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2011-12-16

純真なアイドルからわれわれを遠ざけているのは、あの悪意あるプロデューサーのせいなのだ――町田康『人間小唄』について

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人間小唄 (100周年書き下ろし)

人間小唄 (100周年書き下ろし)

『人間小唄』は『風流夢譚』(深沢七郎)に「似ている」。しかし、両者が「似ている」ということは喜ばしい積極的な意味を持つものではない。むしろ、見出されるのは症候としての「類似」である。

 『人間小唄』は一遍の主人公である小角が小説家・糺田両奴に短歌を送りつけることから物語は始まるのだが、その短歌――加えてそれに対する糺田の解釈――の馬鹿馬鹿しさは、深沢の高名な辞世の句のパロディーに通じるものがあるだろうし、また、深沢が、大逆の舞台を主人公の夢とし、その夢が時間との関係を明示していたのに対して、町田は、「ここでやったことは夢のなかでやったことと同じ」であり、現実世界の一部でありながらも自由に行き来できない空間において、暗殺を決行させる。

 自作の短歌を小説家・糺田両奴が無断使用したことを知った小角は糾田の元に女性を送り込み、美人局を行う。小角は短歌盗作の代償として、次の三つを行うことを糺田に提案をする。それは「短歌を作る」「ラーメン餃子の店を開店し人気店にする」「暗殺」である。結局、糺田は先の二つに失敗し、暗殺を請け負うことになる……小角と糺田の関係は、「主人と奴隷の弁証法」(ヘーゲルコジェーヴ)と見なしうる。小角の暴力に屈した糺田は、死を賭した闘いに敗れた奴である。奴(=糺田)は、主(=小角)に対して、死を「畏怖」しながら、「奉仕」し、「労働」を行うだろう。その労働は、「短歌を作る」「ラーメン餃子の店を開店し人気店にする」「暗殺」と町田的な装飾はされているが、主(=小角)は奴(=糺田)の労働によって変貌させられた「物」を「享受」するだろう。糺田の短歌をさんざんにこき下ろし、ラーメン屋を経営する糺田を監視し、一編の主題である「暗殺」へと差し向ける。

 そして、「暗殺」の対象とされる猿本は、「当代の売れっ子プロデューサー」であり「政府系機関が主催するイベントの主題曲を書いたり、いろんな審議会のメンバーになって」、その作詞した歌詞によって国民の「感受性の墜落のような劣化」を招く「中心のないまま影響力を行使している」人物であるとされている。多くの者が指摘するように、その形象はある有名プロデューサーにあまりにも「似ている」。また、見逃せないのは猿本もまた主として表象されていることである。猿本は「心情庵」というラーメン屋の主人であり、「ジューシーな餃子」、「大盛りライス」を食べただろう「丸く膨らんだ腹」を持って登場するのである。コジェーヴは奴が変貌せしめた「物」を享受する主を、次のように例えていたことを思い出そう。「一例を挙げるならば、彼はすっかり用意された料理を食べるのである」(『ヘーゲル読解入門』)一方で、糺田は「びっこ軒」というラーメン屋で「労働」していた存在であるのだ。そして、猿本は、「糺田の店のコンセプトを盗用したとしか思えない商品構成」を持つラーメン屋を開いた、模倣した人物=鏡像としても描かれる。つまり、『人間小唄』の一篇の主題となる暗殺とは、互いに似合った主と奴の闘いであり、まさしく、糺田両奴とは罪を「糺(ただ)」す「奴」隷なのである。そして、その暗殺はもうひとりの主(=小角)によって画策されている。

 しかし、『人間小唄』が症候的なのは、われわれが「奴」として清算した「労働」の産物を単に享楽するだけの主人がいるのではないかという疑念が示されているからに他ならない。そこで主人として表象されたのは、政治=演劇を「プロデュース」する官僚的な存在である。そして、3月11日以降、「災害ユートピア」と呼べる状況で顕著となったのは、主として可視化された官僚組織に対する非難である。彼らこそ、奴=われわれを放射能の危険に晒しながら、その利潤を搾取してきた主であるというように。言うまでもなく、官僚組織とは不可視として扱われるにもかかわらず、それが可視化されたことは倒錯的な事態である。と同時に、可視化された官僚組織とは、絶対的な主とわれわれが無媒介的に接しうる機会を奪う邪魔者=媒介者としても表象されるだろう。だからこそ、『人間小唄』では、媒介の排除として暗殺が目論まれる。そのような主と奴の弁証法を駆動させることは、もうひとりの(本当の?)「主」の利益に供することに他ならない。もちろん、『宿屋めぐり』に描かれたような、絶対的な「主」との無媒介的な直面はありえないのだが、それを夢想することはきわめて症候的事態である。そして、『風流夢譚』との(意図せざる)類似を示している点で、あまりあるものがある。

