『平成狸合戦ぽんぽこ』

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監督:高畑勲声の出演野々村真石田ゆり子、5代目柳家小さん清川虹子泉谷しげる林家こぶ平ほか、スタジオジブリアニメーション映画『平成狸合戦ぽんぽこ』。1994年作品。

キャラクターデザイン大塚伸治

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緑ゆたかな多摩丘陵に住んでいたタヌキたちは、人間たちの宅地造成によって故郷が変貌していくさまを目にする。一計を案じた老タヌキの鶴亀和尚(5代目柳家小さん)やおろく婆清川虹子)は、若い衆とともに「化学(ばけがく)」を駆使して人間たちの自然破壊に抵抗しようとする。しかし開発の手は弛まず、タヌキたちは追いこまれていく。

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劇場公開当時に映画館に観に行きました。

高畑勲監督の91年の作品『おもひでぽろぽろ』(感想はこちら)が好きで、映画館に何度も観に行ったことをおぼえています(原作漫画も買って読んだ)。

88年に宮崎駿監督の『トトロ』(感想はこちら)と同時上映された『火垂るの墓』(感想はこちら)以来、99年の『ホーホケキョ となりの山田くん』(感想はこちら)まで、高畑勲という監督は宮崎駿とともにジブリを支える2大柱だった。

幼い頃はその名前は知らなくてもTVで「アルプスの少女ハイジ」や「赤毛のアン」などですでに演出作品はおなじみだったし、また『火垂るの墓』の公開前には特別上映会で高畑監督の『パンダコパンダ』2部作を観ました。

トトロ』と『火垂るの墓』以降、しばらく宮崎・高畑両監督は1〜2年ごとぐらいに交互に作品を発表するような形になっていました(あいだに近藤喜文監督の『耳をすませば』→感想はこちらも入りますが)。

その頃がジブリ黄金期と言っていいんじゃないでしょうか。

ナウシカ』(感想はこちら)や『ラピュタ』(感想はこちら)、『トトロ』のときのような2本立て興行というのはすでに終わっていたけれど、『ぽんぽこ』も『おもひでぽろぽろ』のときと同様に感動して劇場をあとにしました。

ただ、ジブリの映画ってTVで定期的に放映されていて僕はあえてヴィデオやDVDを借りて観るということがなかったんで、特に高畑監督の作品は宮崎監督作品よりも放映頻度が低いこともあってか、意外とその後観てなかったりする。

なので、「好きだった」と言いながらもけっこうその内容を忘れてます。

『ぽんぽこ』に関しては、「宝船」の場面とラストぐらいしかおぼえていませんでした。

ほんとに何年ぶりかで観たんですが…あぁ、思ってた以上にナレーションが多い作品だったんだなー、と。

前作『おもひで〜』も主人公が子ども時代を回想する話で、全篇にわたって主演の今井美樹のナレーションが入ってたっけ。

おもえば「赤毛のアン」などの「世界名作劇場」でもナレーションが入るのはふつうだったし、そういうスタイルって高畑作品では自然なものだったのかもしれないけれど、ふだんアニメを観なくなって久しいのでなんだか不思議な感じでした。

僕がこの『ぽんぽこ』の内容をいまいち思いだせなかった理由の一つは、これが説話的な語り口で描かれていたからでもある。

たとえば1日〜数日ぐらいの話を連続的にひたすら主人公たちのアクションで描きだす宮崎駿の作品のような「物語」(日記風の『トトロ』は若干例外的だが)と違って、ヒロインの現在のエピソードにときおり回想シーンがはさまれる『おもひで〜』とおなじように、『ぽんぽこ』の構造は「昔話」の話法だったり、あるいは随筆に近い。

つねにバックにナレーションがかぶさっている。

今回それがちょっと気になってなかなかお話に入っていけなかったんだけど、このナレーションを担当しているのが3代目古今亭志ん朝、鶴亀和尚は5代目柳家小さん、また後半に登場する四国の三長老(3代目桂米朝、5代目桂文枝芦屋雁之助)など、噺家の大御所たちが何人もキャスティングされているように、これはちょうど落語を聴くような塩梅で楽しむものだったのだな、と思い至った。

