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三上のブログ

2006年10月14日

HASHI[橋村奉臣]展に行くことに決めた

| 00:08 | HASHI[橋村奉臣]展に行くことに決めたを含むブックマーク HASHI[橋村奉臣]展に行くことに決めたのブックマークコメント

10月28日(土曜日)と10月29日(日曜日)の両日、東京都写真美術館で開催中のHASHI[橋村奉臣]展に行くことにした。29日が最終日だから、なんとか間に合った格好である。『横浜逍遥亭』の中山さんとのやりとりをご覧になった橋村さんご本人から、身に余る光栄な強い誘いのメッセージもいただき、迷った挙げ句に、決心した。橋村さんが企画し実践している「生の展示」を体感できるのは本当に楽しみだし、橋村さんご本人にもお会いできそうなのでワクワクしている。熱く推してくださった中山さんにも会えることを願っている。中山さんもしばしば書かれているように、「ブログの醍醐味と効用」は計り知れない。ブログをやっていなければ、こんな出会いの僥倖はありえなかった。近郊にお住まいの方々とも接近遭遇できればなお面白くなるなと思っている。

今日になって、HASHI[橋村奉臣]展公式サイトの「ブログ記事紹介」で『横浜逍遥亭』は当然としても、『三上のブログ』の関連記事すべてがリンクされていることを知り、驚いた。(橋村さん、ありがとうございます。)私はまだ実物も見てもいない作品について、中山さんのいわば尻馬に乗って、直観を書いたにすぎなかったのに、それを橋村さんは、私にはまだはっきりとは分からないが、何か驚くべき勘で、ひょいと拾い上げてくださったような気がしている。ともあれ、とにかく、今からとても楽しみだ。

ブログ短歌 満月ブログ短歌 満月 2006/10/14 15:35 このブログを見て 感じたこと それは言葉の響きの偉大さだと思う わたしは 現代長歌復活というわけのわからない試みをしています URLを書くと コメントスパなんで書きませんが
言葉の響き だれかが 声に出せる詩 と書いていましたが
わたしも そう思います 修辞法もいいけど 「いいたい」という気持ちを大事にしたいですね

美崎薫美崎薫 2006/10/14 21:40 書き下ろし中の書籍の締め切りがいよいよ近く、すったもんだしているところですが、またまたおもしろすぎる…。

奄美大島での四日間は、一昨年の一年間のアメリカ生活に匹敵すると思い始めている。

アメリカ体験を本格的に追体験する準備が、二年たってようやく整いつつあるような気がし始めている。不思議なことだ。

私はいわば無自覚に、それに似たことをぼちぼちとやっていたことを思い出した。

体験というのは多重的なもので、解釈によっていくらでも、変更可能なものである、というように最近わたしは考えるようになりました。
過去でさえも、固定的ではなく、自由に変えられるだろう、と考えています。
ちょうど、読み終えた『猶予の月』(神林長平)早川書房が、時間のない世界という仮定で、まさにそれをいま読んでいるのが偶有性という感じですが、なに、偶有性は、もうわたしの場合、一日に二度も三度も起きるから、ぜんぜん偶然でないのだけれど(ちょうどfuzzy2さんも読んだらしいです)。うん。世界に偶然はない。
ま、それはそれとして、そうした夢想の果てにいまたどりついている疑問が、「時間はあるのか?」ということです。時間ってほんとうにあるんでしょうか? とくに客観的なといわれるような時間の正確さに対して、ひどく懐疑的になっていると同時に、能動的に楽しむことが大事で、それには時刻や時間はあまり関係ないんじゃなかろうか、などと考えるようになっています。

「記憶は通常の時間と空間の法則に支配されない」『コーネルの箱』(チャールズ・シミック/文藝春秋)

いっぽうで、SmartCalendarでカレンダーを推奨しつつ、こういうのも不思議なのですが、カレンダーを経て感じたのは、時間や過去が固定されてもおらず、ひょっとすると生死さえも固定的ではないのではないか、というような感覚です。
じっさいに、「追体験」で過去を変え得るとしたら、あるいは先祖がそこにいるというのが真実だとしたら?
これはちょっとまだ夢想的な段階にあって、充分議論になるほど成熟した意見でもないのですが、体験が解釈で変わるのだとすれば時間はない、というあたりまでは、かなりリアルな体験であります。

