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MovableTypeとの比較検討終了

2008-08-05 デジタルチューナーキットに立ちはだかる恐怖のモンスター軍団

小寺信良氏による5000円チューナーのキットのアイデアと、その補足

これを採用した場合、問題はモンスター対策をどうするか、という点にあると思う。クレーマー、といったほうが通じやすいかもしれないが、要は「自分(又は自分に近しい人)がたまたまちょっと不遇な立場になったと感じた瞬間に、感情的かつ非論理的な抗議行動及び言動を猛烈に生じさせる人」への対処だ。

筆者は過去に、ボランタリーに知人のPCを修理したことがあった。このとき、修理過程で部品の一つを破損させてしまい、持ち合わせていた自分のスペアを提供することになった。このとき、破損した部品がもともと疲労していたのか、それとも筆者の作業の不手際で破損したのかは確かめようがなかった。

何を言わんとしているかというと、一個人による手作業によって提供されるサービス製品で予期せぬ不具合が生じた場合、誰が責任を持つのか? と問われた場合、サービスを受ける側は「サービス提供者に責任がある」と言ってくるだろう、ということだ。そのとき、その不具合の原因がサービス提供者の不手際によるものか、製品を構成する部品の一部にもともと不具合があったか、といったことはサービスを受ける側からすれば関係ない。たとえ、そのサービスの提供がボランタリー精神によるものであっても、だ。

まとめると、以下のような感じだろうか。

(1)有識者ボランタリーチューナーを組み立てる

(2)(1)のチューナーが第三者に安価(組み立て手数料は取らない)で提供される

(3)(2)で提供されたチューナーに比較的短期間で故障等の不具合が生じる

(4)(3)の不具合が生じたチューナーを提供された第三者がモンスターだった

この場合、ボランタリー有識者モンスターからの攻撃にさらされることうけあいである。こんなリスク有識者は背負ってくれるだろうか。

昨今の日本における品質要求は非常に厳しい。例えば液晶画面デバイスドット欠け保証なんてものが成立するくらいである。ただ、ドット欠け保証はむしろ小売店の利益に貢献しているので、百害あって一利なし、というわけではないが。しかし、ドット欠け製品については結局メーカがそのしわ寄せを受けているのだから、決して笑えるものでもない。この手のコラムに目を通してくれる方々なら、液晶ドット欠けが製造工程上不可避であり、製品にそれが生じうるものであることは理解頂けるだろう。しかし、自分が手にした液晶ドット欠けがあることはやっぱり許せない、という方もいらっしゃるのではないか。

結論として、企業活動ではない個人レベルでのボランタリーな活動には、善意で補填できないリスクを何とかする仕組みが必要だということである。提供されるサービス製品がどんなに低価格であっても、有償でのモノの譲渡を伴う活動となると「安いんだからしょうがないよね」では済まないだろう。

結局、営利企業品質保証サービスの一部として提供する(結果コスト増分が上乗せされる)というのが最も安直な解答になってしまうのだが、もしここにブレイクスルーがあるのならデジタル放送を控えた日本未来はちょっと明るくなるのかもしれない。

2008-05-08 ○○は誰でしょう

先日、以下のエッセンスからオンライン仲間の一人の職場を特定できてしまいました。

これらのエッセンスは一度に提供されたものではなく、日々のメッセージを特にログも残すことなく記憶のみに頼ったものです。その職場は私にとってなじみの地でも何でもなく、ネット経由の情報を組み合わせるだけで辿り着いた場所です。相手もあまり隠す意図はなかったようですが、発言とネットとのシナジーは恐ろしいものです。これで顔知っちゃうと(悪い方向でモノを考えると)まずいのよねぇ…。

なお、特定結果について本人に確認を取ったわけではありません。ンなことしてどうする、という部分が大きいので…。仮に職場が正解であったとしても相手の顔は分からず、何より本名を知らない。辿り着こうと考えたとしても辿り着けない程度がオンライン繋がりの線引きだと思っています。

閑話休題

どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている? ネットは活動と活用次第で誰もが覆面ヒーローになれる場所です。一方、何がきっかけで意図せぬ来訪者を招くかを想像することは難しかったりします。この点は利用者、つまり自身に繋がる情報を制御する側の認識問題として現れます。掲示板の運営は端的な例でしょう。

