現代語私訳『福翁百話』 第九十七章 「しゃちほこ立ちは芸ではありません」

現代語私訳『福翁百話』 第九十七章 「しゃちほこ立ちは芸ではありません」



若者たちが集まって酒を飲み、酔っぱらって遠慮する相手もいなくなると、それぞれに得意の芸を披露し、その座の余興として楽しむ時に、お互いに自分の芸を誇らしげに披露して、義太夫を語る人がいたり、謡曲を歌う人がいたり、舞ったり詩吟をしたり、場合によっては琴や三線を演奏して、その人の日ごろからすれば意外だと大喝采を受けることがあります。
このことをかくし芸と呼んでいます。


このかくし芸を披露する時にあたって、一人の若者が、自分には何のたしなみもないことに困り、突然座敷の真ん中に出てきて、みんな酔っぱらっている中で、自分の身体を逆さまにして、手を畳みについて両足を天に向かって伸ばしました。
その席の人は皆、大変驚き呆れて、みんなこれを誉めずに、逆に笑って、しゃちほこ立ち(逆立ち)は芸ではないと罵り、若者も大いに閉口したというおかしな話があります。
そもそも、座敷でのしゃちほこ立ちはあまりに殺風景というだけでなく、普通の若者にとっては別に珍しくない遊び戯れだからです。


さて、このおかしな話を引用して人間における物事を議論しましょう。
およそ人間として、嘘を言わず人をだまさず、物を貪ることなく盗みを働くことなく、言葉や行動が信用でき、なんら心に恥じることなく生きることを、正直の徳があると言います。
とても誉めるべきことです。
しかし、これを誉めるのは、他の不正で不正直人に対して、そうした人よりは良いということに過ぎません。
ただ単に正直だからといって、万物の霊長たる人間としてこの文明の世界でなすべきことが終わるわけではありません。
文学、技芸、ビジネス、工業、政治、宗教といった事柄に至る、数限りない人間世界の物事に視野を広く持って思いや考えの幅を広く持つことこそ、学問のある人や知識人のかくし芸、いや本来の持ち味とも言うべきことです。
わずかに自分のちっぽけな誠心誠意の真心だけを頼りにしてこの世を渡っていこうとするのは、しゃちほこ立ちの一芸によって若者たちの世界で喝采を得ようとすることと同じです。
大変思慮のないことです。
耳や目や鼻や口が備わっているものを人の顔と言います。
正直であり偽ることがないものを人の心と言います。
格別貴重だと思う必要はないものです。
仮にも立派な人間だと自分で自負する人は、「徳のある人は孤立せず必ず仲間を持つ」(「徳は孤ならず必ず隣あり」)と言うように、交際する人々もまたきっと立派な人物であり、その言葉や行動は、人によって早かったりゆっくりしていたり剛毅であったり温厚であったりする違いはあるでしょうが、重要な機会に臨んで廉恥心を大事にしない人はいません。
もしも廉恥心を持たない人がいるとすれば、問題はその人にあって自分はかかわりのないことであり、自分は文明の世界の一員であって文明を進歩させるための努力に忙しいので、他人の廉恥心や正直がどうであるかのようなことは、一々気にも留めず、いつも自分の一身の出処進退をこそ自分でよくコントロールし、かつまた自分をコントロールしていることをそれほど意識していない様子は、顔に耳や目や鼻や口を備えながら自分ではその機能をそんなに自覚していないようなものであり、そのようであってこそ、はじめて独立して行動する立派な人物と言えるものです。


広い社会を見るならば、徳のある行動をする立派な人物は少なくはありません。
そのことはとても良いことですが、その立派な人物が徳のある行動を重視するあまり、あげくのはてにはことさらに人に示していささか自負の心を持つことがあります。
あたかも、世の中にめったにない珍しい器のコレクションを持って得意となっているようなもので、もしそうならば、私はあんまり感心しません。
音もなく匂いもないところに存在するはずの誠心誠意の真心が、ややもすると本人の言葉に現れ、私は日ごろから嘘は嫌いです、私は愚直な人間なのでこのことだけは死んでもできません、他の人はいざ知らず私は反対です、私は生まれつき借りたお金は必ず返し、物をもらったならば必ず御礼をしないことはありません、などと言います。
いわゆる、正直を売るということであり、ひどい場合には、自分は天皇に忠実で親に孝行だという様子を、それとなく何かの機会にちらほらと言葉や行為に現して、暗に世の中に見せびらかそうとするような人がいます。
その内心をうがって酷評するならば、ひそかに君主や両親をおもちゃや道具として自分の名前や評判のために利用するものだと言えます。
最もいやしむべき振る舞いです。


しかし、そうではあるものの、忠義や孝行や正直は、単に外見だけでも人間の社会における美しいことだと言いますし、また世の中には本当は立派でない見せかけだけの人だけでなく、本当に立派な人物も多いことですので、深くその内実がどうであるかを追及することなく、本物のも見せかけの人もひとくくりにしてそうした人を良いものだと認識しても良いことでしょう。
こうしたことは、大目に見過ごして差し支えありません。


しかし、ここにおいても見過ごすことができないのは、こうした類の、徳ある行為をしているという人に限って、ややもすると愛情や憎しみの思いやこだわりが極端に強いということです。
自分の心にかなう人物は、その人の賢さや愚かさも問わず、物事の利害も顧みず、その人に親しみ愛すること、親子や兄弟のようであり、それと反対に、一度その人を憎む時は、復讐すべき仇に対するようであり、和解することが決してできません。
若者において、鬱気味の人や、あるいはいわゆる喧嘩っ早い人は、決まって生真面目なタイプに多く、年長の者において、癇癪持ちや感情の起伏が激しくて近づきがたいタイプの人はしばしば徳のある行為をしているという立派な先生がたによく見られます。
本人の心がどうであるかに関係なく、そうした振る舞いの影響は要するに社会にとって害悪であり、間接的あるいは直接的にさまざまな災いの源となることでしょう。
結局、文明の程度がまだ高くなく、世の中の人の視野がまだ広くなく、ほんの少し悪徳の状態から抜け出ることをこの上なく良いことのように認識し、ひとつのことだけにこだわって文明への入口は数多くあることを忘れているということであり、そのひどい場合には見せかけだけの立派な人物があげくのはてに生じるようになったというわけです。


私の持論は、もちろん徳のある行動をなおざりにするということではありません。
徳のある行動を重視し、実行しようという心は他人にひけをとらないつもりです。
しかし、道徳というものは、文明の中のひとつの分野のことであり、人間における他の物事と同時に同じように発達させていくことを望んでいるわけです。
このことから見るならば、忠義や孝行などに正直であることだけを人生においてこの上なく大切なこととし、安心立命の目的とし、そうしたことに正直であることだけに努力し、正直であることだけを人にも勧めて、そのことのためだけに喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだりして他の思いがないような状態は、智恵や道徳のレベルがまだ低いものだと、ひそかにそうした人を気の毒に思っています。