じっさいこの大御所のみなさんが好演で、おろく婆役の清川虹子もそうだけどその声の演技は堂に入っていてじつにおみごと。

高畑監督は声優の台詞を事前に録音する「プレスコ」という方法をとるので、録音の際に絵に声を合わせる必要がないため、より自然な台詞廻しが可能になったんだろう。

清川虹子って90年代当時、僕なんかはTVで高田純次に高価な指環を食われたりお面かぶった大勢のエキストラに追いかけられてたイメージしかなかったけど、あらためておみそれいたしました。

特に隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)の声を担当した芦屋雁之助は、おなじみ「裸の大将」とは違うシブい声で映画のなかの刑部狸のデザインのかっこよさとその活躍ぶりもあいまって、なかなかの存在感を醸しだしていた。

これらヴェテランのみなさんの多くが現在ではすでに鬼籍に入っていらっしゃいますが。

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ひさびさに観てまず感じたのは、思ってた以上に「直球」の映画だったんだな、ということでした。

自然破壊に対する警鐘。動物たちの側から人間たちに対する「山をかえせ、里をかえせ、野をかえせ」という叫び。

おもひでぽろぽろ』で描かれた農家のエピソードを思いだした。

そこで柳葉敏郎が声を演じる青年が、自然と人間のかかわりについて語っていた。

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あの部分はたしかに「もっと自然や農業を見直そう!」みたいなメッセージ性の強さを感じた、というか…少々説教臭かったな、と。

当時、あの映画について「そんなに自然が大切ならアニメなんか作ってないで自分も農業をすればいいではないか」という感想をどこかで読んだ。

もちろん、アニメで自然の大切さや農業の未来についてうったえたってそれは作り手の自由だと思うが、正直僕もちょっと上の意見に同意してしまうところはある。

それと、僕はあの「現在」の場面よりも小学生時代のエピソードが好きだったので、主人公が回想する「おもひで」と現在の場面の「農家の嫁になる話」がなんだか乖離してる気がして、違和感はあった。

でもわざわざ絵柄を変えて2つの世界を描き分けて、現在の場面をちょっとやりすぎなぐらい写実的に描いていた(当時もあの絵柄が「気持ち悪い」と言われていた)からこそ、回想シーンのノスタルジックな雰囲気がより強調されたってのはあるので、あの手法はたしかに効果的だったとは思う。

この『ぽんぽこ』には、これまで高畑勲が自分の作品のなかでやってきたことをみんなぶちこんで作ったような、そんなゴッタ煮的なものを感じたのでした。

3パターンの絵柄、一部実写映像の取り込み、『火垂るの墓』にあったような直接的な「死」の描写etc...。

時にアヴァンギャルドでさえあり、同時に子どもも大人も楽しめるまぎれもない娯楽作品でもある、不思議な映画。

この作品のなかでタヌキたちは3種類の絵柄で描き分けられていて、一つは写実的な姿、もう一つはアニメ的に擬人化された姿、そして彼らがときどき変身(?)する落書きみたいな線で描かれた姿(杉浦茂の「八百八だぬき」がモデル。八百八狸は映画に登場する三長老のなかの一匹、刑部狸が統率している)。

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もともとは杉浦茂の「八百八だぬき」を原案にして映画化が検討されていたんだそうな。あのヘロヘロのタヌキたちのデザインはその名残りとのこと。

落語のような語り口、そして随所にちりばめられている宮澤賢治の作品からの引用。

宮澤賢治高畑勲の自然観は、たしかに相通ずるものがあるように思う。

高畑監督は、かつて賢治の『セロ弾きのゴーシュ』を監督してもいる。


そして『おもひで〜』でも思ったんだけど、この監督は「泣かせ」の名人なのではないかと。

音楽が流れはじめるタイミングなんか、もう完璧だもの。

なぜ「泣ける」のかといえば、登場人物たちがしっかりと芝居をしてるから。

高畑勲の作品がいかに「説教臭く」ても魅力があるのは、エモーショナルな場面を登場人物の演技、芝居によって描いているから。

実写のようなタヌキたちが、そして棒を持ったぽんぽこタヌキたちが、落書きみたいなタヌキたちが、どれも等しく愛おしく感じられてくる。

ところで僕は「まるで実写のようなアニメ」というのが苦手で、名作『火垂るの墓』に対しても(その素晴らしさには疑問の余地はないのだけれど)「ほんとは実写で撮りたいんだけど、それができないからアニメで作ったような」、なんとも釈然としないものを感じていたのでした。

