グリフィス 「国民の創生」

國民の創生 [DVD]

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グリフィスの「国民の創生」は1915年につくられた映画で、いまから百年近く前の映画。


映画史の上でときどき名前は聞くので、見てみたのだけれど、この映画はなんといえばいいのだろうか…。


二部構成で、一部は、冒頭で「この映画を通して戦争の悲惨さを理解することがあれば、本望である。」という内容のテロップが流れるので、最初は反戦映画なのかなあと思って見ていた。


実際、一部では、二つぐらいの家族が主な舞台で、南北戦争によって幸せな生活が崩れ、大事な家族が戦死していく様子が描かれる。


とても百年前の映画とは思えない、なかなかよくできたテンポの速いリズムで映画が進んでいく。


ほおーっ、と思いつつ、二部に移ると、んんっ?!と思わざるを得ない。


まず、二部の冒頭で、ウッドロー・ウイルソンの、今日から見れば驚かざるを得ない、KKKは南部の防衛のためにできた、という内容の著作の一節がテロップで流れる。


その一節だけ切り取ってみただけでは本当の意味はわからないかもしれないし、前後の文脈を見てみないと本当のところはわからないとはいえ、ウイルソンはこんなことを言っていたのか、と驚きつつ見ていると、映画の内容への驚きはそれどころではない。


良し悪しは別にして、要するに、KKKがあたかも正義の騎士のように描かれている。


つまり、南北戦争の後の、再建期の南部における、過激な北部からの押し付け政策や、一旗組の横行や、黒人の増長に対して、自らの防衛のために立ち上がったのがKKK,という内容。


黒人の横暴や、白人女性への無理やりの求婚や、そのための白人女性の自殺などなどが描かれ、KKKはそれらに正義の鉄槌を下す存在として描かれている。


ちょっと、現代の観点からすれば、もうこのような内容の映画はとてもつくることができないだろうし、ただただ唖然とするのだけれど、百年前のアメリカにおける感覚というのは、このようなものだったのだろうか。
南部の白人から見た歴史というのは、このようなものなのだろうか。


たしかに、歴史にはいろんな視点があるので、このような視点からの歴史もありうるのだろう。


州によっては、南北戦争後、黒人の議員が7割を占めたところがあった、ということがこの映画で描かれていて、ちょっと驚いた。
また、映画だと、無知で野蛮な黒人が、州議会でも足を席の上に乗せたり、靴を脱いだり、ともかく礼儀がなっていない様子が描かれていた。
なんだかKKKのつくったネガキャンプロパガンダのような気もしないこともないが、案外とそういうこともあったのだろうか。
良し悪しは別にして、いろいろな側面もあったのかもしれない。


いろんな意味で考えさせられる、不思議な映画ではあった。


にしても、南北戦争や、その後もこんな映画がつくられた大ヒットした時代のことを考えると、オバマさんが大統領になったというのは、我々の想像以上にアメリカの歴史においてはすごいことだったんだろうなあと、あらためて思わされた。

内田樹・釈徹宗 「はじめたばかりの浄土真宗」

はじめたばかりの浄土真宗 (インターネット持仏堂 2)

はじめたばかりの浄土真宗 (インターネット持仏堂 2)


面白かった。


特に、印象的だったのは、


内田さんが言っていた、


・霊的直観には二種類があって、「この世は常識でははかりしれないということがある」ということと、「私はこの世になぜ送り出されてきたのかその理由がわかった」ということがある。しかるに、前者はあまりたいしたことはなく、大切なのは後者だ。


・何かしら科学で説明のつかない「奇跡」があったとして、それに驚くよりも、「その「奇跡」をどうやって君はこの生活の仲にリンクするのか?」「その体験を日常生活にどう生かすのか?その体験が市民としての適切な振る舞いにどう生かされるのか?」という問いの方がよほど大事だし、智慧を要す。


という言葉だった。


なるほど〜。
本当そう思う。


また、念仏とは霊的次元への回路であり、


「ここではなく、こことは違う、ここより上位の境位が存在し、私はそれを信じる」


ということではないか、という内田さんの言葉も、なるほど〜っと思った。


釈さんが言っていた、


現代社会においては「宗教性の成熟」、つまり、ディセントで、かつ「日常へと還元する力」として宗教性を持ち、「貧すれども鈍せず」、「そんなところに人生の価値はない」、と考えていくことができる生きる力を持つこと。


