時間は存在しないのではなく

中山さんの『横浜逍遥亭』2006/11/16 (木)のエントリー「Blog Life is Timing」のコメント欄での「時間」感覚をめぐる美崎薫さんと私のやりとりを忘れない内にこちらにも掲載しておきます。受講生のみなさん、特にねぷたさん、読んどいて。elmikaminoは私です。

# 美崎薫 『過去を物語として構築して抜き出す作業は、自分を考える上でいちばん大切な作業かもしれません。
わたしの時間感覚は、最初は帯のようなもので、「いまここ」という棒で折り返されているので、その瞬間がエッジのように際だっているというモチーフで、これは、1996年ごろには、ほんとうに帯だった(『ハイパーメディア徹底活用術』pp.84)のが、すこしずつカレンダー風に進歩していったのですが、
http://www37.tok2.com/home/misakikaoru/2006/200611/20061113_2334_53.jpg
このように過去と未来が一致しているとすれば、過去にも未来にも偶然なんてものはないだろう、と考える以外にはないだろうな、と思うのです。
このエッジの絵は、少し前の時間感覚で、そのあとSmartCalendarを使うようになり、すべてが「いま」になりました。とすると、いまの時間感覚は折り返した帯とはすこし違うのかもしれません。まだ描写できていないな。
時間がないのだとすれば、「後知恵」はあとに起きたわけではないのですよ、三上さん。過去のあとにいまがあるのではないのです。』

# elmikamino 『たしかに、時間がないのだとすれば、そうだと思います。ウィトゲンシュタインもそう考えました。しかし、時間はないというときの時間は時間の一面でしかないと僕は感じています。「帯」、「襞」にしても空間的に表象された時間でしかないのではないかと。まだ巧く言えませんが、僕の場合、カレンダー的な周期性以上に、「今、ここ」が、いつもとんでもない「無限」に、「偶然」に触れているというか、下手をするとそこに飲み込まれてしまうというか、そんな感覚があります。綱渡り感覚に近いかもしれません。』

# 美崎薫 『そうですね。わたしもまだいま感じている時間感覚を表現する言葉が見つからないでいます。「すべてがいま」で、「時間はない」のだとしても、それはまだぜんぶを表現し得ていない。そうそう。ずばりそんな感じです。それを表現するためには、もう少し思索を深めるための時間がかかるようです。』

自動連想装置:Memorium, Goromi and Tagsight

記憶と記録をいわば活性化して、想起や連想や発想を豊かにするにはどうしたらいいか。私の「検索エンジン」に対する興味はそこにある。とりわけ、思わぬ発見や突然のひらめきにおける、「思わぬ」や「突然」に隠されたメカニズムを知りたいと思っている。あるいは「驚き」や「喜び」や「ワクワク感」のメカニズムを。そしてそれを新種の道具(文房具)、新種の書斎や教室の創造につなげることが夢である。

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遅ればせながら、渡邊恵太さん開発のMemoriumと大坪吾郎さん開発のGoromiを試してみた。そして先日このブログで簡単に紹介したCLOCKWORKsのTagsightも少し使ってみた。

いずれもインターネットに連動した「自動連想装置」とでも呼ぶべきソフトである。TagsightはいわゆるWeb 2.0のウェブ・アプリケーション、MemoriumはFlashアプリケーション、GoromiはJavaアプリケーションである。それぞれに開発者の個性と発想が活かされた魅力的なソフトである。

Memoriumは残念ながら、なぜか「自動連想」の起点となるデータベースが読み込めず、「自動連想」の醍醐味は味わえなかった。ただ、その瑞々しいインターフェースは本当に「眺めて」いるだけで想起を誘発しそうな気配を持っていると感じた。コンセプトと技術はここに詳しい。

Goromiは開発者大坪吾郎さんの非常にユニークな考えが遺憾なく発揮されたソフトだと感じた。Goromiは、(詳細はこちらで)私が理解したかぎりでは、硬くなりがちな頭を柔らかくするどころか、思いっきり脱力させる方法、あるいは能動的になりすぎて視野が狭くなり煮詰まりがちな脳の働きに受動性を回復させ、意外なつながりや驚くべき関係に気付かせる方法を具現化したソフトである。入力したキーワードが私の想像を遥かに超えてみるみるうちに繋がっていく様子をダイナミックに生成するグラフで見せてくれると同時に関連するテキストと図像が次々とスライドショーされる。

