もうすぐガザ戦争が始まって半年になる。
この半年間、ずっと違和感を抱いていることがある。
それは、あまりにも日本のメディアが、また多くの人々が、パレスチナ寄りに偏向しているのではないかということである。
もちろん、ガザの悲惨な状況を伝えることは大事である。パレスチナ人も大切な生命であることはもちろん言うまでもない。
だが、中立あるいは日本のようにどちらの勢力とも地理的に距離のある立場から、まず確認しなくてはならないことは、パレスチナ人もイスラエル人もどちらも人権があり、どちらも大事な生命であるということである。
ゆえに、どちらの人権にもきちんとした配慮と尊重が払われなければならないことである。
しかし、イスラエルの人質のことは、ほとんどきちんと日本のメディアにおいて十分な注意が払われることはなく、きちんとした特集が組まれたこともない。
いつの間にか、人質は過去の問題のような扱いすら感じる。
だが、2023年10月7日に人質となったおよそ240人のうち、いまだに130人以上が人質の状態のままである。
その中には、すでに死亡している人々もいるのではないかと推測されているが、100人以上が未だに人質の状態にある。
そもそも、人質をとるのはジュネーヴ第一条約3条1項bで禁止されており、ハマスがイスラエルの一般市民を人質にとっているのは明確な国際法違反で、深刻な人権侵害である。
停戦を求め、イスラエルに抗議するデモが、日本でも欧米でも数多く行われている。
平和を求めてそれらの声を挙げるのは良いとして、それと同程度の声が、人質解放のために本来は挙げられるべきではないか。
アメリカ・カタール・エジプトが仲介し、一時停戦のための交渉がなされているとはいえ、今までのところ、人質全員の解放に至っていない国際社会や国連、及び諸外国の無力や力の足らなさを、人質の方々やその家族らに対して心の痛みを持って感じている人々は、戦争反対の声を挙げる人々の中にどの程度いるのか、見てていつも疑問になる。
人質全員が解放されることが、まずは人権の要請として、また国際法上、最も重要なことである。
そのことが、どうもあまり重視されていないように感じることに、違和感が拭えない。
ざしきわらし、あるいは光の玉
先日、彼女と島根県に旅行に行き、途中島根に住んでいる友人と会った後、出雲大社に近い海沿いの温泉旅館に泊まった。
そこは、ざしきわらしが出るということで有名な旅館で、私も彼女も楽しみにしていた。
おもちゃを持参すると良いそうで、彼女は紙風船などを百均で買ってきていた。
だが結局、はっきりとはざしきわらしがいるのかどうか、よくわからなかった。
夜中にちょっと不思議な物音が窓の外で複数回したことと、窓は閉まっているのに、いつの間にか置いていた紙風船の位置が動いていたことぐらいが、多少不思議なことで、それ以上は何もなかった。
しかし、その後、不思議といえば不思議なことがあった。
ひとつは、翌日出発し、出雲大社に行った時のことである。
大きな松の並木道を通って、鳥居をくぐって、有名な社殿を見物していたら、おそらく六十代ぐらいの白髪の、目の大きな神主さんが話しかけてきた。
こっちに、と前に立って歩かれて、今はいそがしいのでまたあとで12時にここで待っていください、と会館の前のようなところに案内しておっしゃった。
理由はなんだか聞けない雰囲気だったので、特に聞かず、二時間ぐらい間があったが、その間、付近を散策し、すぐ近くのお店で食事することにした。
出雲割子そばを食べてから、また12時にそこに行ったら、すぐに神主さんがやってきて、ついてきてください、と前を歩かれた。
そうして、八足門という、一般の人はそこまでしか入れないところの入口に進んでいかれて、浄掛けという仏教の輪袈裟のようなものを私たち二人に掛けてくださり、守衛さんに何やら言うと、私たちに入るように言ってくださった。
驚きながらついていって八足門から入ると、眼の前に楼門があった。楼門より先には、出雲の国造しか入れないそうで、さすがにそれ以上は私たちは入れなかったが、楼門を目の前にし、また開いている楼門から奥の本殿の様子が間近で見れた。
貸し切り状態で、ゆっくりと通常は見れない八足門の内部を拝観させていただいた。
江戸中期頃に造られたという、国宝の神殿建築は見事だった。
楼門の前の空間は、八足門の外のにぎわいが嘘のような、しんとした静まり返った空間で、一瞬が永遠のようにも感じられた。
その後再び、ついてきてください、というので、ついていくと出口で、そこで浄掛けを回収されて、神主さんはお辞儀をしてすぐに去っていかれた。
とうとう、理由はおっしゃられなかった。
大勢の観光客が、八足門の外でお参りし観光している中で、なぜ私たちだけがその中に入れていただけたのかわからなかったが、不思議なことだった。
二つめは、そのあと、出雲大社からちょっと離れたところにある、須我神社の奥宮に行った時のことである。
