2014年09月07日のツイート

書評
阿羅健一 『謎解き「南京事件」 東京裁判の証言を検証する』
           株式会社PHP研究所 2014年1月8日発行


  はじめに
 著者に印税を払うのは嫌なので、古書で入手した。
 本書は、読売新聞の書評サイト「本よみうり堂」において短評として紹介されている
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/briefcomment/20140212-OYT8T00927.html
参考までに引用しておく。

30万人とされる犠牲者数をめぐって中国人学者からも疑問が出されている「南京虐殺」事件について、極東国際軍事裁判東京裁判)での証言などを細かく検証。
 戦後、事件がクローズアップされていった歴史的な経緯や当時の国際情勢などについても詳しく解説する。(PHP研究所、1500円)


 この短評を読めば、もしかして研究者が、一般向けに、客観的?な研究成果を解説した本を出版したともとれる。
 しかし、まず、著者名を見れば、ほぼ内容は見当がつく。そして、一読して見当をつけたとおりの内容であった。
 すなわち、リビジョニストが書いた歴史捏造本、否認主義の本である。
 読売は、以前からこうしたリビジョニズムと親和性が高い論調であったが、まさにその論調どおりの短評であるといえる。はっきり言って、恥ずかしくないのであろうか?ほとんどの読売の記者はリビジョニストではないと信じているが、こうした論調をどう思っているのであろうか?
 読売の話から本題に戻し、学術雑誌に投稿するようなイメージで、以下に書評をしてみようと思う。

 『謎解き「南京事件」 東京裁判の証言を検証する』(以下「本書」という)は、阿羅健一氏による「南京事件」についての一般向けの本である。本書の意図は「南京事件の真実は何か。ここでは、東京裁判で検察官がどのような証拠を提出し、それに弁護側はどう反論したか、そして判決はそれらをどう取り入れたのか、それを振り返り、検討することにします。」(13頁)である。
 阿羅氏の経歴は、本書(奥付の頁)によれば、次のとおりである。
 1944年、宮城県に生まれる。評論家。近現代史研究家。東北大学文学部卒業後、1966年、キングンコードに入社。1984年からフリー。「百人斬り訴訟を支援する会」会長や「中国の抗日記念館の不当な写真の撒去を求める国民の会」会長を務める。また、「主権回復を目指す会」や「田母神論文自衛官の名誉を考える会」の顧問も務める。著書には、『ジャカルタ夜明け前 インドネシア独立に賭けた人たち』(勁草書房)、『「南京事件」日本人48人の証言』(小学館文庫)、『【再検証】南京で本当は何が起こったのか』(徳問書店)、『日中戦争はドイツが仕組んだ 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』(小学館)、『秘録。日本国防軍クーデター計画』(講談社)などがある。

本書の構成は次のとおりである。(目次を引用、文末の数字はページ)
まえがき――事件の経緯 1
第一部 東京裁判が判定したことは事実か
 第一章 最初の二、三日で男女子供一万三〇〇〇人が殺害されたか 24
   対立する死者目撃の証言 24
   一万二〇〇〇の死体を完全否定する文書 31
   検察側の証言はすべて崩壊した 37
 第二章 二万人が強姦されたか 42
   前代未聞の不法行為はあったのか 42
   ここでも検察側の証言をすべて採用 45
   どの資料にも証拠となる記述がない 50
 第三章 欲しいものはなんでも奪ったか 58
   単なる伝聞の記録を主張する検察 58
   掠奪のほとんどは中国人によるものだった 65
 第四章 南京の街の三分の一は燃え落ちたか 71
   南京の大火災は自作自演だった 71
   放火どころか消火に努める日本軍 76
 第五章 二万人の一般男性は殺害されたか 83
   独り歩きする二万という数字 83
   掃蕩戦が明らかにしたものとは 90
   戦時国際法を無視する便衣兵の行方 99
 第六章 郊外で五万七〇〇〇人の一般人が殺戮されたか 104
   たった一人の証言が大量殺数の証拠に 104
   一万五三〇〇余の中国兵を捕らえる 107
   偶然が重なった捕虜解放の顛末 111
 第七章 降伏した三万人の中国兵は殺害されたか 117
   これほど荒唐無稽な証言はない 117
   城外での遭遇戦がもたらすものとは 120
   水増しされた数字と目撃の真相 125
 第八章 二〇万人以上が殺害されたか 131
   作為された埋葬死体数は何を意味するのか 131
   人口の推移から明白になった市民殺数の嘘 136
   慈善団体の活動をここまで偽造するとは 142
 第九章 日本は事件を認めていたのか 149
   当事者の知り得ないことを法廷が認める 149
   一〇か二〇の事件が何百、何千に膨張する 155
   召還を不法行為の証拠と見なされる 160
第二部 事件が言い出された理由
 第十章 なぜ南京事件は持ち出されたのか 166
   1-事件を起こす原因はあったのか 166
     苦戦と日本軍の体質が原因なのか 166
     南京戦の戦死傷者は上海戦の一〇分の一以下 170
     事件の原因は日本軍が存在したという妄言 175
   2-ドイツ人の証言は信用できるのか 179
     本当に信憑性のある中立的証人か 179
     あまりにも中国寄りの委員長 181
     日本との開戦を進言する軍事顧問 184
   3-なぜ南京事件は持ち出されたか 188
     日本の戦時宣伝は他国に比べて劣っていた 188
     中国には「通電」という謀略戦が下地にあった 195
     親中宣教師たちの捏造は、ある意味当然だった 202
   4-なぜ中華人民共和国南京事件を言い出したのか 212
     三光政策という批判の対象が変わっていく 212
     どんなに日本を非難しても南京事件は持ち出さなかった 217
     戦後日本を批判するためだけの道具になった 223
あとがき 227
主な参考資料

