オバマ時代とは何だったのか。

(この記事は、トランプ氏が米大統領として選ばれる前に、慶応大学教授渡辺靖氏が朝日新聞に寄稿した論攷に基づいて、筆者が自分なりにまとめたものであることを、予めお断りしておきたい。)
 バラク・オバマ大統領に関して最も印象的なのは、強靭な理想主義者であると同時に、冷徹な現実主義者であるという点である。例えば、2009年のノーベル平和賞につながった「核兵器なき世界」を訴えたプラハ演説(フラチャニ広場で行なった)は理想主義者の側面を、「世界に悪は存在する。時に武器は必要である」と訴えたオスロでの受賞演説は現実主義者の側面を、それぞれ映し出している。
 私たち日本人にとって記憶に新しいのは、5月の広島訪問である。現実主義の立場に立てば、現職米大統領被爆地訪問は政治的リスクでしかない。究極の目標としての「核兵器なき世界」という理想主義なしではあり得ない大胆な行動であった。その一方で、実現するにあたっては、数年かけて入念に布石を打ち、国内外の世論とタイミングを慎重に見定めた。
 理想主義と現実主義という二項対立の昇華にこそ、「オバマイズム」の本質と真骨頂があった気がする。
 もう一つ印象的なのは、新たな時代の変化に合致するように、彼が米国の自画像(アイデンティティー)を刷新しようとしたことである。
 まず国内的には、アフリカ系として初めて米国大統領に就任したこと、就任演説で無宗教者の尊厳を擁護したこと、米大統領として初めて同性婚支持を表明したことなどである。これは白人やキリスト教徒の比率が低下し、人口構成や価値観が多様化する米社会を象徴するものである。
また、格差拡大や中流層の没落、金融危機リーマン・ショック)など、「自由」の名の下に社会正義がむしばまれている状況を是正すべく、金融規制改革、医療保険制度改革オバマケア)等、連邦政府による規制や関与を強化した。真の「自由」のためには、放任主義ではなく、政府の一定の介入が必要だとする米国流のリべラリズムの再来である。
 次に対外的な外交面では、「米国は世界の警察官ではない」と公言し、相互依存の深化や新興国の台頭といった国際環境の変化を踏まえた上で、関係国に負担共有を求めてゆく方向を打ち出す。一方、歴史的なパリ協定の締結に見られる気候変動への対策や核拡散防止といったグローバルな課題では、むしろ先導的な役割を果たした。
 しかし中東の状況に目を向けると、シリアの化学兵器使用を「超えてはならない一線」と表明したにもかかわらず、軍事行動のタイミングを逸した件は、米大統領や米国の権威失墜の象徴として多くの同盟国の不信と不安を招いた。
 中東からアジア太平洋への戦略的リバランス(再均衡)を急ぐあまり、米軍撤退後のイラク
―――ひいては中東全体ーーーの青写真をおざなりにし、結果的に力の空白を生じさせ、ロシアやイランの影響力拡大、あるいは過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭を助長したとする声も根強い。
 オバマ大統領による国内的・対外的な米国のこうした自画像の刷新は、米社会とそれを取り巻く国際環境の変化を意識したものであろう。と同時に、ケニア人を父に持ち、ハワイで生まれ、インドネシアで幼少期を過ごし、シカゴの貧困地域で社会活動に従事するなど、歴代大統領とは異なる生活背景や経験を有することを考えれば、オバマ大統領は米国の価値観や正義に対してより謙虚で、自省的なのかもしれない。
 自画像刷新の成果については、保守派、リベラル派、熱心な支持者を問わず、各方面からさまざまな疑問や不満、あるいは懸念が挙げられているが、その理由としては、政治経験が浅いまま一気に大統領の座を射止めたことや、孤高と思弁を好む性格もあり、泥臭い根回しや駆け引きが不得手な面があげられよう。
 いろいろな評価があるにせよ、この8年間を見る限り、大きな醜聞もなく、清廉潔白かつ冷静沈着な態度を貫いた点では、党派を超えて賞賛の声があがるのも当然であろう。
 その一方で、オバマ時代とは、米国の社会や政治をもはや一元的に一国内の問題として捉えられなくなった8年間であるということも否定できない。

 米国大統領選挙は、大方の予想に反して、トランプ氏の圧倒的とも言うべき勝利に終わった。米国はもはや United States of America ではなく、Divided States of America と称するべきなのかもしれない。(筆者の感想)