そこは、昨年に光の球体のようなものが映っているという写真と文章をSNSにも書いたことがあったが、山の奥にある場所で、去年のちょうど今頃に行った。
いわゆるパワースポットで、太古から磐座として大切にされてきたスサノオゆかりの場所と伝えられる山の上の巨岩である。
去年行ったときは大勢の人がいたし、その後に見たNHKの番組では、毎日行っているという方のお話が紹介されていた。今や観光名所の一つのようである。
ところが、である。
その日の昼、須我神社の奥宮に行ったところ、直前まで大雨が降っていたせいか、人っ子ひとりいなかった。
私たちが着いた時には、ちょうど雨が止んでいて、多少道が濡れていたものの、気を付けて山を登っていったら、無事に安全に登ることができた。
道中、誰とも会わず、ついに巨岩のある場所に来ても、誰もいなかった。
しんと静まり返っていた。
その巨岩は、三つの岩があり、スサノオとその妻のクシナダヒメとそのあいだの子どものスガノユヤマヌシミナサロヒコヤシマノミコトの磐座とのことである。
やや大きなのが父親で、それより小さいが寄り添っているのが妻で、小さな岩がその子ということで、もともと大きな三つの岩があったのを、夫婦と子に見立てて古代から大切にされてきたということなのだろう。
縄文弥生の頃は文字などなかったが、このような自然の岩などを通じて、家族の理想をあらわしたり、何かしらのメッセージをそこから汲み取り、大事にしてきたのだと思われた。岩の近くには、きれいな山の清水が滾々と湧き出しているところがあり、とてもおいしかった。特定の宗教は関係なく、大自然の恵みとそれに対する応答の場のように思われた。
雨のあとのせいか、山の奥のせいか、霧のようなものがうっすらとあたりに立ち込めていて、ものすごく澄んだ清らかな雰囲気が漂っていた。
胸を打つ何かが強く感じられ、彼女もそうだったようで涙ぐんで感動していた。
とうとう、誰もそこには来ず、しばらくしてから降りていく途中に、山の入口の近くでやっと登ってくる一組の御夫婦に出会ったぐらいで、本当にずっと貸し切り状態で、ありがたいことだった。
三つめに不思議だったことは、帰路のことである。
夕方、福岡に帰ることにし、島根の津和野方面から山口に抜けていく道を、彼女と交代交代で車を運転して帰った。
ところどころ左右の田畑や山には雪がうっすらと積もっており、まだ道路が凍結していなかったので運が良かったと思いながら通過した。
山また山の道で、ところどころに小さな集落が点在していた。
雪がところどころ白く染めている幻想的な景色だった。
ときどき眠たくなったり、肩がこったが、集中して、ひたすら運転した。
津和野を抜ける途中、カトリックの聖堂を通りがかった。
なんだか光の玉みたいなのが、聖堂に出たり入ったりしているのが見えた。
ちょうど粉雪が降ってきたので、太陽の光のいたずらかと思って、さほど気に留めなかった。
それから雪がだんだん降ってきて、心配したが、なんとか無事に萩の近くの道路まで出ることができた。
結局トータルで片道六時間以上かかったが、無事に福岡にたどり着き、夜遅くに家に帰ることができた。
島根に住んでいる友人に無事に帰宅したことをメールしたら、私たちが通り過ぎたあと、すぐに津和野方面の国道や県道が雪のため通行止めになったそうで、無事に帰れたかどうか友人は随分心配していたとのことだった。
道中、間一髪で何事もなく、通行止めに遭うこともなく、無事に帰れたのも、不思議といえば不思議なことだった。
その夜、夢を見た。
私たちの道中、徒歩の時も、車で行く時も、しゃぼん玉か光の玉みたいなのが常に先導し、周囲を囲み、その数が徐々に増えたりしている夢だった。
それらは神社やお寺や教会を通る時にはそれらの場所に出たり入ったりしていて、そこで増えたり光が強くなったりしていた。
その様子を見て、世の中の宗教というのは、どれもあまり境目はなくて、どれも何かしら大きな光の貯蓄場だったり停留所だったりするらしいと思っていた。
また、ざしきわらしというのは、この光の玉の一つなのだろうとぼんやり思っていた。
起きて彼女にその夢を話すと、ぐっすり眠っていたのでほとんど夢は見ておらず何も覚えていないが、そういえばそのような夢を見たような気がする、とのことだった。
以上のことは、どれも現実的に合理的に解釈しようと思えばいくらでもできる、たいしたことのないことばかりかもしれない。
べつになんら不思議なことではないと思う人もいるかもしれない。
しかし、言葉ではうまく言えないが、私たちにはとても不思議なことだった。
無事に良い旅に行って帰ってこれたことは、ざしきわらしのおかげだったのではないかと感じている。
そういえば、もう一つ不思議なことがあった。
紙風船などを再び入れて持って帰ったバッグを、家に帰ってから開いてみたら、買った覚えもない「縁」と書かれた新品のお箸が二人分、入っていた。
