニア・ウルフの小説『燈台へ』(1927年)の第一部第五章の全文である。ラムゼイ夫人は、ロンドンの有名な哲学教授の妻で
五十歳に手のとどく年齢ながらたいへんな美貌の持ち主である。ラムゼイ一家は、夏休みで、スコットランドの北の果てヘブリデイーズ群島の一つ、スカイ島にある別荘に滞在している。この別荘には、ラムゼイ夫妻と八人の子供たち、それに数人の客たち、他に召使たちも滞在している。ラムゼイ夫人は、末息子の六歳になるジェイムズを相手に別荘の窓辺に座って(ちょうどその時、ラムゼイ教授の友人で、年配の男やもめウィリアム・バンクスと女流画家のリリ―・ブリスコが窓の外を通りかかる)、燈台守の息子に贈る靴下の寸法を測っている。つまり、明日天気がよければ、燈台へ船出をすることになっていて、燈台の住人のために沢山贈物の準備がなされ、その一つがこの靴下編みなのである。ジェイムズは船出の知らせを聞いて大喜びするが、「明日は天気がよくないだろう」と父親が水をさして、ジェイムズの期待をぶち壊す。皆が部屋を出ていったあと、ラムゼイ夫人はジェイムズを慰めようとして言葉をかける。(続く)