・ある現実に対し、どれほどの縁が内在しているか、思いをいたし、喜び、頭を下げる姿勢こそ、本当の宗教。


ということも、なるほどーっと思った。


・無知と被投性の自覚。
・狂信とニヒリズムのあわいが常識。
・常識は原理になりえないが、そうであればこそ倫理である。


ということも、面白かった。


悪人正機について、


・人間が人間についてくだす善悪の判断は、人間の存在理由や存在価値を最終的に決定することができない。なぜなら、人間がなんのために、なにをなすために存在しているのか、人間が完全に知るということはありえないからだ」


というメッセージである、というのも、なるほどーっと思った。


浄土真宗に興味がある人、ないし宗教性一般に興味のある現代人が読んでみると、面白い一冊ではないかと思う。
一知半解で浄土真宗について軽率な否定や批判をしている人にも読んでもらいたい。

メモ 華厳経

「一の中に無量を解(さと)り、無量の中に一を解(さと)り、展転して生じて実に非ざるの智は畏るるところなきなり」
(一中解無量、無量中解一、展転生非実、智者無所畏)

「一のうちに無量をさとり、無量のうちに一をさとり、一と無量とたがいに生起するさまを見るならば、その人は畏るるところのない人になるだろう。」

華厳経 如来光明覚品)


「自分はまさに一切衆生の中において首者となり、勝者となり、殊勝者となり、妙者となり、微妙者となり、上者となり、無上者となり、乃至、一切衆生の依止者となろう。」
華厳経 十地品)




「願わくば、この善根をもって広大無礙のあらゆる境界を修習し、成就し、増長することを得よう。
願わくば、この善根をもって、仏の正教の中において乃至一句一偈をも聴聞し、受持して、演説することを得よう。
願わくば、この善根をもって、法界と等しい無量無辺のあらゆる世界の三世一切の諸仏を憶念することをえ、すでに憶念しおわって、菩薩の行を修めよう。
また、願わくば、この念仏の善根をもって、一人の衆生のために、全未来劫において菩薩の行を修めよう。
一世界におけるが如く、全法界・全虚空界のあらゆる世界にもまた同様にしよう。
一人の衆生のためにする如く、一切衆生のためにもまた同様にしよう。
願わくば、この善根をもって、一切衆生のために大荘厳をもってみずから荘厳し、仏と善知識とを離るる想いを起すまい。」
華厳経 金剛幡菩薩回向品 江部鴨村『口語全訳 華厳経』上巻892頁)



如来のあらゆる清浄の智慧を、願わくば一切衆生をして皆具足せしめ、なおまことの仏子の普賢のごとく、あらゆる功徳をもって自ら荘厳しよう。
広大の神通力を成就し、世界に遊歴してことごとく行き渡り、一切衆生をしてあますことなく、みな菩薩の道を修行せしめよう。
諸仏如来の開悟したまうところを、十方無量のもろもろの衆生をして、一切みな普賢菩薩のように、最上の行として具足し修行せしめよう。
諸仏・諸菩薩の成就したまうところのもろもろの功徳は、種々の差別があって辺際がないけれど、願わくば衆生をしてことごとく円満せしめよう。」
華厳経 金剛幡菩薩回向品 928頁)


「願わくば、過去・未来および現在の、あらゆる一切もろもろの善根をもって、我をして常に普賢の行を修めて、すみやかに普賢の行に安住することを得しめたい。」
華厳経 金剛幡菩薩回向品 931頁)


「仏子よ、十地は実にあらゆる仏法の根本であって、菩薩が具足してこの十地を行ずるならば、よく一切の智慧を得るだろう。」
(十地品 943頁)



「もろもろの仏子よ、この心は大悲を首とする。智慧増上の方便にまもられ、直心・深心至淳であってその量仏力に等しく、よく衆生力と仏力とを決定して無礙智に趣向し、自然智に随順してよくあらゆる仏法を受け入れ、智慧をもって教化し、広大なること法界のごとく、徹底せること虚空のようで、よく未来の限りを尽くす。」
(十地品 歓喜地 952頁)


「このもろもろの衆生を自分はかならず救護して、究竟の安楽処に導かずにおかないだろう。」
(十地品 963頁)


「つねに慈悲心を行じ、つねに信あって恭敬し、慚愧の功徳そなわり、昼夜に善法を増し、功徳の実利を求めて、もろもろの欲を楽(ねが)わない。」
(十地品 971頁)