2011-08-03

宇野常寛氏の「成熟」と安川奈緒氏の「いらだち」――『リトル・ピープルの時代』をめぐって

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リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

映画芸術 2011年 05月号 [雑誌]

映画芸術 2011年 05月号 [雑誌]

MELOPHOBIA

MELOPHOBIA

1『ゼロ年代の想像力』と『リトル・ピープルの時代』

 先日、ある批評家の人とメールのやりとりをしていて、「00年代という十年間はオウム事件への応対としてあったことを、キミは自覚しているのか」(大意)という批判を頂いた。まあ、私はバカなので、そういえばそうだなと批判に納得したのだけれども、同時に、オウム事件に思想的に応対したとその方が挙げられた数人の名前の中に、村上春樹がいないことに少し驚きもした。まあ、ただ単に書き忘れただけかもしれないし、その方の本意はわからないが、村上が95年という年に敏感に反応した作家であることは間違いないだろう。

 その意味で、『ゼロ年代の想像力』の著者・宇野氏が、『リトル・ピープルの時代』において村上春樹を取り上げるということは、氏の思考の転換を生じざるを得ないように思う。なぜなら、『ゼロ年代の想像力』は、95年を「ターニング・ポイント」として認めながらも、宮台真司、『新世紀エヴァンゲリオン』、小林よしのりを「九五年の思想」と呼び、その95年前後の著作、作品が「ゼロ年代を待たずに破綻をきたしている」と主張しており、そして、そもそもの目的自体が95年から2001年ごろまで支配的だった「古い想像力」を葬り去ることであり、「ゼロ年代」の「新しい想像力」を分析することだとされていたからだ。そして「ゼロ年代」とは、9・11アメリカ同時多発テロ、または小泉構造改革に伴う「格差社会」の到来が契機であり、そこでは人はいやおうなく「決断主義」的に「サヴァイヴ」しなければならないと規定されたことは周知の通りだ。(同じく「決断主義」と呼ばれたジジェクバディウの思想と氏のそれの内容の違いに唖然とするが、ここでは措いておく。)しかし、同時に、2001年に分割線を引くことによって、00年代が「ゼロ年代」として表記されることによって、オウム阪神大震災以後という問題が消し去られたことは否めない。

 では、宇野氏の「想像力」がどのように変化しているか。まず、『リトル・ピープルの時代』を詳しく見ていこう。宇野氏は村上の諸作品に、特に『1Q84』に依拠しながら、次のように述べる。国民国家マルクス主義といった「ビッグ・ブラザー」=「大きな父」は、1968年前後に最大の反乱が生じて以降、消費社会が隆盛することによって徐々に「壊死」していった。それと並行する形で、「資本と情報のネットワーク」が国民国家の上位に形成されていった。そのとき、問題なのはひとつの人格を有したような「ビッグ・ブラザー」ではない。「ビッグ・ブラザー」から解放された「リトル・ピープル」たちが、無限に連鎖しあい、形成される「システム」(また「環境」とも呼ばれる)なのだ。しかし、「リトル・ピープル」はその「大きな父」を持たないがために、常に不安定な存在である。そして、村上に『アンダーグラウンド』を書かかしめ、『1Q84』においてもカルト教団「さきがけ」のモデルともなった、オウム真理教の一連のテロ事件とは、まさに、「大きな父」を喪った「リトル・ピープル」がひとつの「小さな父」に追いすがろうとするとき、不可避的に発生させる暴力なのだと結論づけられる。そして、宇野氏によれば、『1Q84』とは、そのような不安に駆られた人々への「抗体」である。だからこそ、『1Q84』は「徹底的に分かりやすく/読みやすく、そして気持ちよく/面白く設計された「機能の言葉」」で構築されている。