Tagsightは好きなタグ(キーワード)を10個指定することができる。試みに、”空間”、”時間”、”想起”、”タグ”、”情報”、”連想”、”検索”、”記憶”、”シソーラス”、”無意識”を入力してみた。”記憶”では、私が書いた「能動型検索、受動型検索、そして無意識型検索」が拾われてきたのにびっくりしたが、それ以上に、多数の「おお、これは読みたい」と感じた記事が多数のタグとともに見やすく表示されるのに驚いた。全部挙げたいくらいだが、その中でも、一番「これは」と思ったのは、”想起”で拾われてきた「日本の伝統色和色大事典」かな。これは「使える」と思った。

以上は寸評にすぎないが、私が初めてインターネットに触れたときに感じた何かを想起させてくれるソフトたちだった。その「何か」とは、能動性よりも低く見られがちな受動性が秘める創造性の消息に関わることのような気がしている。もとより、両者は車の両輪であることは論をまたないが。

「ひっかかり」の閉鎖にひっかかった

楽家坂本龍一さんがblog「ひっかかり」を止めた。驚いた。残念だ。

「ひっかかり」は坂本さんならではの思想と実践に基づいた非常にスマートな情報シェアのblogだった。「グローバルに考え、ローカルに実践する」を身を以て継続してきた坂本さんが発する情報や意見に、目を見開かされたり、行動を促されたりしてきた。今年の春には、PSE法の問題、青森県六ヶ所村核燃料再処理施設の問題では、「ひっかかり」の情報をきっかけにして、私は行動を起こしたのだった。そのお陰で、ドキュメンタリー映画六ヶ所村ラプソディー』を観て、鎌仲ひとみ監督にお会いすることもできた。「ひっかかり」との出会いは私に、blogは大きな可能性を秘めたメディアであることを教えた。

坂本さんが「ひっかかり」を止めたのは、「blogというかたちで不特定多数(多数じゃないかもしれないけど)の人と情報や意見をシェアすることに疑問を感じ」たからだという。私はこの理由の言葉にそれこそひっかかった。「続けるのがしんどくなったから」とか「もう十分に役割を終えたと思ったから」とかいう理由なら、あ、そうかと納得しただろうが、どう読んでもblogに対する否定的な認識がそこには籠められてることは疑いえない。

しかもここには、blogがなくても十分やっていけるからというblogにとっては外的な理由ではなく、blogというかたちに存する問題、blogにとって内的な理由が示唆されていて、ひっかかった。しかも、そのポイントは「不特定多数の人」、「シェア(共有)」という言葉に籠められているようで、見逃せないのは、それらはblogを含めたウェブ進化の行く末を占う要(かなめ)になる言葉ではないか。

不特定多数の人を信頼し情報を共有することによって新たな「価値」を創出すること。これがウェブ進化の思想とでもいえることである。私は基本的にそれを信じている、信じたいと思ってblogもやっている。

それに対して、坂本さんは「疑問」を感じた、という。その疑問は形式的には、すくなくてもblogという形では、不特定多数の人と情報をシェアすることによって、新たな価値は生まれないと判断した、と表現されるかもしれない。そうだとして、しかし、そう判断した「理由」は明らかではない。それは有名人の坂本さんだからこそ起こりうる様々な事態故の理由だったかもしれないし、もしかしたら、もっと普遍的な理由だったのかもしれない。もし後者だとしたら、いずれ私もその疑問に逢着するだろう。仮定だらけ(笑)の話だが。

もちろん、blogに対する思い入れや使い方は千差万別である。私はかなり非常識な思い入れで非常識な使い方をしているが、今のところ、blogを止めるつもりはない。しかし、考えておくべきことを坂本さんの「blogやーめた」は示唆していると感じる。

blogという形での情報や意見の共有に潜む落とし穴ってあるだろうか。blogという形で情報や意見を共有することで失われるものってあるだろうか。blogという形での情報や意見の共有から守らなければならないものってあるだろうか。それがあるとすれば、一体何か。そんなことまで考えさせられてしまった。まいったなあ。

それは「共有」と対立するかに見える「私有」すべきものであるかもしれないが、むしろblogという形ではない形での「共有」ではないかと感じる。そこには当然、リアルな共有も含まれるだろう。リアルに共有すべきものが、blogという形での共有に侵されることへの疑問?

坂本さんがもしそう判断したのだとしたら、私としては、両方でちゃんと共有できるようにすればいいことじゃないですか、と言いたいが、そんな簡単なことでもないような気がする。

これは、共有/私有の問題をリアル/ネットの問題も踏まえてちゃんと考えておかないといけないな、と思った。

坂本さんがblogを止めた。かなり残念。でも分かるような気がしないでもない。それでも俺はblogを止めないぞ。とだけ書くつもりが、変に長くなってしまった。