過去Amazon個人情報流出祭、もとい事件がありました。この件では、ニックネームネット上の活動を行っている人たちの一部が実名、場合によっては趣味嗜好まで特定されることとなりました。こういうことがあった以上、利用者側が対策を講じておかなくてはなりません。例えば、匿名orニックネームでの運営に用いるメールアドレス実名でのオンライン活用に用いるメールアドレスを分けるといったことです。

尤も、私自身Amazon事件まで怠っていました。私自身は美しい魔闘家△木以下のレベルなので取り立てて騒ぐ程ではないですが。

ネットは道具です。例えるならば、誰もがリモコンを手に取れるロボットです。そして、そのリモコンを敵に渡さないという選択肢は取れないのです。私達にできることは「自分の」ロボット悪魔の手先にしないことと、「誰かの」ロボットから受け得る攻撃を可能な限り想像し、備える程度です。□ビーは反乱しませんが、×団候補生はどこにでもいるのですから。

2008-04-10 テレビ番組を楽しむためにテレビ局ができること

筆者がデジタル放送の視聴環境を整えてから1年半が経とうとしている。デジタル放送におけるHDTVは技術的見地で色々と問題を抱えているものの、導入した当時はその高密度映像に改めて感動したものだ。それまで6年間テレビのない生活を送っていた筆者だが、デジタル放送を見るのは楽しいものとなった。

さて、そんな視聴環境を得た筆者がまず見るようになったのはフィギュアスケートだ。高蜜精細な映像は見ているだけで楽しい。しかし、同時にとても邪魔に思ったものがある。解説だ。つまり、選手の実演中に技の名前を添えたり、演技を評するコメントを入れたりする解説者その他の一連の発言のことである。これは単純な好みの問題だが、私が見聞きしたいのはフィギュアスケートの実演に伴う映像音楽、あとはせいぜい大会進行に伴う選手の紹介や会場で起こる拍手等であって、本来演技に伴わない解説者その他の一連の発言はノイズでしかない。しかし、現在テレビ放送ではこの解説等の「要らない音声」だけを切る方法が存在しない。

とはいえ、解説を抜きにしろというワガママが通じるとは思っていないし、テレビ放送に対して解説抜き映像と解説有り映像を分けて配信しろといって通じるとも思っていない。技術的な問題やその必要性もさることながら、何より彼らのプライドが許さないだろう。だから、DVD(放送がHDTVだからBlu-rayか)のように音声切替機能を備えられるパッケージでその有無を切り替えられるようにしてもらえれば、などと考えるわけだ。その場合、そのパッケージには当然しかるべき価格がついて世の中に出回ることになる。あとは価格と見込み売り上げ数と利益率のバランスの問題だが、私は(価格がよほど法外でない限り)買うだろう。

ではそのようなフィギュアスケートの「映像作品」は手に入るかというと、その術が非常に少ない。特に日本人選手に関しては、個人輸入を手段に含めて皆無といってよい状況である。もっとも、フィギュアスケートに限らずスポーツの放送権及び録画権というものはそれを取り仕切る団体とテレビ局との間の契約による制限が大きいこと、そして一過性イベントである一大会がその後に映像作品として商品になるなど考えられないといった部分は考慮しなくてはならない。だが、契約云々以前に、基本的に放送は再販を前提とした流れにないのが現実だ。

せっかく得られた映像をその場限りの放送で終わりにしてしまうのは非常にもったいないことであり、あらゆる放送において「再販の可能性」はあるという意見は私に限ったものではないだろう。付け加えるならば、所謂インターネットによる映像配信はこうした再販の可能性において非常にマッチする配信方法だ。もちろんHDTV映像の場合は帯域問題があるし、フォーマットに関らず配信コストと採算度の問題は常につきまとうが。

しかし、それ以前の問題がある。というのも、テレビ局は常に新しい放送を見てもらわないと視聴率を維持できず、安定した広告収入を確保できないという事情があるため、今放送されている内容を差し置いて視聴される全てのメディアは彼らの収入にとって敵となるといった構造になっている。こうしたテレビ局の構造は多くの識者によって言及されているが、パッケージ販売にしろインターネット配信にしろテレビ局過去の放送の切り売りに及び腰な最大の理由は権利関係云々よりここにあると言ってよい。人々の時間は限られており、その視聴時間レンタルビデオインターネットにまわされることは、テレビ局の存亡を揺るがす事態なのだ。

