解雇はチャンスかもしれない

それであれば、懐も心が一時的に痛んでも、きっちり辞めてもらった方がお互いの立ち直りは早いのではないでしょうか。全てのケースがそうだというつもりはありませんが、それが出来ている会社ほど経営者も従業員も、そしてOB/OGもいい顔をしているというのが私の手応えです。

弾さんが「人はよいけど、仕事ができない」従業員を事実上解雇したときの話。はてブを見ると、果たして彼に対して批判的なコメントが多い。しかし、この辞めさせられた「いい人」にとって、この解雇がチャンスかもしれない、という視点がなぜないのだろう?

どうもこの話を読んだ人たちの前提になっているのは、「この『いい人』は、絶対的に無能であり、弾さんの会社から首を切られたら最後、再就職の口などない」という考えであるようだ。本当にそうだろうか?この人は、プログラムは書けなかったかもしれないが、実は営業ならできるのかもしれない。総務ができるのかもしれない。あるいは、絵がうまかったり、歌が上手なのかもしれない。

弾さんの会社でやっている仕事など、彼の人格のごく一部でしかないのだ。それがうまくいかなかったからといって、彼が絶対的無能であるなどと断定することはできない。確かに、結局、彼は最後の最後まで自分に向いた仕事を見つけることはできないかもしれない。しかし、できるかもしれない。それはやってみなければわからない。

実は、市場経済というのは、まさしくこうした新たな可能性の探求のプロセスに他ならないのである。最初から分かっていることなどほとんどないのだ。だから、人も企業も、自分がもっとうまくやれることを探して、試行錯誤する。その場が市場なのである。

私自身の例でいえば、ある外資系企業で働いていたとき、ボスの間の権力闘争に巻き込まれたときがあった。組織人として、してはいけないことであったが、思うところがあって、私は直属のボスではなく、そのライバルの肩をもってしまったのだ。そのため、私は事実上クビを切られた。自分なりに一生懸命仕事はしているつもりだったから、当然ショックではあった。しかし、それがきっかけとなって、いまの会社を立ち上げることができた。だから、いまはむしろ自分をクビにしてくれたボスに感謝している。私は、どう考えても大組織で働くのに向いていない。自分に向いているいまのような働き方ができるようになったのは、前の会社が「おまえは向いていない」とはっきり教えてくれたからだ。

そういう私の価値観からすれば、「温情」ゆえにある従業員のクビを切らないというのは、社会的に見れば、その従業員の潜在能力をドブに捨てている、誠に残念な行為としかいいようがない。もちろん、会社も配置転換等で、その従業員の適性に合った職場を見つける努力は最大限すべきだが、それでも無理だと判断したら、むしろ解雇するのが、長い目でみればその従業員のためになるはずだ。

もちろん、従業員を解雇するときの気分の悪さはよく理解できる。だが、必要ならば解雇もためらうべきでないのが、経営者だ。なぜなら、経営者は与えられたリソースを最大限に生かす義務を負っているからだ。あるリソース(人的であれ、なんであれ)について、自分がうまく使いこなせないと判断したなら手放すのが、経済的に合理的のみならず、社会的にも責任ある態度だと思うのだが。