しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

北村初雄と「海港」派のこと


扉野良人さんが中務秀子さん主宰のリトルマガジン『DECO・CHAT』のコラムに書いていたのを読んで、大正時代の横浜に「海港」派と呼ばれた詩人たちがいたことを知った。外交官だった柳澤健山名文夫と親しかった熊田精華、そして結核により25歳で亡くなった北村初雄。

『海港』は北村初雄、熊田精華、柳沢健の三人の詩集である。傍題には(Yokohama Sentimental)とあり、彼等が指差す港は横浜であった。外交官の柳沢が、横浜育ちの若い北村と熊田に持ちかけて編まれた。ふと思うのだが、神戸の竹中郁らによる海港詩人倶楽部は、この詩集に因んだ、彼等のKobe Sentimentalだったのかもしれない。(扉野良人「海港」)


「横浜」と「北村」と来て、ふと北村太郎を思い出したこともあったし、なにしろ昔から才気溢れるにもかかわらず夭折した人々(山中貞雄ジャン・ヴィゴ岡田時彦青木繁や田中恭吉や左川ちかetc, etc)にどうも惹かれてしまう性分なので、三人のなかでは、北村初雄のことがいっとう気掛かりであった。


それで、北村初雄のことをちょっと調べてみようかなと思い立って目録などをあたってみると、三木露風の研究者だった安部宙之介の書いた『詩人北村初雄』(木犀書房、1975年)がどうやら基本図書のようであった。けれども、とりあえずは入手しやすい江森国友『「海港」派の青春―詩人・北村初雄』(以文社、2003年)を先に読んだのだが、これがいけなかった。評伝と呼ぶにはあまりにお粗末というかなんというか、いろんな意味(誤植もあれば、自分の詩書と北村初雄のそれとを比較して、古書店でいくらで売られているかを記したりという公私混同ぶりよ...)で残念な本で、精華の実弟、熊田千佳慕のすばらしい細密画の表紙が悲しくなるようなしろものなのだけれども、唯一、神戸の海港の詩人竹中郁が初雄の没後に父親宛に送った書簡が一部転載されていることだけは、安部宙之介本にない貴重な資料として特筆されるだろう...などと、エラそうに(!)つらつらと考えてしまったのであった。ともかく一から仕切り直して、「近代詩史の貴重な資料」(長谷川郁夫『堀口大學―詩は一生の長い道』)であるところの、安部宙之介『詩人北村初雄』を読んでみた。


この本には、北村初雄が師事した三木露風をはじめ、柳澤健堀口大學日夏耿之介矢野目源一岩佐東一郎西条八十芥川龍之介竹久夢二、坂本繁次郎などさまざまな文学者や画家の記した北村初雄宛の書簡と、一番の親しい友人だった熊田精華宛の北村初雄書簡がおさめられている。関東大震災も知らず1922年12月に呆気なく亡くなったこの夭折の詩人の詩作は、居留地横浜のハイカラでエキゾチックな香気を十二分に堪能できるとはいえ、今の眼で読むと、素直でのびのびとしていて愛らしくはあるもののオプティミズムにみちた「坊やの詩遊び」というような感覚が横溢している。明るい光線に彩られた印象派絵画のようでいて、しかし典雅な魅力まではいま少し届かないような、気品が漂うけれどもまだ表現が研ぎ澄まされているとは言いがたい、瑞々しい少年のような詩。こういう詩の言語が可能であった大正とは何と不思議な時代であったのか。


第二詩集『正午の果実』(稲門堂書店、1922年)*1は、「薄紫の羅針 1918年(少年時代の回想)―海港横濱に―」と題されたセクションからはじまる。「羅針」「海港」と来ると、扉野さんも書いているとおり、ここで竹中郁の『羅針』(1924年創刊)とその発行元だった「海港詩人倶楽部」を思い出さずにはいられないし、ここにおさめられた、1916年の『文章世界』に投稿された詩篇「海の人形」(露風が第一席に選んだ)には、煌めく才能の萌芽が見てとれる(後期の作品をのぞくと、わたしが目にした詩篇に限って言えば、古風な美文だけれども、この作品が彼の詩作のなかでもっとも良いもののように思う)。読んでいてふと気づいたのだけれど、初雄と一つ違いの吉田一穂の第一童話集のタイトルは『海の人形』(金星堂、1924年)なのであった。それで、この二人に何か接点はなかったのだろうか?ということがそわそわと気になりだして、今度は『定本吉田一穂全集』(小沢書店、1992〜1993年)を首っ引きで調べているところなのだけれども。


日夏耿之介が「北村君は、『樹』だけで死んでよかった人である」と書いている、その遺稿詩集『樹』をわたしはまだ見る機会をもたないので、その全貌は判らないのだけれども、収録されているいくつかの詩篇を読むと、自分の死期を察していたのか、あきらかに『正午の果実』の頃の明るい詩とは印象が違うように見える。


それから、気になるのは春山行夫北村太郎である。春山行夫の初期の詩篇は、大岡信によりフランシス・ジャムやアルベール・サマンを引いて言及されているという類似だけにとどまらず、北村初雄の詩に出てくる「さようなら恒子さん!」というフレーズは、『春山行夫詩集』(吟遊社、1990年)にあった「さようなら、ツネシくん」(今、手許に資料がないので記憶が頼りなのだけれど)をどこか思い起こさせる。


北村太郎の場合は、この連想が突飛なのは承知しているし、完全にわたしのいつもの思い込みかもしれないけれど、本名の「松村文雄」の二文字が「北村初雄」と一致する(こんなパズルの欠片を組み合わせるようなことを考えるのは、彼が戦時中海軍で暗号解読の仕事に従事していたから)のだし、25歳で夭折した北村初雄が横浜育ちの象徴派圏内の詩人だったことは、28歳で夭折した象徴派の詩人・三富朽葉に心酔した過去のある北村太郎にとって、かなり親しみを感じさせる存在であったのではないか?と、まあ、こんなのはたんなる憶測にすぎないのかも知れないけれど。そういえば、北村太郎の筆名の由来って聞いたことがないな。どこかに書いてあったかしら?むむ、どなたかご存知だったらぜひとも教えていただきたいと思います。吉田一穂と北村初雄についてはまた後日(の予定)。

*1:北村初雄の二冊の詩集はデータベース化されているもよう。http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/