 以上のような構成になっており、文章は平易で読みやすい。(学術的な書評であれば、ここで内容を詳しく紹介するところであるが、それは歴史捏造及び否認主義に手を貸すことになるので、目次の紹介にとどめておく。)

 しかし、その内容については、相当に問題があると言わざるを得ない。以下で、まず、南京事件について簡単にふれ、その後、問題とすべき部分のうち主なものを検討してみたい。

   1 南京事件について
 日本史の研究者の間で合意されている南京事件は、おおむね次のようなものであろう。

日中戦争時の1937年(昭和12年)12月、大日本帝国陸海軍が、中華民国の首都南京市を攻撃、占領し、翌年にわたって中国軍の敗残兵、捕虜、一般市民などを殺害したほか、略奪・強姦・放火等をした事件。その終了時期については、秦郁彦が2月末、笠原十九司は、3月28日の中華民国維新政府の成立時期が終結の画期としている。犠牲者数は少なくとも4〜5万人で、中国の主張する30万人説も明確に否定できる史料は存在しない。

 このように事実認定されている南京事件であるが、一部のリビジョニストは、南京事件そのものが存在していなかった、あるいは、虐殺等はあったが、ごく小規模なもので、戦場ではよくある程度のものしかなかったと主張している。
 すなわち南京事件の事実については、
(1) 前記の史実を認める通常の研究者(史実派)
(2) 数千人から2万人程度の虐殺があったことを認める者(虐殺少数派)
(3) せいぜい数十人の「戦場ではよくある程度」の虐殺しか無かったという者(まぼろし派)
の三つに分類される。このうち、(2)については、虐殺が東京裁判の事実認定よりも少ないことをあげつらう者もいれば、たとえ少数でも虐殺があった事を認め反省の態度を示す者などがいる。
 旧帝国陸軍将校等の親睦団体である偕行社においても、自身が収集した南京戦関係史料において虐殺等があった事は否定できないという結論に達した事実があり、「あったか・なかったか」の観点では、あったということで確定しているというのが、歴史学の研究者の一致した見解であり、(3)は成り立たないのは明らかである。これまで査読付き学会誌に掲載された否定論または小規模論は存在しない。

 以上のような南京事件についての共通認識を持った上で、次節から実質的な書評に入りたい。

   2 問題点の一部
 本節では、問題点の一部を取り上げるが、基本的にほぼ全部の項目で同じ事が当てはまる。すなわち、日本側の弁論は無批判に紹介し、検察側の主張は、批判的に取り上げ、いかにも東京裁判の判決が間違っていたかのように印象づけていることである。
 その弁論及び検察側主張を検討する際の資史料について、出典を明らかにする事なく、単純に日本側の都合のいい証言だけを取り上げ、判決を批判するのである。
 本来、判決を批判するのであれば、出典をはっきりさせた史料を数多く提示し、その史料から読み取れることでもって批判がなされなければならないが、こうした事は、一般向けという制約があるにしても、まったく行われていない。
 また、基本的に弁護側の証言は肯定的に取り上げ、検察側の証言は否定的に取り上げているが、なぜ肯定するのか、なぜ否定するのかは明確な根拠は示されていない。まさに「歴史に強くない読者を欺くための本」であるといえる。
 一例を挙げてみよう。
 