だが、宇野氏は「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」への移行には同意しつつも、村上の思考とは袂を分かつことになる。それは「父」の問題においてである。『1Q84』の主人公・天吾は矮小な「父」と和解し、自身もまた「父」になることを受け入れる。しかし、宇野氏によれば、「父」になることは同時に「よき麻原彰晃」になることを意味する。そして、「抗体」としての『1Q84』もまた、どこか宗教の布教に似てなくはないとさえいう宇野氏は、このような「父性の回復」ではなく、むしろ発想の転換が必要であると主張する。そして、その転換とはつぎのようなものだ。

私たちは誰もが、老いも若きも男も女も、ただそこに存在しているだけで決定者、すなわち小さな「父」として不可避に「機能してしまう」。貨幣と情報を通じて自動的に世界にコミットしてしまうのだ。リトル・ピープル時代を生きる私たちは、生れ落ちたその瞬間から小さな「父」なのだ。(『リトル・ピープルの時代』)

つまり、問題は「いかにして父になるか/ならないか」ではない。無数に発生した「リトル・ピープル」=「小さな父」たちの相互関係、コミュニケーションこそが問題なのだ……そして、9・11アメリカ同時多発テロは、この「小さな父」たちの衝突が生み出した暴力であると結論付けられるのである。そのとき、「よき父になる」という村上の戦略は無効だろう。

 とても長い迂回となってしまったが、要するに宇野は『ゼロ年代の想像力』で提出した95年と2001年の切断を保持しつつも、「ビッグ・ブラザー」→「リトル・ピープル」の変遷という巨視的な視点を持つことで、1968年〜2010年までの息の長い分析を可能にしたとひとまずいえるだろう。(だが、同時に宇野氏はリトル・ピープルの時代のはじまりを日本は95年とし、世界的には2001年と図表でしめしており、曖昧さが残ることも指摘しておく。)

 2宇野常寛氏の「成熟」

本書は以下、「ウルトラマン」を「ビッグ・ブラザー」に、「仮面ライダー」を「リトルピープル」に見立てた分析が続くが、それは措いておく。また、氏の議論の多くに違和感を感じることも。そして、「ビッグブラザー」→「リトル・ピープル」の変遷自体が、リオタールの「大きな物語の凋落」(『ポストモダンの条件』)を下敷きしており、それほど真新しいものではないことを指摘しておこう。(言うまでもないことだが)

だが、ここでは本書の非をあげつらうことが目的なのではない。注目すべきは、ここでは宇野氏の「成熟」とも呼ぶべき思想的変遷(?)が見られることである。それは、「ビッグ・ブラザー」→「リトル・ピープル」への移行が「大きな父」から「小さな父」へとも言い換えられていることに関連している。つまり、「父」の審級自体の矮小化である。

結論を先に言ってしまえば、宇野氏の「成熟」とは、まさしく「成熟」の問題から離れたことである。『ゼロ年代の想像力』において、「決断主義/サヴァイヴ系」の「想像力」とは別の「想像力」として、宮藤官九郎木皿泉よしながふみの名前を挙げている。それぞれの議論の結論は異なるが、共通しているのは開かれた共同体、擬似家族的なもの、ゆるやかなつながり、といった閉鎖的ではない一定人間関係の構築に求めている点である。90年代において「父親の機能不全」と「母親の肥大化」によって不可能であった「成熟」は「ゼロ年代」においては別のかたちで可能だと考えてられていた様子である。「現代における成熟とは他者回避を拒否して、自分とは異なる誰かに手を伸ばすこと――自分の所属する島宇宙から、他の島宇宙へ手を伸ばすことに他ならない」(『ゼロ年代の想像力』)言い換えれば、家族ではなく自分で選択した「擬似家族」であり、ひとつの共同体に依存するのではなく、複数の共同体とコミュニケーションする。そんな形で「成熟」は可能であったと氏は考え、そして、その「成熟」こそが、「ゼロ年代の想像力」を超えるものだと考えていた。だが、『リトル・ピープルの時代』において、われわれはすでに「小さな父」だから、「いかにして父になるか/ならないか」という「成熟」の可否は問われない。