十種の直心
柔軟心、調和心、堪受心、不放逸心、寂滅心、直心、不雑心、無貪心、勝心、大心
(十地品 離垢地 976頁)


「一切衆生の悪道に堕する者は、みな十不善業の道による。
自分はみずから善法に住しよう。
しかしてまた、人のためにもろもろの善法を説いて、正行のところを開示しよう。
なぜなら、自分自身が善を行ずることができなくて、他人のために法を説いて善を行じさせることのできるわけがないからである。」
(十地品 離垢地 978頁)


「げに聞法こそは、あらゆる仏法の本である。」
(一切仏法以何為本不離聞法為本)
(十地品 離垢地 994頁)



「一切求法転加精勤日夜聴受無有厭足、 喜法、愛法、依法、順法、満法、弁法、究竟法、帰法、救法、隨順行法」
(十地品 発光地)


「如説の修行によってのみ仏法は得られる。言説だけでそれの得られる訳はない。」
(十地品 発光地 996頁)


「この菩薩は忍辱の心・柔和の心・調順の心・悦美の心・不瞋の心・不動の心・不濁の心・高下の無い心・報を期待しない心・恩に報ゆる心・不諂の心・不誑の心・素直な心をより一層純粋なものにする。この菩薩は四摂の中では利行を主とし、六波羅蜜の中では忍辱波羅蜜を宗とする。」
(十地品 発光地 999頁)



「彼らは貧窮にして福慧なく、つねに三毒の猛煙に焼かれ、しかも孤独無依にして救護者なく、地獄のうちに堕在して、無量に痛苦に虐げられる。
放逸なる凡夫人は、もろもろの煩悩の海に沈み、眼つぶれて見るところなく、諸仏の法宝を喪失し、
つねに生死の流れにしたがい、かえって涅槃の楽(ねが)うべきを怖れる。自分は精勤して彼らを度脱せしめよう。
(十地品 発光地 1002頁)


「いかなる方便をもって救済すべきであろうか?
ただ如来の深妙なる無礙智をもってするほかない。
この智は何から生ずるか?
無行の行慧から生ずる。
しかして思惟は智慧の本であって、思惟は多聞から起こる。」
(十地品 発光地 1002頁)



十種平等心
過去の仏法に対する平等にして清浄な心、未来の仏法に対する平等にして清浄な心、現在の仏法に対する平等にして清浄な心、戒に対する平等にして清浄な心、心に対する平等にして清浄な心、見・疑悔を除滅する平等にして清浄な心、道と非道との智における平等にして清浄な心、修行・智見における平等にして清浄な心、一切の菩提分の法をうたた勝れて観察する平等にして清浄な心、一切衆生を教化する清浄にして平等な心。
(十地品 難勝地)


「このような苦悩孤独の衆生には救う者もなく、宿す者もなく、究竟して導く者もない。
ただ自分一人のみが、等侶を超えて福慧を修習し、その資糧をもってこの衆生をして畢竟して清浄ならしめ、乃至、如来の十力無礙の智慧を獲得せしめよう。」
(十地品 難勝地 1021頁)


「実のごとく第一義諦を了知せざるを無明と名づける。無明は業をおこす。」
(十地品 現前地 1035頁)


「無明に随順すれば、すなわちもろもろの世間がおこる。もし随順しなければ、すなわち一切の世間を断つ。」
(十地品 現前地 1046頁)




十種の方便慧
一、 よく空・無相・無願の三昧を修すといえどもしかも慈悲をもって衆生を捨てない。
二、 諸仏の平等の法を得るといえどもしかも楽(ねが)ってつねに仏を供養する。
三、 観空の智門に入るといえどもしかも勤めて福徳を集める。
四、 三界を遠離するといえどもしかも三界を荘厳する。
五、 畢竟してもろもろの煩悩の炎を寂滅すといえどもしかもよく一切衆生のために貪・瞋・痴の焔を起滅する。
六、 諸法は幻のごとく、夢のごとく、響のごとく、焔のごとく、化のごとく、水中の月のごとく、鏡中の像のごとく、自性の無二なることを知るといえども、しかも心の作業にしたがって無量に分別する。
七、 あらゆる国土はあたかも虚空のごとしと知るといえども、しかもよく清浄の妙行をもって仏土を荘厳する。
八、 諸仏の法身は本性の無身なることを知るといえども、しかも相好をもってその身を荘厳する。
九、 諸仏の音響は性空・寂滅であって言説することができないと知るといえども、しかもよく一切衆生にしたがって種々差別の清浄の音響を出だす。
十、 諸仏に随順して三世はただこれ一念であることを承知すといえども、しかも衆生の意解・分別にしたがって種々の相・種々の時・種々の劫数をもって所業を修める。
(十地品 遠行地 1052頁)



