動物として思うこと

池内恵さんの知的な誠実さに頭が下がる。「自由主義者の「イスラーム国」論・再び〜異なる規範を持った他者を理解するとはどういうことか」(http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-219.html)を読んで改めて思う。
私たちがどうしてイスラム国をきちんと批判し、拒否しなければならないかを、自由や平等を尊重する立場からつづっている。私も少し、自分を規定し直して物事を考えた方がよいのかもしれない。

私も「自由主義者」だ。他者からの、行動や思考に対する介入を受けたくないし、受け入れないという意味において。こういうのは消極的自由主義というらしい(自らの意思の実現を積極的になし得る状態を自由と考えるのが積極的自由)。
同時に「相対主義者」でもある。これは、世界には何かしら絶対的な真理があるという「絶対主義」を否定する考え方ではない。絶対的な真理など無い、と言ってしまえばそれはまたひとつの絶対主義になる。相対主義とは絶えず自分の立場について問い直し、「正しさ」を安定させない立場である、と取りあえず言う。ゆえに自分のこの「相対主義」的な態度が正しいかどうかも突き詰めることはできない。
そして「歴史主義者」でもある。これは社会全体など大きなレベルに限らず、一個人においても、その行動や思考は時代や環境に規定され、それらの桎梏から自由ではあり得ないとする考え方。私たちが考え振る舞うということは、常に時代と環境という条件に強いられた上でのこと。私という主体も、歴史という大きなテキストの交わる一点と捉えるのがよいと考える。
そして「運命論者」でもある。私という主体の独自性を否定すると自由意志や責任というものを認めにくくなる。もちろん、何かをしたいと思うことはあるが、それはあくまで、私がこの時この場所に置かれた結果に過ぎない。自発的なように思われることがみな、時と場所に規定される定型的な思考パターンの表れだとすれば、その時と場所へと私を押し流す運命のことを思わないわけにはいかない。責任についてはアイロニカル。それは常に物語の産物である。むろん物語にも出来の良しあしは存在するが。
さらに「動物」でもある。人間以前に一個の動物。人間が動物よりも上等な存在だとは考えない。人間の理性よりも、動物のすることに学べることが多いと感じる。彼らは無駄話もせず、むさぼりもしない。食べる以上に殺すことをしない。

さて、そんな人間がイスラム国のことを考えるとどうなるか。
自由主義者」としては論外の存在だ。強制的にイスラム教に改宗させる、でなければ殺すなどというのは最大級の介入。受け入れがたい。
しかし「相対主義者」としては、もしかすると彼らの方が正しいのかもしれないとも思う。人間にとって、他からの介入を拒む自由などそもそも不要で、神の言葉に従って暮らすのがあるべき姿なのかもしれない、とも。
同時に「歴史主義者」としては、イスラム国がこのように存在するに至った経緯を思わざるを得ない。イスラム国にしろ、生まれるべくして生まれた存在に違いないからだ。それを思うこと抜きにして、ただ残虐性を非難できない。私たちは、現在に連なる歴史の存在を否定できない以上、歴史の結果に対して謙虚であるべきだ。
一方、「運命論者」としては、特に何も思わない。皆なすべきことをなすのが、運命に従うこと。
そして「動物」として、イスラム国の殺人や戦争を拒否し、忌避する。同時にアサド政権の民衆弾圧やアメリカの空爆を拒否する。覇権主義や利権争いには鼻をつまみ遠ざける。何とかして頓挫させてやりたいとも思うが、それは動物としては余計事か。

大事なのは、死なないことと殺さないこと。シリアやイラクにおいて、人間が「とりあえず生きている」ということさえ難しい状況に置かれているのは事実だ。イラクやシリア政府、その他の国々は、もう少しきちんとイスラム国の政体ときちんと向き合うべきではないか。テロ組織と交渉する必要はない、というのは理屈だが、彼らがいつまでも「テロ組織」にとどまる存在なのかどうか。交渉可能でオープンな存在になってもらう方がマシではないのか。このままぐずぐずやっていても、現地の人々の苦しみが長引くだけ、と考えるのは政治的には筋悪なのかもしれない。しかし筋が悪くとも、まず停戦の構えを見せ、死者を減らすことは必要だ。問題はイスラム国の側に当事者能力があるかどうか、かもしれないが……。