現代語私訳『福翁百話』 第二十七章 「子どもは家の財産に依存してはいけません」

現代語私訳『福翁百話』 第二十七章 「子どもは家の財産に依存してはいけません」



「額に汗を流して働き稼いで、自分で生活する」ということは、私たちがどんな時も瞬時も忘れずにいるべきモットーであり、たとえどのような身分の人であっても、仮にこの世界に暮らして生活する限り、その生活に必要な分は働いて稼がなければなりません。
つまり、人間の世界においては、与えて得る、働いて稼ぐ、という交換の原則があり、この原則は決して動かないことです。
また、その労働のありかたにおいて、それぞれの職業における精神や肉体の使い方はいろんな種類が数多くあり、かなり違っていますが、そのようなありかたはしばらく置いておくとして、ともかく、働かなければ生活費を得ることはできません。


働けば必ず生活費を得ることができる、ということがきちんとわかっていれば、他人を無理やり働かせて自分は働かずに生活しようというような無理な望みは持たないことでしょう。


幸い、人間の本性の中には自己利益を求める心が存在し、自分が働いて他の人の生活費を与えようとするような風変りな人はいないので、どのような我がままな人であっても、やむをえず生活費や娯楽費のために苦労して努力して、世界の経済を円滑にするための仕事の一部を担い働くわけです。


しかし、さらにもう一歩進んでこの社会の本当の姿を観察するならば、自然と多くの風変りな人々が存在することを発見することでしょう。
その風変りな人とは誰でしょう。
その風変りな人を名づけて、父親・母親と言います。


この世界の父親や母親は、黙々と努力して働き、自分自身の生活費を稼ぐと同時に、子どもや孫のための努力や用意を行い、場合によっては巨万の財産を子や孫に遺し、年齢の順番に従って死ぬならば、その遺産をそのまま相続する者は二代目の子どもの相続人であり、自分で働かなくても生活する方法があり、父母や先祖は子孫のために苦労して少しも自分たちの利益を考える心がなく、子孫はそうした親や先祖の苦労の恩恵にあずかってのん気に人生を生きていくので、働かざる者食うべからずという経済の原則があるこの世界の普通の感覚から見ればなんとも奇妙なことのようではありますが、人間もまた自分の子どもを愛する動物であって、その愛情を止めることができず、子どもを愛し孫を思ってずっと先のことまで考えて工夫することは、今の社会のありかたにおいては人情の命じるところですので、そのことが良いか悪いかと議論することは無益なことですのでその是非は置くとして、ただ注意すべきことは、子どもである人がどのような心構えを持っているかということにあります。
「額に汗を流して働き稼いで、自分で生活する」というモットーが、はたして真実で間違いのないことである以上は、たとえ億万長者の家に生まれた子どもであったとしても、働かずにぶらぶら暮らして空しく生活するということはあってはなりません。


先祖から受け継いだ遺産は、ただ偶然の幸運というだけのことです。


生れてから両親に養われて最も良い教育を受け、すでに成人になったのであれば、まさに他人から保護される状態を辞退して、独立して自分で稼いで自分で生活していく時です。


しかし、この社会の現実を見れば、大金持ちの子孫は何の慎みもなく大金持ちとして暮らし、この社会の苦労や困難の様子を見ても、自分だけはあたかも人種が違っているように思って、少しも自分を反省することもなく、傲慢で横柄に振る舞うだけでなく、たとえ贅沢三昧や遊蕩三昧とまではいかなくても、とかく精神や肉体の労働を避けて、毎日を無駄に消費して過ごす人が多いものです。


そもそも、そのような人の考えや心をつきつめてみれば、親の財産を抵当に入れても平然と遊んでいることでしょう。


本当に言語道断の状況であり、たとえていうならば、豚の子どもがすでに成長してもう十分に駆け回ることができるようになり、普通の食べ物を自分で求めて食べれば不自由はないはずなのに、しばしば母豚の後に付きまとい、乳を飲もうとする様子と同じです。


人間であって豚の子どもと同じとは恥ずかしいことではありませんか。
ですので、この世界の大金持ちの人々はいかに大金持ちであっても、その家に生まれた子どもは、人間は本来無一物、何も持たずに生れてきたと覚悟して、ただ成人に達するまでは父母の保護を受けるだけのことであり、それ以降は自分自身で独立してこの人生を生きていくというモットーを忘れてはなりません。