彼女と、これもざしきわらしからのいただきものだと思うことにして、毎日使っている。
(以上は、エイプリルフールの虚実を織り交ぜた、旅の思い出の話です。)
吉塚御堂
吉塚御堂の三周年法要に行った。
吉塚御堂は、今までその存在すら知らなかったのだけれど、吉塚商店街の一角にある多文化共生のお寺で、ベトナム・ミャンマー・日本の仏教徒の各宗派の方々が協力して建立し維持している。
友人のOさんから今日の法要をお知らせいただき、行ってみたところ、気さくなこじんまりした感じで、部外者の私も別け隔てなく参加させていただいた。
神戸から来たベトナム人のお坊さんと、門司の平和パゴダのミャンマー人のお坊さんと、吉塚の西林寺という浄土真宗のお寺のお坊さんが、順番でそれぞれの宗派の御経を唱えておられた。
ベトナム語のお経ははじめて聞いたけれど、朗々とした声の明るい節回しの御経で、意味はぜんぜんわからないけれど、なんだかありがたかった。
ミャンマーのお坊さんのお経は、十二因縁のパーリ語の箇所など一部分だけはわかった。
日本のお坊さんは無量寿経の重誓偈を唱えておられた。
敬虔な感じのミャンマー人やベトナム人の在家の信者さんたちが熱心にお参りされていた。
浄土真宗のお坊さんが少しお話されて、二十年以上カンボジアの支援をされているそうなのだけれど、カンボジアに行った時にカンボジアの最も偉いお坊さんにお会いすることができて、その時、それぞれの国の仏教が違った形や解釈があるのは当然で、大切なのは心であり、お互いを尊重し良いところを学び合えば良い、というお話を聞いて、とても感銘を受けたことがあったそうである。
その時に感銘を受けた思いから、吉塚御堂の建立に関わるようになり、共生・共習をめざし、今に至る、というお話だった。
お話を聞いて、宗教や宗派の違いで争ったりすることがこの世界には絶えないが、そのカンボジアのお坊さんのお話のように、それぞれの違いを認め良いところを学びあえれば、それが一番良いように思われた。
法要のあと、ぜんざいのお振る舞いもあり、おいしかった。
また、ベトナム人の神戸のお坊さんからは、参加者全員に5円玉が入っているというかわいい封筒のプレゼントも配られ、お坊さんが布施をもらうばかりではなくお坊さんの方からもお布施があるとは、日本ではあまり見られない、良い風習のように思われた。
それにしても、近所に住んでいても、ぜんぜん知らないこんな場所があるのだなぁ。
古居みずえ『ガーダ 女たちのパレスチナ』を読んで
古居みずえ『ガーダ 女たちのパレスチナ』読了。
いろんなパレスチナ人のおばあさんたちの人生の聞き書きが収録されている。
読んでいて、なんだか本当に気の毒になった。
彼女たちにとっては、突然わけもわからず戦争に巻き込まれ、家族を失ったり故郷を離れて苦しいばかりの人生だったことが伝わってきた。
その中に、トルコ統治時代はけっこうひどくて、それよりはイギリスが幾分マシだったという記述があって、へーそうだったんだと思った。
また、1948年以前のユダヤ人とは仲良くしていたこともあったことが記されていた。
しかし、二度のインティファーダで、そのたびごとに大きく雰囲気が変わっていったようである。
イスラエル側からすれば、アラブ諸国が仕掛けた戦争や、その後はテロや自爆テロと必死に闘ってきたわけだけど、戦争に巻き込まれるパレスチナ人女性たちは、本当突然わけもわからず大変な目に巻き込まれるという感覚だったんだろうなぁと思う。
また、ガーダというわりと若い世代の女性の話も載っていて、ガザのパレスチナ人の世界は、未だにけっこう男尊女卑が強くて女性は窮屈な慣習が根強いようである。
日本からは考えられないぐらいそうした圧力が強いようである。
読んでいて思ったのは、とてつもない暴力の応酬がずっと続いていて、大半のパレスチナの女性はただやむをえず右往左往するだけの長い年月ということである。
テロがやめばイスラエルも報復しないのだろうけれど、長年の恨みからテロを仕掛けて、報復で倍返しというのがずっと続いているパターンのようである。
いつになったら終わるのかわからないが、この本に書いてあるように、実際にユダヤ人とパレスチナ人が出会って言葉を交わせば、ガーダとイスラエルの警察官や語学学校の仲間たちが多少は心が通ったように、相手を人間としてみなすふうに変わっていくのだろうか。
それがあまりにも難しいことのように思える本だった。
この本は、イスラエルの2005年のガザ撤退の前の話で、ちょうどガザ撤退があって、これから希望が持てるような話も最後にちらっとあったのだけれど、それから19年、とんでもない事態になっていることを考えると、希望はどこにあるのだろうかと暗澹たる思いがする。
「家(HOME)」 歌詞の意訳・仮訳
昨年の年末、イスラエルで1000人のミュージシャンが集って人質の救出を願うコンサートが開かれた。