36・37ページ
 東京裁判の証言によれば、南京は死体がごろごろしている街とされましたが、十五日に安全区に入った同盟通信の前田雄二記者は、次のように記述しています。同盟通信は、戦後、共同通信時事通信に分割される通信社です。
「私は、車で城内を回った。住民居住区は『避難民区』とされ、その周辺には警備隊が配置されていた。私たちは、旧支局が区内にあるとの理由でなかに入った。まだ店は閉じたままだが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ」
 東京裁判の証言とまつたく違い、安全区は平和だったと記述しています。
検察側の証言はすべて崩壊した
 それでは一万三〇〇〇人の殺人はどうなのでしようか。前田記者はこのようにも記述しています。
「占領後、難民区内で大規模の掠奪、暴行、放火があつたという外電が流れた。これを知って、私たちはキツネにつままれたような思いをした。というのは、難民区は入城早々指定され、将兵の立ち入りが禁止された。そして入城式のころから難民区内でも区外でも商店が店を開けはじめ、同盟班も十八日には難民区内にあつた旧支局に移動していた。これは区内の治安が回復したからのことである」
 噂はあったが、殺人などまつたく起きていなかった、と記述しています。

 このように同盟通信の前田記者の記述を通して、東京裁判における検察側の証言を否定しているが、実際には前田記者は、多くの死体と殺人現場を目撃している。http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/maeda.html
 検察側の証言を否定する材料は前田記者の記述だけではないが、この一点をもってあとは推して知るべしということである。
 ほかにも日高六郎参事官の証言を各所でとり上げている。
 一例を挙げよう。
 

日高信六郎参事官は、戦争が始まるまで南京の総領事館にいて、戦争が始まると上海に移りました。その日高参事官が証言台に立ちました。
 一九三七(昭和十二)年八月に始まった上海の戦いは激しく、上海派遣軍司令官の松井石根大将が上陸できたのは九月十日になってからですが、上陸したその日、さっそく松井司令官は日高参事官と会談し、そこで日高参事官に、
「食糧その他の物資を徴発した場合には公正な対価を支払うこと」
 を話し、さらに日高参事官によれば松井軍司令官はこうだったといいます。
「住民が逃れ去ってその場にいないときなどには、いかにして支払いをするかというようなことについていろいろな考えを述べ、また、これらの点については告示をして、一般民衆に知らせて安心させるつもりであると言われました」
 部隊を率いる最高司令官として松井大将は軍紀に気を配り、日高参事官に会うと真っ先に軍紀について話し、守るべきものの三番目に徴発を挙げていたのです。

 しかし、日高参事官は、極東軍事裁判が終了した後、大幅に証言を変えており、明らかにこちらの方が正しいと思われるのである。
http://www.geocities.jp/yu77799/hidaka.htmlから

 しかし、何と言っても、残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。たとえば捕虜の処遇については、高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、実際には、入城直後でもあり、恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって累々を打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不愉快であった。
 しかし、心がけのいい軍人も少なくなかったし、憲兵もよくやっていたが、入城式の前日(十二月十七日)憲兵隊長から聞いたところでは、隊員は十四名に過ぎず、数日中に四十名の補助憲兵が得られるという次第であったから、兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。
 戦争がすんでホッとしたときに、食糧はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして燃す前に、床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。
 問題はこのような放火、殺人、暴行、掠奪といった残虐行為を、外国人の見ている前で働いたということであろう。しかも軍の上層部では戦争に没頭していたし、今日とは違ってラジオ・ニュースなどもなかったから、このような事件をあまり知らなかったのである。
 そこで私は、多分十二月 二十五日だったと記憶するが、司令官の朝香宮を訪ね、「南京における皇軍の行動は全世界の注目を浴びているから、そのおつもりで・・・」と暗に注意を促してから、参謀長に会い、「いま、こういう話をしてきたが、外国の権益のあるところでは慎重にやらねばならない。南京でやっていることが世界中の評判になっているから、大いに自重して欲しい」と申し入れたところ、素直に諒解してくれた。
 その他警備司令部、憲兵司令官などをも歴訪して同趣旨を説いてまわったことを覚えている。
 その後、南京における状況が東京にもわかって、外務省から陸軍側に知らせたり、外務大臣から陸軍大臣に善処方を要望したりする一方、陸軍も本間少将を現地に派遣したり、法務官をやって軍律を励行するなどしているうちに、事態は漸次改善されていった。
 この事件を通じて、外務省としては、現地においても、また東京においても、できる限り適切な処置をとったと私は信じている。広田外務大臣は事件を閣議に持ち出すべきだったという議論もあるが、それは当時の事情から言って、かえって逆効果をきたしたであろう。もし閣議にはかったりすれば、閣議統帥権に容喙するとして、一層陸軍を刺激したに違いない。そこで外務省としては、陸軍大臣に厳談し、軍務局に厳重抗議したのである。
 広田さんとしては、南京事件に関する限り、最も有効と思われる手段をとったと私は思う。パネー号事件の時などは、みずからグルー大使を訪ねて頭を下げているが、もしその処置を誤まれば、危うく日米開戦にもなろうというところであった。
 結論としては、叙上のような特殊の事情はあったし、また日本軍は軍紀厳正だと信じ切っていた日本人一般の軍に対する過大評価も問題になるであろうが、根本は、軍人に限らず、日本人全体から、いつのまにかモーラル・チェックというものが失われていたという点にあると思われる。いついかなる時も、人として絶対にある程度以下のことはしないという心構えの欠如が、南京事件を惹起した最大の原因であると私は思う。