「成熟」という問題は、氏が下敷きにしているかどうか知らないが、江藤淳の高名な批評『成熟と喪失』にさかのぼる。たとえ、江藤自身を知らなくても、その父―母―子のオイディプスの三角形と子の「成熟」もしくは子が父になることという観点からの、文芸作品の分析は上野千鶴子大塚英志などにも受け継がれており、氏はおそらくそのあたりから着想を得たのだろう。しかし、「成熟」という概念そのものが、近代の通俗概念であることは散々に批判されていた。それを反転させて「成熟」の不可能性といっても……ねえ? という感じである。だが、『リトル・ピープルの時代』において、氏は加藤典洋などを挙げながら「成熟」という図式自体を批判している。これは、宇野氏の「成熟」である。

 しかし、同時に宇野氏の「成熟」は、「成熟」という「決断主義」的なゼロ年代の想像力から脱出させる契機を失わせる方向に向かわせる。たとえば、以前のような、小さな共同体へ可能性を見出そうとする方向性は、『仮面ライダーW』ぐらいしか挙げられていない。

 安川奈緒氏の「いらだち」

『リトルピープルの時代』が東日本大震災後に書かれたことに着目するならば、それはあまりに長すぎる「ゼロ年代」の総括であったといえよう。というのは、「成熟」し「成熟」の図式を否定した宇野氏だが、具体的作品を分析する際に父―母―子のオイディプス構造に依存しており、「大きな父」→「小さな父」への変遷が大きな議論の流れであるためか、分析される豊富な作品量に比べて、そこから析出されてくる結論が同一または過少であるために、単調さが否めない。(同じ単調さは『ゼロ年代の想像力』にもあった)その意味で、あまりにも長すぎるのである。

 一方で、『映画芸術 2011年春号』に掲載された安川奈緒氏の「2010年代も2000年代も生き延びなくてもいいよ、いっつも死んじゃっていいよ」という書評は短すぎる「00年代」の総括だったといえる。(挑発的な――「ゼロ年代」において誰よりも挑発的だった宇野氏ぐらい挑発的な――書名だが)もちろん、「ゼロ年代」が名に関された二冊の書籍に対する書評であるため仕方がないのかもしれないが、そこで「ゼロ年代」に向けられた「いらだち」にはある種の共感も覚えなくもないので少々引用してみたい。

ゼロ年代」という「いまいましいカタカナで表記された年代論」は、「誰も彼もをこの『ゼロ年代』の参加者に仕立て上げてしまう。つまり『僕たちみんな』に容易に『ゼロ年代』のプレイヤーの顔をさせてしまうのだ」。そして、一方で安川氏は00年代を若者として過ごしたものたちの世代論の必要を説くのだが、そのあたりにはあまり私はピンとこない。(私は安川氏と同世代ですが)ただ、安川氏がいらだっているのは明らかだ。おそらく、その原因は、先に引用した一文にも現れているとおり、00年代を「ゼロ年代」と表記した途端に生まれる「ゲーム」性なのではないか。(だからこそ、安川氏は「コスチューム・プレイ」の「ゲーム」性にあれほどまでに敏感に反応したのではないか。)

 宇野氏は「ゼロ年代」における世界をひとつの教室に例えている。その教室には「あらゆる人間」が生徒として登録され、生徒は交互に自分の趣味、嗜好に従って、班=共同性を形作るが、それは同時に他の班=共同性に対して排他的に闘争しあうことになる。この「動員ゲーム」から抜け出すには、「ひきこもり」になりさえすればいいが、そのとき彼/彼女は単なる「敗北者」のレッテルが貼られることになる。だが、本当はだれも抜け出せない。なぜなら、インターネット資本主義が世界中を覆っているからだ。「この『ゲーム』は現代を生きる私たちにとって不可避の選択であり、『ゲームに参加しない』という選択は存在しない。この資本主義経済と法システムによってくみ上げられた世界を生きる限り、私たちは生まれ落ちたその瞬間からゲームの渦中にある。」(『ゼロ年代の想像力』)

 確かに、グローバリゼーションや情報技術の発達によって世界から「外部」がなくなったというのは、その通りだろう。また、これは『リトル・ピープルの時代』における、われわれはすでにつねに「小さな父」なのだと考えにつながるものだろう。しかし、なぜそれが「ゲーム」として例えられるのか。しかも、それは、「単純な力比べ」であり、結局は最強のものが頂点に立つ「トーナメント」的なバトルではなく、「能力の違いこそあれ、基本的には同格のプレイヤーが乱立する」という「カードゲーム」から発展した「バトルロワイヤル型」のゲームである。確かに、それは、ネオリベラリズムを資格という「一芸」で生きていく労働者たちの皮肉な隠喩に他ならないが、しかし、なぜ「ゲーム」として例えられるのか? 