たまたま動画でその様子を見て、深い感動を覚えた。
動画に英訳の歌詞は映るものの、和訳がないようなので、かなり意訳しながら試みに翻訳してみた。
といっても私はヘブライ語は本当に初歩的な知識がないので、ほとんど英語からの重訳となってしまっている。
ゆえに、正確には違う部分もたくさんあると思うので、多くの方からの訂正やご助言を仰ぎたいと思う。
もともと、1980年代にイスラエルのレバノンとの戦争の頃に歌われたそうで、2000年代にも人質の解放を願う運動とともに歌われたことがあったそうである。
今また、ガザ戦争に関し、再びハティクヴァの曲と合わせて大勢で歌われた。
この歌の願いのように、無事に人質の方々が解放されることと、ガザの戦争が早く終わることを願う。
「家(HOME)」(仮訳・意訳)
さらに時が過ぎた。
ひどい時が。
雑草は道と庭に茂り、
風はため息をつく。
扉が開き、
古い壁が音を立てる。
まるで呼んでいるように。
家へ、わが家へ、
いまこそ帰ってきて。
丘から、異郷の地から。
日は沈み、もはや跡形もない。
家へ、わが家へ、
光が消えてゆく前に。
寒い夜、つらい夜が、
押し寄せている。
夜明け前に私はあなたのことを祈る。
恐怖に捕らえられているあなたのことを。
足音が聞こえる。
家へ、わが家へ。
まだ実現していないけれど、
それはずっと前に約束したことだから。
高史明 「歎異抄に導かれて」を見て メモ
先日、NHKの「こころの時代」という番組で、今年の7月15日に91歳で亡くなった作家の高史明さんが出演した「歎異抄に導かれて」という2004年に放映された回が、再放送されていた。
高史明さんが人生の折々に歎異抄に触れて得てきたことをお話されていて、その深い読みと領解にとても感動させられた。
特に四つのことがらが心に残った。
ひとつは、善悪のことについて。
歎異抄には、親鸞が善悪の区別について否定的で、自分は善悪について知らないと言い、悪人正機を打ち出している。
これについて、高史明さんは、自分の出自や政治運動に参加して挫折した体験を踏まえて、親鸞が言いたいのは、世間の善悪の基準と阿弥陀如来の善悪の基準というものがあり、前者に振り回される必要はなく、後者はなんだかはっきりとはわらないけれど、そのままの自分で良いと言ってくれているものであり、世間の善悪の基準は気にせず自分のあるがままで価値があるのだということではないか、そういうことを言っているのではないか、と受けとめるようになった、とお話されていた。
そう思うようになり、自分のあるがままのそれまでの人生を、何の意味もないと思っていたけれど、自分なりに価値があると思えるようになり、小説にしたところ、文学賞を受賞したそうである。
ふたつめは、自己責任や個人主義よりも、その背景にあるものの大切さについて。
高史明さんには一人息子がいたが、中学生の時にその息子さんが自殺したそうである。
理由はわからないそうだが、後悔されることは、その息子さんが中学生になった時に、とてもうれしかったこともあり、そして自分がそう生きてきたということもあり、これからは自分の行動に自分で責任を持って生きなさい、そしてまた人に迷惑をかけないように生きなさい、と言ったそうである。
今にして思えば、その時にそういうことを言うのではなくて、自己責任ということよりも、自分がこれまで生きてくるまでに、どれだけ多くの人の働きや支えを受けてきたか、またどれだけ多くの命を食べ物としていただいてきたか、そのことを思うようにしなさい、そしてまた、人に迷惑をかけるなということよりも、どれだけ多くの人に支えられているかを思いなさい、と言うべきであった、それが心から悔やまれる、というお話だった。
近代の自己責任や個人主義は、それだけではいのちのつながりを見失わせてしまう、私たちに本当に生きる力を与えるのは、そうしたいのちのつながりである、というお話だった。
みっつめは、供養について。
高史明さんは、息子さんの自死のあと、打ちのめされて、なんとか自分も息子も救われる道を見つけたいと思い、供養のために念仏やお経を一生懸命唱えようと思い、また唱えていたそうである。
しかし、その時に、歎異抄の中に、親鸞が自分は親の供養のために念仏は称えない、なぜならば生きとし生けるものは輪廻転生の中で自分の親兄弟だったからである、という意味のことが書いてあることに、衝撃を受けたそうである。
それで、一生懸命その箇所のことを考えて、思うようになったのは、親鸞が問うていることは、本当は私たちは誰もが、生きとし生けるものとつながっていて、いのちのつながりの中で生きているのに、そのつながりが見えていない状態で、自分の先立った親兄弟や子どものために念仏やお経を唱えるとして、その念仏や読経にはどのような意味があるのか、いのちのつながりを見るのが念仏や読経ではないか、ということを問うているのではないか、と思うようになったそうである。