これなら実写で撮ればいいじゃん、と(無論、あのような作品をいま実写で撮れる映画監督はいないと思いますが)。

あえてタイトルはあげないけれど、ジブリ以外でも何本かのアニメ映画で同様の疑問をもった。

大好きな『おもひで〜』も、もしあの現在パートのようなタッチだけで全篇描かれていたらおなじように感じていたと思う。

この『ぽんぽこ』には、さまざまな手法を使って“アニメだからこそ”描き得る世界、物語が映像化されていました。

以下、ネタバレあり。


これはまた群像劇でもあるので、主人公の正吉はそれほど目立つキャラクターではない。

ときにイケメンタヌキの玉三郎神谷明)が、ときに人間に暴力で対抗しようとする急進派の権太(泉谷しげる)が、ときに三長老たちがストーリーを引っぱる。

じつは、今回観ていて野々村真が声をアテている正吉とその幼なじみであるぽん吉林家こぶ平)が、どっちがどっちだったか見分けがつかなくなるときがたまにあった(ふたりとも声もちょっと似てるし)。

正吉の奥さんになるおキヨとぽん吉のカノジョの花子も。みんな顔が似てるんだもの^_^;

おキヨの声を、のちに『もののけ姫』(感想はこちら)でヒロインのサンの声も演じた石田ゆり子が担当している。

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人間に化けて人間界で生きているキツネの竜太郎の声を、当時「ファイヤー!!」「ジャストミ〜〜ト!!」がウケていた福澤朗がアテている。

見せ場の一つである百鬼夜行のシーンは水木しげるが監修していて、劇中にも彼をモデルにしたTVのコメンテーター「水木先生」というそのまんまなキャラが(左腕はあるが)登場している。※水木しげるさんのご冥福をお祈りいたします。15.11.30

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あの「妖怪大作戦」でタヌキたちは人間たちをおどかそうと力を尽くすが、それが結果的には面白がられてしまって、しかもずる賢い人間の商売にまで利用されてしまう。

どこまでもお人よしでヌケているタヌキたちがじつにいじらしいが、一方では彼らの奇襲作戦によって開発業者側の運転手3名が命を落としている。

戦争映画である『火垂るの墓』を除けば、ジブリアニメ映画でここまで明確に人間が死んでいるのはめずらしい(『ラピュタ』→感想はこちらでは人がゴミのように墜ちていってましたが)。

それからこれだけ「キンタマ」連呼する作品もほかにないw

なにしろタマ袋広げて忍者ハットリくんみたいに空を飛ぶ、ってディズニーピクサーではまずやれない、ってゆーかやらない。ジャングルの王者ターちゃんか?www

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そして犠牲者黙祷していたはずのタヌキたちは、やがて不謹慎にも大笑いして酒盛りをはじめる。

これは刑部狸が「妖怪大作戦」で力を使い果たしてこと切れたときも同様で、長老が亡くなったのもおかまいなしに「作戦が成功したぁ!!」と浮かれ騒ぐ始末。

この軽薄さは、なんとも落語における長屋の連中っぽい。

ときに大真面目に怒り、泣くが、その直後には酒かっくらって踊っている。

そんな呑気で陽気なタヌキたちが人間たちに敗れて「トホホ、人間にはかなわないよ」とヘロヘロの絵になって死んでいく様子には、一種言いようのない無常観におそわれたのだった。

あとには、何匹もの狸の死骸が転がっている。

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太三朗禿狸がタマ袋を広げに広げて作った宝船で変化(へんげ)できない並のタヌキたちとともに「死出の旅」に出る場面は、僕はてっきり空を飛んでいったと記憶していたんだけど、どうやらこれはイギリスのコメディ集団モンティ・パイソンの映画『人生狂騒曲』で老人たちが反乱を起こしてついに海賊になって船で空に飛び立っていくエピソードと頭のなかでチャンポンになってたようで*1、『ぽんぽこ』の宝船は河をわたって去っていった。

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今回の放映ではTwitterで「あれは自殺?」とつぶやいてる人たちが大勢いて、たしかに「死出の旅」と言ってるから自殺ともとれるけど、僕は精一杯生きたがそれでも生き残ることがかなわなかった者たちの姿だと思いました。

ただとにかく彼らが「船出していった」ということにとても胸を打たれた。


そしてこの映画で僕の涙腺が決壊したのは、タヌキたちが最後の力をふりしぼって「気晴らし」で昔の多摩丘陵の風景を映しだす場面。中年の女性が自分の子どもの頃の風景のなかに知人の姿をみつけて「よっちゃーん!」とその名を呼びながら駆けだしていくところ。