その一方で、時代は既に変わっている。世代交代と共に「ヒマな時はテレビを見る」スタイルは着実に縮小していることは疑いない。猫も杓子もテレビから得た情報を共通の話題とする時代は遠い昔の遺物だ。とはいえ、テレビ局の収入源であるスポンサーが望む広大な影響力をテレビ以外で得られるかというと、今のところ代替がない。インターネット広告は原則として大規模な影響を起こすには向かないニッチ向けの広告媒体だ、ということは何となく理解できるだろう。つまり、テレビ局としてその流れをやめることは根本的に採算の基準を立て直さなければならないことと同義であり、それが故に彼らは動かないし、動けないとも言える。

経済活動においては誰もが世界を牛耳りたがっている。テレビ放送による広告はそれを実現化するために非常に有用なツールであることは間違いなく、衰えたとはいえ現在でもその効果を十二分に発揮している。だがその構造が故に失われている多くのものを、少しずつでも何とかする方向性はそろそろ見出せないものか。

日本でこの先鞭をつけられるのはNHKだと私は思っている。プロジェクトXのような例もあるわけだし。せっかくスポンサー企業に依らず成り立ってるのだから、自分達が持つ放送の資産価値を今一度見つめなおす取り組みをしても悪くないのではないだろうか。お国の掲げるコンテンツ立国とやらは、そういう部分から芽生えてくると思うのだ。

2008-04-04 芸術としての音楽に対する無関心の考察

以下、小寺信良氏の「コデラノブログ3」4/3記載内容より引用

日本音楽シーンの未来を考えるならば、貧しい音質でDRMガチ着うたなんかに金を払うのは辞めるべきだ。この日本独特の産業構造が、確実に芸術を殺している。

読んでいてスっと喉に通らなかったので、考え付いた流れを素直に書いてみた。気になったのは「貧しい音質でDRMガチ着うたに金を払っている人々」が音楽をどう認識しているか、という点だ。

以下、思春期の段階で携帯が当たり前のように手元にある世代の価値基準を推定して書く。彼らにとって携帯は「持っていることが前提」であり、またその差別化によって所有者のセンスが問われるファッションアイテムである。携帯の機種はもちろんのこと、携帯によってできることの記号の組み合わせとそのセンスが日々の交流の旨味を決める一因となっている。つまり、たまたま傍にいる感じのよさそうな知人友人が格好いい携帯流行の曲を聴いていて、それを周りの人間に聴かせながら「この曲いいよねー」というようなシチュエーションが生じると、それに乗り遅れまいと同じような携帯で同じ曲を買って聴くわけだ。ウォークマン世代向けに言うならば、ウォークマンを持っている誰かがいると(持っていない)自分もウォークマンを欲しがったあの感覚である。着うたの消費は、こういう流れの中にあるんじゃないの? と私は推定している(申し訳ないが統計をとったわけでも裏づけを見つけたわけでもないので、その点はご留意いただきたい)。

上記のような現象が何を言わんとしているかというと、音楽は既に「隣人との共感のための記号」であって「芸術」ではないということだ。つまり「同じ音楽を聴いている」ことが重要なのであって「その音楽がよい音響環境で視聴できる」ことなど眼中にないのである。これは思春期層の若者に限らず、基本的に着うたを買うことができる消費者層の潜在意識として存在する。「あるテレビ番組の話題が仲間内で興ったときに、その話題に入るためにその番組を後から追っかける」人と同じ行動原理である。そのとき、誰がテレビ番組映像画質を話題に上げるだろうか。そんな奴はそもそもその話題に入れないだろう。そんな彼らにとって自分が携帯で購入する音楽DRMガチかそうでないかとか音質がどうかなどということは本質ではないのである。仮に音質を問う場面になったとしても、それは携帯の機種であったりイヤホンのブランドや値段だったりするわけだ。だから音楽データ自体はとりあえず聴ければそれでよく、他に移せないなら他に移さず流行の終了と共に消しておしまいである。まさに「音楽使い捨て」だ。

ここで一つの疑問が起こる。仮に上記の「音楽使い捨て」が事実だとして、それが何で音楽という芸術の衰退に繋がるのか、という点だ。携帯でたいしたことない音質でDRMガチとはいえ、音楽自体はある程度売れており、その一部は(建前通りならば)権利者つまり音楽の製作陣に行き渡るはずである。なお、携帯を通じて聴く音楽の音質と音楽消費者層の「耳」に関する話はそもそも「いい音質とは何か」という論点についてズバっと答えを出せないことから割愛し、お金の流れに限って話す。