「仏子よ、たとえば人が船に乗って大海を渡ろうとする場合、船がいまだ海に出ないうちは、多くの努力を要するけれど、一たん船が海に出てしまえば、風に任せておのずから進行し、しかもその速度は前のそれに百倍・千倍する。仏子よ、菩薩摩訶薩もまたかくのごとく、広大の善根を積集し、大乗の船に乗って菩薩の行海を行くに際し、今は無功用の智をもって、よく一念のあいだに一切種智に達することが出来るのであって、従来の功用の行は一劫もしくは百千劫を以てしても、今のそれに及ぶことが出来ないのである。」
(十地品 不動地 1074頁)


「この菩薩は実の如く衆生心の難・煩悩の難・業の難・根の難・解の難・性の難・楽欲の難・随眠の難・受生の難・習気相続の難・三聚差別の難を知る。」
(十地品 善慧地 1092頁)


メモ2
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20120408/1333858347

大平真理子 「英国の戦争詩人たち」

英国の戦争詩人たち―第一次大戦に加わった詩人たちの生涯

英国の戦争詩人たち―第一次大戦に加わった詩人たちの生涯

イギリスの詩人で、第一次大戦に参加し、それぞれに戦争をテーマに詩をつくったルパート・ブルック、ウィルフレッド・オウエン、シーグフリード・サスーンの三人について、簡潔にその人生をまとめてあって、面白かった。

ルパート・ブルックはとても美青年だったそうで、ケンブリッジで学び、上流階級に多くの友人があり、誰からも愛される青年だったそうだ。
フェビアン協会に参加し、社会主義に情熱を燃やしたり、サモア諸島を旅して南国の自然や風物を愛したりする一面もあったそうである。
しかし、第一次大戦で、戦病死する。

オーウェンは、貧しい家庭で生まれ育つが、苦学し、戦争の悲惨さに直面する中で、それらを詩に書き綴った。
第一次大戦が終わるわずか11日前に戦死を遂げた。
戦場では勇敢で、勲章までもらったそうだが、戦争の非道を告発し、戦争がいかなるものかを示すその詩は、本当にすごいと思う。

サスーンは、大金持ちの家に生まれ、戦場では勲章をもらうほど勇敢な戦いぶりを示すが、戦争のバカバカしさや悲惨さについて多くの詩を書き、勇気を持って反戦の声をあげたそうである。
第一次大戦の後までかなり長く生き残ったが、一次大戦の心の傷は終生重くのしかかったそうだ。

一次大戦がなかったならば、これらの三人の青年も、どれほど普通な、幸せな人生があったのだろう。

そのことを思うと、なんとも悲しい気持ちにさせられた。

日本ではあまり一般的によく読まれるわけではないようだけど、特にオーウェンの詩は、そのうちしっかりと読んでいきたいと思った。

鷲田清一・石黒浩 「生きるってなんやろか?」

生きるってなんやろか?

生きるってなんやろか?


けっこう面白かった。

特に、なるほどーっと思ったことは、

自分が何をしたいかとか、自分にしかできない仕事とは何か、など考えるより、

「自分はこの世の中の一人の人間として何をしなければならないか」

をしっかり考えるべきだ、というのは、なるほど〜っと思った。
本当にそのとおりと思う。
そう考えると、気が楽になる気もする。

また、世の中の本当に大事なことほど、なかなか答えがない、決められた正解などないものであり、

わからない問題に根気よく付き合って考えていく「知の基礎体力」こそが大事だ、

という話も、なるほどーっとあらためて思った。

知性のタフさ。
本当に大切なことだともう。

また、研究とは、研究に打ち込む姿勢を見せて、「人生とは何か」「生き方とは何か」を見せるということでもある、ということと、

死ぬ思いをしないと新しいものは生まれない、

ということも、なるほど〜っと思った。

ぱらぱらっとななめ読みしたのだけれど、これらの言葉に触れることができただけでも、手にとってみてよかったと思う。