 もちろん、確かに、氏の言うとおり、「ゼロ年代」はある種バトルロワイヤル型の「ゲーム」性を持った10年間であったといえよう。たとえば、宇野氏自身も分析しているように、AKB48の「総選挙」と呼ばれる「選抜制度」もまた、メンバーの一人ひとりが自身のキャラクターという「カード」を持って相互に戦うバトルロワイヤルであった。また、東浩紀氏と太田克史氏が開催した「ゼロアカ」もまた、本来ならば批評家の登竜門である新人賞という形態を大きく逸脱し、東氏ひとりの評価によって決定される「関門」が複数回あったものの、その過程は記録映像や文章として公開されており、とくに「文学フリマ」で自ら作成した同人誌の売り上げを競う「第四関門」や、ネット放送で公開されつつ、参加者が自らをプレゼンテーションし、参加者同士討論し、そして選抜者の選考は審査委員の投票のみならず、会場の来場者の投票を持って決定した「第五関門」などは、特に「バトルロワイヤル」型の「ゲーム」性が際立っていたといえるだろう。

  「ゲーム」としての資本主義

 そのようなバトルロワイヤル的な「ゲーム」に対して、「成熟」がひとつの「脱出」の鍵となっていた。しかし、「成熟」という問題系が否定された『リトル・ピープルの時代』においては、異なる方法がとられる。それは、「ゲーム」自体を目的にし「ゲーム」自体を生きることである。そのとき、特権的なキャラクターとして挙げられるのは、『仮面ライダー龍騎』の「仮面ライダー王蛇」であり、『ダークナイト』における「ジョーカー」である。彼らは他の目的を持って手段として「ゲーム」に参加したりはしない、「ゲーム」の快楽自体を「ゲーム」そのものを目的にする。しかし、それだけでは十分ではない。宇野氏は次のように言う。「ハッカーたちがシステムの内部に侵入して、それを書き換えていくように」、「ゲーム」のルール自体を書き換えてしまうことが必要だと。それが、「現実」を「拡張」し「多重化」することであり、「拡張現実の時代」に相応しい態度なのだと。

 しかし、そのような諸々の「ゲーム」のルールをいくら書き換えたとしても、そのあらゆる変更を許容する根本的な「ゲーム」がある。それは「グローバル資本主義」である。「ひとつのルールの元に無限にカードが追加されていく。既存のルールに適合しない能力が設定されたカードが出現した場合、ルールのほうが更新されることになる」という「トレーディング・カードゲーム」は「グローバル資本主義の寓話的な物語形式」であるのだ。つまり、「グローバル資本主義=カードゲームの本質は、すべての物語――それがゲーム自体への参加を拒否する/ゲームボードを破壊することを目的としたメタレベルからのアプローチだったとしても、1枚のカード=商品として陳列してしまう点にこそある」。だからこそ、あらゆる「アンチ・グローバリゼーション運動」もまた「エコ文化」として商品化されてしまう。

 「ゲーム」自体を欲望し「ゲーム」を目的化する者は、虚構作品においては『仮面ライダー龍騎』の「仮面ライダー王蛇」『ダークナイト』の「ジョーカー」というように、「リトル・ピープル時代」の「悪」として表象されていた。しかし、宇野氏は明記していないが、現実世界においてはその役割は反転するといってよい。「ゲーム」の快楽自体を目的にするものたちとは、ネットワーク上でキャラクターをひとつの要素として延々と「n次創作回路」を流通させる人々である。つまり、コミュニケーションの内容ではなく、コミュニケーションを行う自体を目的にコミュニケーションを取る人々であり、あるキャラクターを描いた同人誌を購入し、一方で自身もまたそのキャラクターのイラストをネット上にアップしたりする人々である。人々はキャラクターを交換/流通することでなにか別の目的を果たそうとしているのではない。その交換/流通そのものの快楽を目的にしているのだ。それはひとつの「ゲーム」なのである。そして、偶発的にあるいは意図的に、この「ゲーム」のルールは改変される。その無数の改変の過程が「n次創作」なのであり、われわれはこの「ゲーム」によって日本特有の文化を作り上げてきたではないか、宇野氏はそう言いたいわけである。宇野氏が目指す世界とはゲームに参加することによって世界(システム)を無数に「書き換える/拡張する」世界である。そして、その世界を保証するのが、あらゆるルール変更を許容するゲーム=「グローバル資本主義」なのである。