人間たちがいっせいに懐かしい想い出の場所にむかって走っていく。

タヌキたちは最後まで憎いはずの人間たちを楽しませてくれたのだった。

上々颱風が歌うエンディングテーマ「いつでも誰かが」。


争いに傷ついて 光が見えないなら

耳をすませてくれ 歌が聞こえるよ


それは偶然にもジブリの次回作『耳をすませば』を予感させる歌詞でもあった。

この映画は、東京の夜景で幕を閉じる。

翌年公開された『耳をすませば』は、まさにその風景からはじまる。

今回のTV放映では順序が前後してしまったが、この2本をつづけて観ると『耳すま』で雫が作詞した「コンクリート・ロード」の歌詞はより苦くきこえてくる。

雫が住む団地も、ステキなアンティークショップ「地球屋」も、かつてあのタヌキたちが住んでいた山を切り開いて建てられたものだ。

耳をすませば』を企画し絵コンテを描いた宮崎駿は、『ぽんぽこ』で描かれていた場所を意図的に登場させたようだ。

『ぽんぽこ』でタヌキ側から描かれた世界は、『耳すま』では人間側から描かれる。

人間たちから見れば、タヌキたちの故郷はいまや彼ら人間たちの故郷でもある。


正吉たち生き残ったタヌキたちは、人間に化けて毎朝満員電車にゆられて日々ストレスをかかえながら栄養ドリンク片手に人間社会で生きていくことにする。

その姿はまさに僕ら「人間」そのものだ。

3年ぶりに佐渡から帰ってきた文太(村田雄浩)が変わり果てた故郷を見て「こんなことができるのはタヌキしかいない。ほかにいるもんか!人間どもはタヌキだったんだ」と泣き叫んでいたように、これは「僕たち」の姿を描いた物語だったのだ。

帰宅途中の夜道でタヌキたちの姿を目にした正吉は、服を脱ぎ捨てて仲間たちのもとに走りながらタヌキにもどっていく。

このラストシーンは何度観ても泣けてきてしまう。

人間たちに故郷を追われ多くの仲間たちが死んでも、それでも彼らは「どっこい生きている」。

そして月夜の晩に、ときどきあつまってゴルフ場で酒盛りをしていたりするのだ。

ぽん吉は最後に“観客”にむかって語りかける。

「TVやなにかでよく言うでしょう、『開発が進んでキツネやタヌキが姿を消した』って。あれやめてもらえません?そりゃたしかにキツネやタヌキは化けて姿を消せるのもいるけど…。でもウサギやイタチはどうなんですか?自分で姿を消せます?」

これは痛烈な皮肉で、つまりこう言っているのだ。

「“姿を消した”んじゃなくて、消されたんだよ」って。


この映画の公開からすでに20年近く経つ。

舞台となった多摩ニュータウンでも住民の高齢化がすすんでいるという。

人間たちもまた、あのタヌキたちのように自分たちの故郷を愛し、その地で、あるいはそこを遠く離れて、ある者は社会に順応し、ある者はそこから立ち去り、子を残し、または独りきりで、やがて誰もが死んでいく。

多くのタヌキたちが死んでいったこの映画を「バッドエンド」ととらえている人たちもいるようだけど、一概にそうは言えないんじゃないか。

何度もくりかえすけど、これは僕たち人間の話でもあるのだから。


いつでもおまえが きっとそばにいる

思い出しておくれ すてきなその名を


高畑勲は、過ぎ去ったもの、消えていったものたちの側から現在をみつめる作家である。

それはしばしば現在への批判となって「説教臭さ」につながりもするのだが、不器用ながらもなんとか「いま」を生きる者たちへのまなざしがあるから、彼の作品は単なる「昔はよかった」という懐古主義にはなっていない。

ときどきふと昔を思いだして懐かしさに涙する、そんな人の感情をこれほど巧みに描いてくれる映画監督を僕はほかに知らない。

だからこそ、今年14年ぶりに高畑勲の最新作が観られることを、僕はほんとうに嬉しく思っているのです(『かぐや姫の物語』の感想はこちら)。


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*1:これまた僕のイイカゲンな記憶違いで、ひさしぶりに観てみたらじっさいには空を飛ぶのではなくて“落ちてた”。

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旧作やDVD、TV等で観た、また過去に劇場で観た映画の感想、日々感じたことなど。