 このように日高参事官は、法廷では、日本人被告を庇うための証言をしたにも関わらず、その後は、明らかに南京事件の実在を認めているのである。
 その他に本書でとり上げられている日本人証言者は、
1. 中支那方面軍参謀 中山寧人少佐
2. 上海派遣軍参謀長 飯沼守少将
3. 上海派遣軍法務部長 塚本浩次大佐
4. 第十六師団参謀長 中沢三夫大佐
5. 第九師団山砲兵第九連隊中隊長代理 大内義秀少尉
6. 第九師団歩兵第三十六連隊長 脇坂次郎大佐
7. 歩兵第十九連隊第一大隊長 西島剛少佐
8. 上海派遣軍参謀 榊原主計少佐
9. 上海派遣軍嘱託 岡田尚
10. 第十六師団副官 宮本四郎
11. 無任所公使 伊藤述史
12. 東亜局長 石井猪太郎
 そして、最後の石井東亜局長を除き、すべて被告側に有利な証言を行ったとしている。
 しかし、実際は、これらの証言者の中には、南京事件はあったが、松井司令官が軍紀・風紀に厳格な態度で臨んだという証言する者もあり、南京事件がなかったという証言ばかりではなかった。☆
 たとえば、飯沼参謀長は、日記が残っており、証言と日記の食い違いが指摘されている。もちろん、日記には多くの捕虜の処断=虐殺が書かれている。☆
 しかも、弁護側は、帝国陸軍の徹底的な公文書隠滅のため、有利な証をだすこともできず、検察側の圧倒的な証言・証拠の前に日本人弁護団もある程度の事実を認めざるを得なくなったのである。☆
 すなわち、日本側の証言者の多くは、「利敵行為」にあたると考えた被告不利の証言をしなかったのである。☆
 こうしてみれば、本書の特徴である日本側証言者の証言は無批判に採用し、検察側の証言は批判的に見る視点は、明らかに誤りであると言え、いかに本書が、読者を欺くかを考えて作られた本であると断言できる。

  おわりに
 さて、第二部は「事件が言い出された理由」となっているが、ここまでの内容を読んでいただければ、批判する価値すらない代物であることは、大方の史実を重視する方には、理解していただけると思う。
 筆者(edo04)は、南京事件否定論者には、史料の曲解をもって事実をわざとねじ曲げている頭のいいリビジョニストと、それに踊らされている情報弱者ないしは国粋主義者等がいると思っている。阿羅氏は、これまでの著作等からすれば、南京事件を史料に基づいて否定することは、不可能であることを知っており、史料の曲解・省略をもって南京事件を否定する頭のいい方だと考えている。
 何も知らない人が本書を読めば、南京事件まぼろしだと思う可能性は高い。また、本書を好意的に紹介している読売新聞は、まさにリビジョニストそのものとのそしりは免れないし、これが日本で一番発行部数が多い新聞かと呆れてしまった。
 ごまめの歯ぎしりかもしれないが、否認主義及びリビジョニストへの批判のため、このエントリを書いた。
 おそらく、今後とも同じような「否定本」を出して来ると思う。その際にも批判しようと考えている。

☆は、笠原十九司南京事件論争史』岩波書店2007年12月による