 また、氏は指摘してないが、「ゲーム」を自体を目的に「ゲーム」に参加するプレーヤーのアーキタイプとは、まさしくマルクスが分析した資本家なのである。資本家の目的は資産を貯蔵することでも、商品を売ることでもない。資本を流通させることである。そして、なぜ資本を流通させるためかといえば、より多くの資本を流通させるためなのだ。ゆえに、ネオリベラリズムバトルロワイヤルゲームをそれ自体として楽しもうとする人々たちとは資本家からその性格を受け継いでいるのだ。その意味で、宇野氏の『リトル・ピープルの時代』は、人々の欲望を最大限に肯定する書であるといえよう。

 ただし、私は、00年代後半に――特にリーマンショック以後――顕在化した「貧困問題」によって、「グローバル資本主義」を「ゲーム」に例える宇野氏の姿勢を批判する者ではない。なぜなら、それはまさしく「ゲーム」の勝ち負けの問題であり、同時に氏はそのような「ゲーム」から脱出する方法を「成熟」という問題系において、思考していたことも事実だからである。(もちろん、先に記したが、その「成熟」という問題系は後退することになるのだが)

 ではなく、00年代を「ゼロ年代」と表記したときに生まれる「ゲーム」性が問題となるのは、むしろ東日本大震災以後を考えたときである。宇野氏自身の弁によれば「震災に書かされた本」である『リトル・ピープルの時代』がその目的とするところは、「「大きなもの」への想像力を取り戻す思考を展開すること」であるらしい。その「大きなもの」とは、「福島原子炉たちがもたらしたもの、いや、福島原子炉たちの存在が浮かび上がらせたもの」である。つまり、宇野氏が捉えようとしているのは、東日本大震災及び原子力発電の事故を機に生じた変化ではない。それ以前の、つまり、95年から本格化した「リトル・ピープルの時代」を描こうとしたのであった。

だが、しかし、ここでは愚直に氏に問うてみるべきである。「グローバル資本主義=カードゲーム」は福島原子力発電所の事故を「1枚のカード=商品として陳列してしまう」ことが可能なのか? それは商品として陳列不可能な「ゲーム自体への参加を拒否する/ゲームボードを破壊することを目的としたメタレベルからのアプローチ」ではないのか? 確かに、宇野氏の言うとおり、福島原子力発電所の事故は、黙示録的な終わりでもなんでもなかったし、われわれは、奇妙な緊張感を強いられながら、「ゲーム」を続けている。しかし、フクシマというのは、他の「カード=商品」とは異なり、「ゲームボード」自体を徐々に蝕んでいく特殊な「カード」なのではないか。そして、現在、この一枚の特殊な「カード」を、その破壊性を意識しつつも、保持しようとするものたちがいる一方で、ゲームボードを蝕む「カード」を捨て、「自然エネルギー」という新たな「カード」=商品を「グローバル資本主義=カードゲーム」に追加しようとする人々がいる。しかし、どちらも「グローバル資本主義=カードゲーム」を維持しようとしている点では変わらない。忘れてはならないのは、フクシマという「ゲームボード」を蝕む特殊な「カード」を生み出したものこそ、「グローバル資本主義=カードゲーム」に他ならないということだ。そして、ここから、次のような文章を見たとき、そこでは宇野氏のしごく純粋な倫理性が問われているのではないか。

それ(「福島原子炉」・引用者)は人間が生み出したものでありながら、今や人間のコントロールを離れ、私たちの生活世界を内部から蝕み始めている。私たちのすぐそばに、生活空間の<内側>にありながらも、もはや誰にも制御できないものがある。おそらくは私たちの無意識に刷り込まれていくであろうこの感覚が、どんな想像力を生むのか。文化批評の担い手としての私の関心はこの一点にあると言っていい。(『リトル・ピープルの時代』強調、引用者)