狭い自分のことから解き放つのが念仏であり、逆ではないのではないか、と考えるようになったそうである。
四つめは、罪悪深重の凡夫という言葉の意味。
親鸞は罪悪深重の凡夫という言葉を使っているが、高史明さんはそれまではただ罪の重いのが凡夫だという程度に受けとめていたのが、だんだんと、自分もどの人も、人類の長い歴史を背負っている、人類の長い歴史の業を背負っている、そのことを親鸞は言っているのではないかと思うようになったそうである。
そう思うようになってから、以前は世の中の政治家などの悪いと思われる人に対して、その人は悪人で、自分はそれとは違う善の立場の人間で、あいつと自分は違うと思って批判していたけれど、その人も自分も罪悪深重の凡夫であり、人類の深い業を背負っている、なので全くの別物ではない、と感じるようになったそうである。
なので、その番組は2004年の放映なので、イラク戦争を事例に挙げられていたが、ブッシュ大統領についても、以前は悪いやつで自分は違うと思っていたろうけれど、戦争は嫌なので反対するし批判するけれど、しかし自分と全く別の人間ではなく、ブッシュ大統領も人類の長い歴史の業を抱えて苦しんでいる、あるいはこれから苦しむ人だろうし、自分も同様で、そこに違いはない、と感じるようになったそうである。
とても深い話だと思われた。
また、煩悩熾盛という言葉について、欲望や罪に火がついているということで、だったらじっとしていられない、その苦しみや悲しみが見えてくると、人を悪人として裁くのではなく、裁くのではないけれど、罪や悪に対してなんとかしたいとじっとしていられなくなる、それが親鸞の言っていた慚愧や念仏往生ではないか、ということをおっしゃられていた。
歎異抄は、私も折々に読んできたつもりではあったけれど、高史明さんのおかげで、より深く味わえそうな気がした。
いろんな人の深い読みや深い領解に触れることが、古典においては本当に大切なことなのだとあらためて思った。
『マッカーサー大戦回顧録』を読んで
先日、『マッカーサー大戦回顧録』上下巻(中公文庫)を読み終わった。
これはもっと分量の多い回想録の太平洋戦争と日本の占領政策に関連するところのみを収録した版だが、読んでいてとても面白かった。
感心したのは、その卓越した戦略的頭脳と、沈着冷静なところと、味方に対してポジティブで適切に褒めて激励し、敵に対して寛大であるところである。
敬虔なクリスチャンで夜寝る前は常に聖書を読み、祈りを欠かさなかったというエピソードも興味深かった。
日本の占領統治においては、常に寛大であることと、日本人の自主性を尊重することを心がけていたそうである。
そうしないと民主主義や改革が支持されず根付かないからと考えていたそうだけれど、基本的にそれは正しい姿勢だったと思われる。
衛生の向上、女性の地位向上、農地改革など、多大な功績と思う。
他者感覚に優れていたのは、フィリピンでの長年の経験があったからのようである。
フィリピンでも、フィリピンの自治や民主主義を尊重し、戦時中も日本から奪い返した土地は、速やかにフィリピン自治政府の民政に移行するようにしたそうで、それゆえフィリピンで強く支持されたようである。
回顧録を読んで感じたのは、ややナルシストっぽいところはあるようで、かっこいいシーンにかっこいいセリフを言って決まること自体を無上の喜びとしていたようである。
ただ、基本的に金銭や異性に対して権力を使って貪るようなことがなく、ただかっこいい自分でありたいだけだったようなので、権力者として最も害のないタイプだったと思われる。
イギリスやオーストラリアやソビエトが、日本に対してもっと厳しい占領政策を要求していたのをおさえて、マッカーサーが寛大な占領政策を行ったのは、日本にとっては極めて幸運なことだったと思う。
マッカーサー自身が回顧録に記しているように、公衆衛生の向上に努めて結核やコレラやチフスを激減させ、多量の食料を援助して飢餓から救い、おおむね規律ある寛大な占領統治に努め、報復や迫害を日本にしないようにしたのは、大きな功績であり、歴史に残る善行と思われる。
また、女性の地位向上や選挙権の実現、農地改革、財閥解体、軍国主義の除去と民主主義の制度的確立という思いきった改革の実現が、マッカーサー以外にできたのかは極めて疑問で、日本における立法者というべきか、ソロンやリュクルゴスに相当する人物だったようにも思われる。
歴史には稀に、極めて清廉で有能で、大きな改革をなすめぐりあわせの人物がいるが、マッカーサーはそういう人物の一人だったのだろう。
キリスト教と民主主義というアメリカの最良の精神と伝統を体現する人物がその時期の任にあたったというのは、日本にとって幸運だったと思う。