もともと音楽というものは聴き手が聴きたい媒体で聴きたいときに聴ける「アーカイブを許す」構造が作られていた。ラジオチェックでマイテープを作成していた時代からCDを借りてMDに録音していた時代まで、形とお金の流れは違えどこの構造は維持されていた。このため、ふとしたときに懐かしく思い出した音楽をそのとき聴くことができた。メディアを通じて音楽を消費する人々の欲求と消費の構造は、こうした「再起の容易性」に支えられてきた点を捨て置くことはできない。何故なら人々にとってそうした音楽を聴けるテープMDCDは所有欲を満たすものでもあったからだ。もちろん人によってはテープMDをなくしてしまって聴けないこともあるだろうが、その場合の原因は少なからず自分にあるのだから納得いかない部分はないだろう。本当に聴きたかったら改めて借りるなり買うなりする。そういう感情の落としどころが、これまでの音楽流通形態には許されてきた。

しかし、音楽データ流通させることを容認する代償にDRMを設けた時代から話が変わり始めた。音楽使い捨て消費者層を前提として流通し、アーカイブを許さなくなった。仮にminiSD等で携帯の外に持ち出せても、携帯そのものが壊れたり機種変更したりすればそれまでだ。こうして音楽は「再起の機会」と「所有欲の満喫」を失い、本当に音楽を聴きたい人にとって不便と欲求不満が募るだけのものとなった。そしてそんな人々はいつしか、不便が伴う音楽流通を見放し、コピー制限がない代わりに入手ルートが怪しくて権利者の正当な保護が図れないかもしれない音楽データを入手するようになるわけだ。

もちろんコンテンツの値段やコピーの可否に関らず、誰かが流した出所の怪しいデータをコレクションして喜ぶ連中はどうしても少なからず存在するものなのだが、コピーガードという発想は「それさえなければちゃんとお金を払ってそのコンテンツを買ったであろう人」までそちら側へ押し流してしまうのである。これは音楽消費者層がゼロになることを意味しないが、音楽を支えるお金の流れを不健全にし、その産業基盤を崩していく流れであることは疑いない。付け加えるなら、今でこそCDはダビングOKだが一時期コピーコントロールを導入しようという流れがあったわけで、音楽を取り巻く「販売側」の活動は音楽にとって極めて危険な方向性を持っている。ちなみにこれは音楽に限った話ではなく、映像作品も似たような状況だ。

上記のような傾向は、芸術の維持向上を主眼とする文化論としてはゆゆしき問題だ。もちろん、文化と経済バランスを懸念する人々にとっても大きな問題である。しかし、大半の消費者の日常に文化論は存在せず、たまたま飲み会の席でネタにあがっても一方的な権利者叩きか行政の不備に対する愚痴となって酒の肴になる程度である。そして、文化を後押しする形で波に乗った経済活動がいつしか文化そのものを飲み込んで押し流し、後には養分を吸い尽くされた荒地が残るという有様は資本第一主義の必然でもある。所謂フロンティア精神の悪い部分である「おいしいところだけ食べて後片付けはしない」やり方である。ただ、着うたの消費がこうした経済活動の悪い一面を後押しすることは間違いないので、そういう意味で上記の引用による注意喚起を結びの言葉とした小寺氏の執筆そのものに疑問はない。むしろ問題は「着うたの消費=音楽の衰退」の三段論法(というほど段を踏んでいないが)を認識できるのかどうかだろう。

要は「コンテンツ産業において文化と経済が両輪ならば、その両輪を互いに支え続けられる構造をちゃんと作ろう」という発想に基づいた仕組みづくりが出来ていないのが問題なのである。現状は、経済側が一方的に文化を切り売りしている。文化側が「このままでは吸い尽くされて枯れ果ててしまう」という危機感から対策を講じると、仮にそれがトレードオフとして真っ当であったとしても(使い捨てに慣れた消費者層は)「権利者のエゴだ」と切って捨てる。そして妥協点という名目で中間搾取層を中心に出来た料金制度は有耶無耶のままに中間搾取層を太らせるだけのいびつなシステムとなって残る。それじゃクリエイターはやる気なくしちゃうよ。

ただ、こうしたコンテンツ産業に対する意識消費者層に持ってもらうのは思いのほか難しい。何故ならば人は基本的に「自分と関係のないこと」に興味のない生き物だ。そして「多くのクリエイターの存続と、将来のクリエイターを育てる環境の構築維持が危ぶまれている」ことは、今の彼らにとって関係のないことなのである。特に海の向こうのあの国に住まう商売上手な方々にとっては。

情報の向こう側に危機感を持つことはとても難しい。それでも戦い続けるMIAUや多くの有識者の方々に、敬礼。あ、私は関係者じゃないよ?

