梅田さんのサバイバル宣言について

梅田さんが平野さんの考えを受けて書かれた「サバイバル宣言」とでも言うべき問いかけが非常に興味深い。

それは一見単純だが、よく考え抜かれ、発言がもたらすかもしれない結果に対する責任をも自覚した、極めて真摯な良い意味での現実主義的なメッセージでもある。それは主に情報系のエンジニアを目指す日本の優秀な若者にむけられていると同時に、日本の大人達がこれから日本社会を担う若者達に「生き方」についてどんな実効性のあるアドバイスができるのかと厳しく問うてもいる。重たいが必須の問いかけだ。蛇足ながら、そこには梅田さんの、それこそ日本の若者に対する「青空のような愛」に近い深い思いと強い願いが籠められていることは言うまでもない。

そして、優れた問いかけがそうであるように、その「サバイバル宣言」は凡百の偽の問いかけと回答を解消する力を持ち、「考えるヒント」に満ち溢れた果実のような問いかけである。

若い人たちを見ていて僕はいつも、とにかく生きのびてくれよ、とんでもないことも色々あるこの世の中で何とかサバイバルしてくれよ、といつも願う。気がついたら放り込まれていたこの世の中で「サバイブすること」こそがとりあえず最初に大切で、「善く生きる」のはサバイブしてかなり余裕が出てからでいい、と僕はあえて言い切ってしまおうといつも思っている。そう言い切ることによって生まれる誤解についての責任は引き受けようとも思う。自分だって、後悔しつつもそう生きて来ざるを得なかったわけだし、平野さんが言うように「今の社会は、ノンキに関わって生きていこうとするためには、複雑になりすぎている」からだ。
ただ、最低限何とかサバイブできたあと、人生のある時期以降は「善く生きる」ことを強く意識したい。そういう時間軸の概念を明確に入れて、「巧みに生きるか、善く生きるか」を考えていきたいと思う。ただ「巧みに生きるか、善く生きるか」を全く別の概念として切り分けて二分法的に考えないほうがいい。この二つはかなりの部分で重なり合ったものだからだ。ただ、ギリギリで優先度をつけなければならない局面では「巧みに生きて、サバイブするほうを最優先にすべきだ」と僕は思う。特に、まだ何者にもなれていない若いときには。
「「巧みに、うまく」生きているだけでは、結局のところ、満たされないんじゃないか」と思う段階をできるだけ早く持てれば、それは人生トータルで「善く生きる」ということになるのではないか。まじめな若い人ほど、そう少しいい加減に考えてでも、生きのびてほしい、と僕はいつも願う。

梅田さんは明言していないが、明らかにサバイバル(生き残り)の発想は「戦争」時の発想である。生き残れないということは無駄死にさえ意味しかねない「戦争状態」。梅田さんが平野さんの考えを受けて自分自身と読者に問いかけている、訴えかけているのは、今の社会は「戦争状態」にあり、はなから生真面目に善く生きようとすることが無駄死にすることになりかねないような、決して望ましくはないが、致し方のない社会であることをちゃんと知ったほうがいい、ちゃんと教えたほうがいいということだ。その上で、とにかくまずはサバイブし、生き残るための知恵を教え、学ぶべきだ、と言う。

梅田さんは日本の若者たちの「父親」の役回りを覚悟して引き受けているのだと思う。こんな時代に、「善く生きる」ことだけを勧めることは時代錯誤であり、それを真に受けた若者達は路頭に迷う。当人は「巧みに生きてきた」はずの大人たちが、その「過去」を忘れて呑気に「善く生きろ」とだけ説教しても、何の実効性もないはずだ、と。

そして、もいひとつ、梅田さんが明言していないことは、そのザバイバル宣言には「私と共にサバイブしよう」というメッセージが含意されていることだ。「サバイブせよ」は単なる「抜け駆けの推奨」ではなく、「共に戦おう」という共闘宣言である。

したがって、そのサバイバル宣言を批評するとしたら、そこで賭けられている「共有」とは一体何かということを巡ることになるだろう。そして、それに加担できるかどうかが問われることになる。

ところで、「戦争状態」を是認し、そこでの生き残りを最優先課題にすることは、不可避的に「戦争」に加担することを意味する。しかも、生き残った者の陰には、生き残れなかった者が沢山いる。現に「負け組」や「ワーキングプア」と命名される現実がある。巧みに生き残ることを最優先する生き方は、そのような現実、あるいは現実認識を温存することになる。にもかかわらず、所詮、社会が「戦争状態」から脱することが不可能であるとすれば、そして自己を無闇に無駄死にさせないためには、「共に戦う仲間」を見つけてでも、サバイブしなければならない。これが「サバイバル宣言」である。

「そう言い切ることによって生まれる誤解についての責任は引き受けようとも思う」と梅田さんはその覚悟のほどを語る。しかし、誰も実際には引き受けようがない「犠牲」が生じるのが戦争状態である。

私はこの「サバイバル宣言」に対して99%賛成である。残りの1%のひっかかりは次の点にある。それは、梅田さんの言葉は、すでに巧みに生き残っていて、しかしそれだけでは満足しきれていない人々にしか届かないのではないだろうか、という危惧である。そもそもなかなか巧みに生きることがでない人、不器用に善く生きることしかできない人たちだって大勢いる。そういう人たちは「戦争」の「犠牲」になる可能性が高い。そこまでは面倒は見切れない。私には限界がある。と梅田さんは言うかもしれない。

この点に関して、私としてはむしろ「戦争」に加担せずにサバイブできる道、そういうセンスの生き方の可能性を模索したいと思っている。「善く生きる」の「善」の定義は難しいとよく言われるが、実は至極簡単なことだ。「戦争」に加担しないこと。難しいのは本当に加担しないでいることである。

ここまで書いてきて、私は日本国内の「戦争状態」を主にイメージしていたが、梅田さんが見ている「戦争」は日本を巻き込みつつある「より大きな戦争」であることにハッと気づいた。Googleはもちろん、bookscannerさんが警告する「黒船」もすでに到来している。

「戦争」に加担しないことは不可能なのだろうか?