戦後レジームの脱却などと主張する人物が時折いるが、マッカーサー以上の人格と識見を持った人物でなければ、憲法や制度をいじっても改悪にこそなれ、改善にはならないのではないか、はたしてそういう人物がどれだけ日本の政界にいるのかと読みながら考えさせられた。
また、マッカーサーの回顧録を読んでいてとても印象的なのは、部下の米軍兵士たちへの深い愛情や信頼と、フィリピン軍の兵士や民衆への深い共感や愛情や愛着である。
父親の代からフィリピンの政治や軍事に関わり、自身も長く住んで勤務し、フィリピン軍の創設にも大きく関わっていたので、フィリピンへの理解や愛着はとても深かったようである。
ゆえに、バターン死の行進や、多くの戦場での米兵やフィリピン軍兵士やフィリピンの人民が死は、マッカーサーにとっては非常につらく悲しい、憤らざるを得ないことだったことが回顧録を読んでいるとよくわかった。
その一方で、にもかかわらず、日本に対して寛大な措置を心がけ実行したところが大変立派なことと思われた。
おそらくは、毎晩聖書を読み、よく祈る敬虔なキリスト者としての日々のあり方が、恨みや怒りをおさえて浄化し、寛大な精神をよく養い陶冶し涵養していたのだろうと思われる。
なお、マッカーサー回顧録によれば、マッカーサー自身は日本国憲法9条を完全非武装主義とは考えておらず、あくまで侵略戦争を禁止するためのもので、自衛権は存在しており、危機には「最大の防衛力を発揮すべき」と主張している(中公文庫版下巻242頁)。
これが当初からそう思っていたのか、朝鮮戦争に際して後日修正した立場なのかは検討を要するとは思うが、少なくとも自伝執筆の時点では、上記のようにマッカーサー自身が考えていたということではあろう。
「第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげてはいない。だれでも、もっている自己保存の法則に、日本だけが背を向けると期待するのは無理だ。攻撃されたら、当然自分を守ることになる。」(同241頁。)
あと、もう一つ、回顧録を読んでいてあらためて驚いたのは、マッカーサーは原爆の開発を全く知らなかったということである。
広島投下直前にはじめて聞かされたそうである。
トルーマンも副大統領だったのに知らず、大統領に就任してから知ったそうなので、さもありなんと思う。
本当にルーズベルト大統領と直属周辺だけで原爆開発はなされていたようである。
あとマッカーサー回想記を読んでてやや意外だったことがいくつかあった。
一つは、太平洋戦争の前半において、アメリカの物資補給やエネルギーはほとんど大西洋に集中されたので、マッカーサーは乏しい物資と兵員で戦わざるをえなかったという話である。
ニューギニア戦線でもそうだったらしい。
圧倒的な物量の米軍に物量の差で負けた、と日本側だと認識しがちだけれど、必ずしもそうでもなくて、むしろ米側の巧みな戦略戦術にしてやられたことも随分多かったようである。
アメリカは持てる力の七割をヨーロッパ戦線にそそぎ、太平洋戦線は三割の力で戦っていたそうである。
その三割のアメリカ軍に対して、圧倒的な物量と感じ、劣勢に立たされていた日本軍は、アメリカが十割の力で向かってきた場合、はるかに早く木っ端微塵になっていたのであろう。
また、やや意外だったのは、マッカーサーがビスマルク海海戦を転換点として重視してたことだった。
数多ある日本軍の敗北の一つぐらいにしか思ってなかったけど、この戦闘でニューギニア方面の日本の補給や輸送が完全に撃滅され、ニューギニアで米軍が勝利する決定打になったようである。
また、かなり意外だったのは、オーストラリアは当初日本軍の侵攻に震え上がって、国土の五分の四を放棄して首都近郊に防衛ラインを引く予定だったそうである。
マッカーサーがやって来て説得して、防衛ラインをニューギニアに引いたそうである。
マッカーサーの説得がなければ、オーストラリアは首都近郊に防衛ラインを引いて、日本軍は速攻でオーストラリアの北岸を占拠できていたのだろう。
とすると、太平洋戦争の流れもかなり違っていたと思われる。
マッカーサーはオーストラリアの首脳との関係が極めて良好で、オーストラリアとの連携や協力関係はとても良好だったそうだ。
アイゼンハワーが欧州で政治的手腕を発揮したのに対し、マッカーサーはフィリピンでも日本でも皇帝のように振る舞っていたので政治的能力が育たなかったので大統領になれなかった、という説を聞いたことがあるが、オーストラリアではかなりの外交的手腕をマッカーサーも発揮していたようである。
また、やや意外なこととしては、真珠湾は非常に強力な海軍基地なので、日本軍が攻撃しても撃退できるとマッカーサーは信じこんでいたという話があった。
そのため、当初の作戦も日本軍の真珠湾攻撃失敗を前提に考えていたそうである。
なので、最初のほうにつまずきや錯誤があり、アメリカ軍は大変だったそうである。
とはいえ、その後のマッカーサーのバターンまでの撤退作戦は見事だったようで、日本軍の目論見をかなり狂わしたとマッカーサーは主張している。