2006-08-22 発展に追い詰められるということ

世の発展に対し、単純な力押しによる邁進は市場に対しだんだん通じなくなりつつある。

x86CPUを引き合いに出すとわかりやすいのだが、これはトランジスタの発展と共にとにかく集積度と処理系列を「力押し」で増やしてきた。だがトランジスタのスケーリング発展限界がこれに事実上の終止符を打っている。

世の中が未成熟な間は、その未成熟な部分に対して「力押し」――つまり投資と意思が続く限り発展に向かって妄信的にスケールアップを試みればよかった。あとはその時点では包みきれない部分を切り捨て、包み込めた部分を「新たな技術」としてクローズアップすればよかった。しかし、必要十分な処理能力を満たしてしまった現代のデバイスはこれに待ったをかけた。「力押し」では投資に見合った明確な差別点、セールスポイントを生み出せなくなった。

そこで市場がとった道はもうひとつの力押し、つまり「価格競争」だった。価格競争の基本は原価の削減、細かくすると概ね以下の通りだ。セオリーだと上から切り下げられる。

  • 材料費の削減
  • 人件費の削減
  • 流通費の削減
  • 広告費の削減

断っておくが価格競争というのは、必ずしも劣悪品ばかりが並ぶ不毛な活動ではない。初期ロットでは削りきれなかった不要な部品点数や工程の見直し、ひいては流通のスマート化を模索できるよい機会である。ただしそれは力押しの範囲を見誤らなかった場合の話で、大半は主に人件費の部分で過負荷をかける。これが結果として検査の劣悪化や人材の磨耗――ひいては技術流出や技術低下に結びつく(とはいえ十分なコストを掛けたからといってそれがゼロになるわけではないという点も見逃せないが)。

我々の目に映る市場で、単純な「力押し」が通じる部分はどんどん少なくなっている。それと同時に「力押しではない創意工夫」――言うなれば「組み合わせるアイデア」が必要とされている。つまりそれは、

だったりするわけだ。パクリと紙一重のこの世界だが、マニアにしか分からない過去からの系譜などにとらわれず大衆を引き付けられるミックスジュースこそが次の金鶴になる。

もちろんこれは今に始まった話ではない。だが、力押しが通じなくなったからこそミックスジュースが注目されるようになった。ただそれだけのことだ。

昔は努力の天才――つまり「力押し」であるだけで相対的に優れることができた。だが市場は既に「おいしいミックスジュースを作れない馬鹿は死ね」と我々に告げている。人は発展することによって自ずと自分たちが選ばれし者になる敷居を上げているのだ。

なんてことを考えると、『東京BABYLON』で語られた台詞が妙に信憑性を帯びてくる。東京日本で最も「滅びに向かってひた走る地」であると。つまり発展するということは「単純な力押し」による盲目的な努力賽の河原で積みあがった石の如く脆いものにするのだと。それはゆるやかに、しかし確実に大衆へ「馬鹿は死ね」という烙印無力感を与える。ドレッドノートが就役前の薩摩型に旧型の烙印を押し、斉射によって砲手を必要としなくなったように。

結果人々は既に反映した権力と金にすがることを盲信し、それが出来なかった連中を見下すことを優越とする馬鹿エリートと称される市場を作り上げた。いや既にそうなっているのかもしれない。人は金という統一的価値観でお互いを持ち上げ、あるいは切り捨てられる方向へどんどんと流れている。無論もともとそういう奴らはいた。だがそうじゃなくても良かった人たちまでそうなった。そうならざるを得なかった。それが市場評価だから。

これを打破するにはフロンティアでも開拓しなければならないんじゃないか。人は今一度、真っ白なキャンパスに一から何かを描くような機会がないと行き詰まってしまう気がしてならない。戦争を起こさずにその舞台を作るには、もう地球だけでは足りないように思える。そう考えると、月や火星を目指すのはあながち間違っていない気がするから不思議だ。

次の世代が夢見るのは、持っているお金の量で市場価値を測る世界か。それともフロンティアか。私だったら後者を望む。だって人には夢が必要だと思うから。