グローバル資本主義=カードゲーム」が続く限り、あらたな「カード=商品」としての「想像力」は追加され続けるだろう。その意味では氏の言う「文化批評」は終わらない。しかし、それは「グローバル資本主義=カードゲーム」の問題性を無視することでもある。

「徹底的に分かりやすく/読みやすく、そして気持ちよく/面白く設計された「機能の言葉」」で書かれた『1Q84』が「リトル・ピープル」に配られた「抗体」なのだとしたら、『リトル・ピープルの時代』もまた、「グローバル資本主義=カードゲーム」自体を疑い始めた人々に対する「抗体」なのではないだろうか。そして、「ゼロ年代」とは、「グローバル資本主義=カードゲーム」の問題性にもっとも無自覚な人たちが使用する表記だったような気がする。その意味で、私は安川氏の「いらだち」のほうについてみたいと思うのだ。(私自身、このブログの名に「ゼロ年代」を冠したことはある。アイロニーとしてだったが、今では反省している。)

江戸屋猫八百

2011-07-08

バートルビーじゃないほうがいいのですが……――濱本真男『「労働」の哲学』

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「労動」の哲学 人を働かせる権力

「労動」の哲学 人を働かせる権力


 副題には「人を労働させる権力について」とあるとおり、この論考においては、「労働(labor)」と労働(job)が使い分けられ、その差異こそが主要な問題となっている。著者は、アレントを参照しながら、「労働(labor)」とは「生そのものとしての労働」に対応しており、それは人間特有の条件ではなく、生命一般に見られるものであり、「ゴキブリも卵から成長し、食らい糞をし、死ぬからだ」とやや露悪的に(?)述べているように、生そのものであり、その生を維持するための諸活動を指す。一方で、労働(job)とは、先の「労働(labor)」と、アレントにおけるひとつの活動力である仕事(work)が結びつくことによって誕生した、産業資本主義において一般化した賃労働である。ここでは本書がその多くを依拠しているアレント読解を概観することはできないが、著者が特に問題にしているのは、「労働(labor)」と労働(job)は共に異質であり、決して重なりあわないということだ。もちろん、著者が指摘している通り、ネグリ=ハートが強調する「認知労働」とは、マルチチュード同士の協調やコミュニケーションや日常からふと生まれるアイデアなどを資本が搾取することで、まさしく労働者の「生」全体を資本が包摂しているような労働と考えている。ここから、昨今話題になった「ベーシック・インカム」につながる話題も出てくるのだが、ネグリ=ハートの議論全体は、労働(job)が「労働(labor)」を完全に包摂したという視点に立たなければ、成り立たない。しかし、著者はネグリ=ハートの正当性をある程度は認めつつも、そのような社会運動や労働運動は、「生そのもの」の政治性を見過ごすことになると批判する。「労働(labor)」と労働(job)は重なることはないと主張する著者にとって、それら二つの諸力はつねにおのおのの労働者で違和を生み出し続けているからだ。「今日の労働者社会において、完全に真面目な人でもいない限り、「労働」者もまた存在しない。労働と「労働」の闘争の場は労働者に、より具体的にいって、労働者の脳に内在しているのである。」(p.123)

 では、いかに労働させる権力に抵抗するのか? いかに「生そのものの政治性」を発露させるのか? そのとき見出されるのは「サボタージュ」の戦略である。言うまでもなく、1848年二月革命以後、オスマンのパリの大改造などによって、労働者の暴力的な蜂起、バリケードによる市街戦という戦略はとられなくなり、その後、主要な抵抗運動になるのは、ストライキボイコットサボタージュなどの「労働組合」――今の言葉で言えば、アソシエーションか――を中心とした労働運動なのである。そして、現在その最も洗練された文学的な形象は「バートルビー」である。遠くはブランショにはじまり、ドゥルーズネグリアガンベンなどを魅了してきたその「決まり文句」である「しないほうがいいのですが」〔I would prefer not to…〕は、「単純な事実として、労働の拒否によって資本主義的生産過程を機能不全に陥らせる」のだし、一方で「労働の拒否によって積極的につくり出された「自由なる時間」=「自由なる「労働」」=思考、が生み出す芸術作品は資本を外側から脅迫する」(p.119)つまり、労働(job)から「労働(labor)」だけを差し引くのである。