これに関しては異論もあるようだが、マニラを戦場にせずに迅速に撤退し、バターンで抵抗するというマッカーサーの采配は、初戦の劣勢においてはそれなりに見事な作戦だったように思われる。
あと、回顧録を読んでいてやや意外だったのは、山本五十六について、戦争開始前は戦争に反対していた人物だったと記していることだった。
きちんとそういうことはわかって認識していたことに驚いた。
また、日本軍の戦略的頭脳とも形容していた。
山本五十六については、日本海軍の第一人者で、勇者とも記していた。
山本五十六がブーゲンビル島に視察に訪れるという暗号を解読した時、謀略だと疑うスタッフも多かったのを、マッカーサーが山本五十六はそういう人物なので本当の情報だと判断し、熟練のパイロットに追跡撃墜を厳命したそうである。
マッカーサーの判断がなければ、山本も死なずに済んだのかもしれない。
敵軍の将についてもその経歴や性格について深い理解を持っていたことが、しばしば戦争の帰趨においても決定的に重要な判断となったように思われた。
日本はどの程度、敵将の人格まで把握していたのだろうか。
なお、マッカーサーはバターンの防衛戦で、常に死地に身を晒し、一般兵士と苦楽をともにしたことを回顧録において強調している。
脱出してオーストラリアに行ったことは大統領命令だったので仕方がなかったと強調しているが、たしかにそうではあったのだろう。
太平洋戦争中、日本軍の将校にも中には立派な人はいたのだろうけれど、しばしば最前線で一般兵士が苦労している時に芸者を呼んで宴会をしていたとか、それどころかフィリピン戦線では部下の将兵を置き去りにして飛行機で逃げ帰った将校もいたということを考えると、マッカーサーは本国の命令で最終的には脱出するものの、バターンの要塞で最前線で指揮をとってその身を危険にさらし続けていたし、食料も乏しかったので自分も粗末な食事だったという話を聞くと、そこからして勝敗はおのずとわかるような気もした。
もう一つ、マッカーサーの回想記を読んでいて意外だったのは、海軍側がフィリピンをスルーして台湾を攻撃すべきだと合同会議で主張したのに対し、マッカーサーがフィリピン奪回を主張し台湾攻略は無意味だとルーズベルトを説得したという話である。また、私はてっきりマッカーサーがアメリカの太平洋方面の軍隊を統括していたと思っていたら、そうではなくて、マッカーサーは南西太平洋方面軍を率い、キングやニミッツが太平洋方面軍というのを率いていて、指揮系統が全く別だったという話である。
マッカーサーはフィリピンとニューギニアでの戦場を専ら担当してて、基本的に沖縄戦は関与しておらず補助的な役割にとどまっていたようである。
また、1945年段階では沖縄戦に異議は唱えていないが、もともとは沖縄は戦場にすると自他に被害が大きすぎるので避けるべきと主張していたそうである。
連合国軍総司令官に就任したのは1945年8月15日だったそうである。
ちなみに軍事史的にマッカーサーが高く評価されるのは、2つの点のようである。
一つは「カエル飛び」作戦で、敵の拠点の島をひとつひとつぶさず、かなり距離の離れた先にある島嶼のみに集中攻撃して占領し、制空権や制海権を奪って他は無力化し兵糧攻めにするという作戦である。
もう一つは、陸海空軍同時運用であり、マッカーサー自身は、陸海空軍同時運用のことを三位一体とも呼んでいる。
どちらも今では当たり前かもしれないが当時は画期的だったようで、極めて効果をあげたようである。
フィリピンでは陸上兵力は日本のほうがかなり大軍だったが、この方法で米軍は圧勝したそうである。
もっとも、日本軍の航空戦力と海軍が壊滅していたので、日本軍はその三つを同時に運用したくてもできなかったということなのだろう。
ただ、それを割り引いても、日本の陸海軍の仲の悪さと連携の不足はよく指摘されるので、米軍もややそういう傾向はあり、しばしばマッカーサーが苛立ったことも回顧録に記されているが、おおむね陸海空が米軍は効果的に協力できたし、それにはマッカーサーの指導力や調整力が大きかったということなのだろう。
なお、感心したのは、マッカーサーは日本軍がフィリピンに侵攻した時にマニラからすぐに撤退し、マニラが戦場にならないように配慮し、マニラの非武装都市宣言をしたということである。
こういう配慮が日本軍の側にもあれば、スペイン時代から続いていた美しい古都マニラの破壊はなかったのかもしれない。
スペイン植民地時代に建設された大きな教会建築がマニラはかつては数多くあったそうである。
しかし、日本軍の防衛の拠点となってアメリカとの激しい戦闘の戦場となり、40以上存在していた大聖堂が3つしか残らなかったそうである。