「共感覚」やアポトーシスや幼児期健忘症の話はおもしろくて、共感覚に似た現象は、「意識変性状態」と位置づけられますが、それは、松岡正剛氏に、

(1)LSDで誘発される共感覚っぽいもの、(2)写真記憶(フォトグラフィック・メモリー)の持ち主(例=映画『レインマン』のダスティン・ホフマン)のアタマの中でおこっていること、(3)側頭葉てんかんの持ち主のアタマの中でおこっていること、(4)感覚遮断実験でもたらされる共感覚めいた現象、(5)解放性幻覚がもたらす感覚(幻聴や幻視のこと)、(6)大脳皮質に直接の電気刺激を与えると生じる感覚、以上の6つ。
リチャード・E・シトーウィック/山下篤子訳『共感覚者の驚くべき日常』草思社
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0541.html

と列挙されたりする。で、SmartCalendarはどこに位置づけられるかというと、おそらく、(3)、(4)、(2)あたりなのだろうという気がします。すなわち、感覚を遮断して、スライドショウだけを見ているときに起きる、機械的な写真記憶がSmartCalendarなのだろうという感じ。

でSmartCalendarで見ていても、どうやっても、4歳で起きるアポトーシスの幼児期健忘症以前は思い出せない。それはきっと、脳の編成が変わるためなのだろうし、逆にいうと、4歳以下の子どもは、胎児だったときの記憶があるということでもあります。先日、3歳の姪に「おなかのなかでどんな格好してたの?」ときいたら、「はだかんぼ」と答えてくれました。

あるいはまた忘れることとPTSD。フラッシュバックの関係とか。オーラル(口承)の話もこれまたおもしろい。養老孟司は『バカの壁』を書いたのではなくて、語り下ろして、編集者が書き上げたのだそうですが、それゆえかあれを、自分の著作だとは思えないといっている。口にしたことというのは、自分のものではない、という意識があるのです。たしかに。コメントというのは、気楽なものです。
東京大学の御厨貴先生がオーラルヒストリーについて研究しているのですが、語りについて研究するだけあって、御厨先生の語り口も絶妙だったりして、おもしろいのであります。
記憶は、<出来事>というストーリーを作ることで、でき上がるわけで、お話というのは、なによりも大事なもののひとつですね。お話とか、俳句とか、言語化することです。
考え始めるときりがない…。うまくまとまらないのでキーワードの列挙のみな感じです…。

書肆吉成書肆吉成 2006/10/15 00:58 恐れ多い取り上げられ方をいただいてしまい、恐縮しております。
わたくしは自分を詩人だと思ったことがなく、綴る言葉も詩だと思わずにおります。古本屋人です。古本買い取り募集中です。
三上先生こそ、哲学的なタームを使って思考しながら、その実とんでもないトコロへジャンプして、詩的なヴィジョンを手繰っていらっしゃるように読んでおりました。三上先生の記憶を巡る思考が、私の記憶のありようを刺激して、引用いただいたような文を綴るということが起こっていました。
数年前、沖縄で偶然出会ったイルカ好きのおばちゃん(鯰研究で有名なオランダ人・アウエハントの奥さん)とだらだらおしゃべり(ゆんたく)していた時、そのおばちゃんがこんなことを言い出しました。
「記憶っていうのは、「気の奥」のことよね」
もう何年も経つのにこの言葉を聴いたときの鮮烈な印象が忘れられません。言葉にものすごい振幅があって自由でした。
私は引用いただいた文章を綴りながら、映像や言葉で造形できる記憶のフォームだけではなく、傷跡や「気」の奥に沈殿して響いている、そういう記憶のあり方を考えながら奄美を振り返ろうとしたのかもしれません。それはまさに三上先生にひらめいたGoastsの姿に、わたしも驚いたからだと思います。先生、たいへんな刺激をありがとうございました。

書肆吉成書肆吉成 2006/10/15 01:27 さらにもう一言だけ付け加えさせてください。登別のお話を先生から伺えて、とてもよかったです。今度あらためてフンベにも行ってみようと思います。手を合わせてきます。

三上三上 2006/10/15 19:21 満月さん、メールでURL知らせてくださいな。私のはプロフィールの頁にあります。