 ここでは、著者が言うように、そこで生み出される「思考」や「芸術作品」が資本主義に対して抵抗できうるのかという問題は措いておく。ただ、重要なのは、著者が指摘するように、バートルビー的な形象は有効なのか、という疑問である。確かに、「過労死」や「過労自殺」は、単なる貧困者だけではなく、アッパークラスのワーカホリックにも存在する問題であり、生活の金銭的な貧窮だけでは語れない、まさしく「労働をさせる権力」を想定しなければ、解決できない。しかし、逆に言えば、このとき著者によって「過労自殺」の原因となる「自殺企図」や「うつ病」などが、「社会の論理と思考」の対立による「感情の調性」として見出されるとき、重要なのは、どちらも「バートルビー」に似ているということなのだ。もちろん、著者自身「過労自殺」と「バートルビーの思考」が同一であることを否定しているが、それらは、資本主義にとっての「サイレントテロ」なのである。しかし、「過労自殺」が「社会的労働としての自殺」として資本に包摂される状況において、ひきこもり少子化自殺などの「サイレントテロ」もまた、資本主義機械の必要経費に過ぎないとしたら? もちろん、著者もまたこの限界を認識しているように思われる。だからこそ、バートルビーサボタージュ的な側面ではなく、むしろ「ポジティブな方向へ」。それは先に見た「思考」や「芸術作品」であり、労働の拒否によってなにか全く新しいことをはじめることに着目したのだろう。

 だが、しかし……こう書き連ねたい誘惑に駆られる。もちろん、アレントの批判的読解を中心とした本書は、「公的領域」の復権を云々するような通俗的なアレント理解とは全く異なっているのだが、一方で「博士予備論文」として提出された事情による一種の限界もまた感じる。しかし、限界といってもそれはアカデミズム的には認められない発想や論理の飛躍を欠いているということなので、濱本氏の思考自体を批判するものではない。

 以下は、氏の論考に対する批判というよりはむしろ、氏の論考によって触発された単なる連想(おそらく思考とは呼べない!)を書き記したものにすぎない。

 バートルビーという名を目にするたびに私はブレヒト戯曲『男は男だ』の主人公・ゲーリー・ゲイを思い出す。「しないほうがいいのですが」〔I would prefer not to…〕と言い続けるバートルビーとは違い、この男は拒否する言葉を知らず、巧みに基地へと連れ込まれ、擬似的な軍事裁判にかけられ、銃殺刑の恐怖を味わった挙句、4人一組の連隊の欠員となったジップの代わりとして、さらにはジップ自身になって、戦場へと送られ、最終的には見事な殺人兵士となってしまう。『員数は員数だ』だとも訳せるらしい『男は男だ』という作品をだしにいいたいのは、むしろ重要なのは「バートルビー」的なサボタージュにしろ、ポジティブな面にしろ、それをいかに組織化するかという問題である。もちろん、著者自身の整理によれば、ゲーリー・ゲイはおそらく思考を持たない。それゆえに兵隊として「労働」することになってしまう。だが、思考なんてものは、労働者自身ではなく、他の誰かが考えればいいのであって、むしろいかにして、バートルビーという孤独を打ち破って、「サイレントテロ」という形でも表出しているサボタージュを連帯させるかが重要となるのではないか。そのとき、「員数は員数である」というアレント的にはきわめて非人間的な組織形態さえも覚悟しなければならないのかもしれない。

 ところで、『人権と国家――世界の本質をめぐる考察』において岡崎玲子が、先に見た論者たちと同じように「しないほうがいいのですが」〔I would prefer not to…〕について論じているジジェクに対して、「メルヴィルのファンなのか」とたずねたところ、「いつも引用しているわりに、実は最後まで読んでいないのだが、恰好がつくから」と笑い飛ばしたという。(『人権と国家』p.217)いかにもジジェクらしいエピソードである。しかし、ここにはアガンベンネグリジジェクを分かつようなものが存在する気がするが、気のせいだろうか?

江戸屋猫八百