マッカーサーのほうが、アジア解放を主張する日本軍の司令官たちよりもフィリピンへの理解や愛情が深かったようで、マッカーサーは古都マニラが破壊されないように最大限の配慮したが、日本軍にはそうした配慮がなく、マッカーサーはマニラの破壊を何よりも嘆いたことが回顧録を読むとよく伝わってくる。
思うに、日本軍の将兵の多くは、あんまりマニラの教会建築や景観の保存には関心も価値も見出しておらず、軍事的目的からすれば二の次三の次ぐらいにしか思っていなかったのだろう。
マニラの保存や、さらには京都への爆撃を慎んだアメリカは、やはり日本よりはその点大人の国だったように思われる。
また、回顧録を読んでいて感心したのは、マッカーサーが文が立ち弁が立つことである。
回想記には多くのマッカーサーの当時のスピーチも引用してあるのだけれど、それらも簡潔にして胸を打つものが多いし、文章も読みやすくて面白い。
特に感銘を受けたのは、戦没者を讃えたある演説での、「彼らの築いた昨日こそが、われらの明日を可能にしている」という言葉だった。
"duty, honor, country"の演説や「老兵は去りゆくのみ」のフレーズが有名だが、他にも多くの名演説や名文があった。
カエサル以来、欧米には文が立ち雄弁な軍人という伝統があるが、マッカーサーもその一つの峰だと思われた。
なお、この中公文庫版の回顧録はマッカーサーの回顧録の一部分で、朝鮮戦争の部分はないので、後日その部分は別に読んでみたい。
日本との戦争や占領ではこれほど卓越していたマッカーサーが、朝鮮戦争では判断を誤った上に過剰な攻撃を主張し、トルーマンから罷免されたとは、老齢が大きかったのだろうか。
いかなる英雄も老いには勝てぬということなのだろう。
マッカーサーの中国に原爆を二十六発打ち込むという計画がトルーマンに却下され罷免されたのは、自身は無念だったかも知れないが、マッカーサーにとって極めて幸運なことだったと思う。
そうでなければ大量殺戮の汚名を歴史に連ねたろう。
トルーマンの罷免のおかげで、歴史上めったにないほどの大量殺戮の悪業を積まずに済み、基本的に良い功績だけで人生を終えることができたのは、マッカーサーにとって極めて幸運なことで、日本における善業の数々が本人を守ってくれたということなのではないかとも思う。
「付記」
マッカーサーはフィリピンを押さえるかどうかが太平洋戦争にとって最重要と記していた。
そのとおりだったと思う。
日本側も必死で防衛に努めたのだろうけれど、フィリピンでは圧倒的に民心がアメリカを支持していたというのが日本軍にとっては痛恨だったと思われる。
現地の人々が抵抗ゲリラとなって米軍に協力したのは日本軍にとって決定的に痛手だったと思われる。
アジア解放を掲げる日本よりも、植民地支配を行っていたアメリカのほうがなぜフィリピンの人々に支持されたのかについては、以下のような理由があると思われる。
1,1934年のタイディングス=マクダフィ法で十年後の独立がすでに決定しており、日本の「アジア解放」がフィリピンの場合は必要がなくて迷惑以外の何物でもなかったこと。
2,1と関連して、1935年からすでに自治政府が存在し、21歳以上の読み書き能力のある男性には選挙権が与えられ、選挙によって選出された国民議会があり、かなり高度な自治と自由をすでに持っていたこと。
3,国民の大半がカトリックのキリスト教国であり、プロテスタントではあっても同じキリスト教国であるアメリカのほうが、天皇崇拝や神道を押し付ける日本より共感しうるものだったこと。
4,フィリピンのエリート層はアメリカと深い結び付きを持っており、たとえば当時の自治政府の大統領のケソンはマッカーサーと四十年来の親友であり、またそのようなエリート層が国民から深く信頼され尊敬されていたこと。
5,日本が物資の欠乏から、現地の食料や資源を供出させたため、フィリピンの一般庶民レベルでアメリカの支配下よりも生活が悪化したという感覚とそれへの反感が根強かったこと。また一部に日本軍による婦女暴行やビンタなどが横行したこと。
6,太平洋戦争の展開が、アメリカが優勢で日本が劣勢だったこと。勝ち馬に乗ったほうが戦後に有利であり、独立できると考えたこと。
などなどの、理由が大きかったのではないかと思われる。
第二次大戦当時、フィリピンはすでにアメリカから独立が確約され、国民の選挙にとって選出された自治政府が存在していた。
スリランカもイギリス統治下で憲法と選挙に基づく自治議会が存在していた。
台湾や朝鮮には全く独立の約束も自治議会もなかったのだから、アジア解放の声も虚しいと、アジアの人々からは受けとめられたのだろう。
また、日本の場合、善意で日本語や天皇崇拝を押し付けて同化を進めようとして、反発を受けると激怒して弾圧するので、現地の人にとっては最も嫌な植民地統治だったのではないかと思われる。
米英は現地の文化や宗教にあまり干渉せず、一応尊重する姿勢は示していたので、その点巧みではあったのだろう。
結局は、他者感覚の有無が勝敗を分けたのかもしれない。