リンギスの『信頼』を巡って

信頼

信頼

アルフォンソ・リンギスの邦訳書『信頼』(青土社)についてはすでに二度記事を書いた。

それから一月ほど経って朝日新聞日曜版の書評で、詩人の小池昌代さんが、リンギスの『信頼』(青土社)を取り上げていた。

  • 2007-02-18「わたし」の核と核を結ぶ精神の旅

詩人である小池さんは、「実際の旅」の体験記録が私たち読者の「精神の旅」を生むようなリンギス独特の文体、「独特の腕力を備えた文章」を激賞する。

独特の腕力を備えた文章に、読者の魂は、机上から遥か異郷の地へと吹き飛ばされいくが、その遠心力によってもたらされる眩暈が、本書を読む大きな喜びだ。吹き飛ばされてふと我に返り、自分の今とここが、相対化されて見えてくる。その振幅が、実際の旅のなかに、もう一つ別の、精神の旅を生む。

そのリンギスの独特の文体の効果について、小池さんは次のように書く。

読者は前提も説明もなく、いきなりある土地のある瞬間へと送り込まれる。そこで私たちが受け取るのは、情報や知識ではなく、未知なるものに出会ったときの、悦びや怖れ、生々しい情動のほとばしりだ。意味の体系に縛られた身体を、緩やかに解くものが文章から湧き上がる。
(中略)
読者にとって、見知らぬ地名、見知らぬ言葉が、光となって輝き、風として通過する。

そして、マダガスカル島で言葉も通じない現地の若者に、命と財産を託したという「勇気」から始まるリンギスの逸話を受けて、本書の中心的思想を小池さんは次のように要約する。

見知らぬ人間を信頼するには勇気が必要だ。だが、ひとたび相手を信頼すれば、相手の側にも、信頼されているという自己への信頼を引き起こし、信頼が信頼を増幅させていくのだとリンギスは言う。そして信頼の絆は、社会的な衣をはぎとった、リアルな個人、「わたし」の核と核を結ぶと。

見事な要約である。しかし見事である分、そこには看過できない省略と過度の抽象化がある。そしてそのことがリンギスの思想を矮小化して伝えることになりかねず、またリンギスの優れた思想を私たちはどう継承すべきなのかが分からなくなりかねない。実際に本書『信頼』には小池さんが直接触れていない強烈な「毒」や生々しい「エロス」が溢れている。

ここhttp://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070105/1168020564で、私は次のように解説した。

(リンギスは)「信頼」について、「勇気」だけならまだしも、「笑い」、「性的渇望」、「性的魅惑」、「エロス」までをも説得力豊かに結びつける。それは言われてみれば、「なるほど」だが、それを初めて言うには、「信頼」が常識的に形作る意味の網の目を食い破る経験とそれを凝視する眼と緻密に寄り添う思考が必要だ。それは「信頼」に関する思想というより、結果的に「信頼」の通念をそれと連動する他の通念ともども全般的に書き換えることになる体験の記述が必然的にもたらしたものだと思う。つまりは、人生、世界、言語という全体の構図を根本的に書き換えるような体験の質とその記録法、表現法、文体が問題なのだと思う。

そこhttp://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070105/1168020564での引用からも明らかなように、リンギスは信頼に含まれる危険性ととなりあわせの「恍惚ぎりぎりの快楽」について書いている。しかも勇気→信頼といった機械的なプロセスが進行するわけではなく、信頼のなかで勇気は働きつづけるのである。なぜなら、信頼(という力)は予見不可能な「この先で待ち受けている物や人の危険で破壊的な力を認識する」恐怖、そして究極的には死に直面して「自分自身の未知の深みから湧きあがる」勇気(という力)と「分けることはできない」からである。つまり「信頼」とはいつも危険や死と隣り合わせの、しかしそうであるが故にエロティックでさえある飛躍なのだ。

しかも、である。リンギスの「信頼論」は「憎悪論」とも分ちがたく結びついている。憎悪が渦巻き増幅する傾向が強い先進国の社会の現実があるからこそ、信頼の増幅回路をなんとか根付かせるような言動が必要になる。リンギスの旅をモチーフにした一連の著作はその実践である。

汝の敵を愛せ:Dangerous Emotions

汝の敵を愛せ:Dangerous Emotions

異邦の身体

異邦の身体

何も共有していない者たちの共同体

何も共有していない者たちの共同体

私の理解では、本書『信頼』96頁から99頁に凝縮されて書かれている「憎悪論」あっての「信頼論」である。リンギスによれば、憎しみは容易に「一般的で名もないだれか」、「他人ども」、抽象的な他者への憎しみへと増幅されていく。対する信頼は具体的な個人、「きみ、あなた」に触れる。憎しみの本質はその抽象性にあり、人間の抽象性によって成り立つ社会は常にその温床であり続ける。信頼の本質はその具体性にあり、人間の具体性が社会性を破って露出する場面においてよく機能し出す。「旅」とは人間を社会的抽象性から人間の具体へと連れ戻す体験である。しかし、読者としての私たちはその「旅的具体性」を日常生活にどのように接続していったらいいのか。本書を大きな喜びととに読んで終わり、でいいはずがない。

その方法ははっきりしている。日常を「旅化」するしかない。そもそも「詩人」であるとは、日常の旅人であることではなかったか。

吹雪snowstormと「忘機庵」hermitage(?)

札幌、雪。散歩に出たら、雪は霰(あられ, hailstone)に変わり、激しく体を打つ。パチパチパチパチ。風太郎も目を細め何度か立ち止まった。

私が体験した吹雪。22秒。

散歩復路にさしかかり、吹雪は収まり、藻岩山が少しずつ姿を現わす。

3月10日(土曜日)に発見した「路地的階段」に向かう。

その手前にある空き家に心惹かれる。

いい感じだ。

階段の上に立つと、藻岩山がその豊かな裾野まで一望できた。

この一見何の変哲もないありふれた道が、いくつかの徴候によって私にとっては「路地」になった。

例の「ATELIER」の玄関にはこんな表札も掲げてあった。文字は擦れて読めない。「忘機庵」?もし「忘機庵」だとすると、Googleで検索するかぎり、二件しかヒットしない。そのうちの古本関連の一件によれば、「忘機庵」とは、金子兜太『鴎の海 兜太百句抄』(端渓社 、昭和52/限定300部版 初版 A5版 p99)の撰者の名前である。んーん。何者?

追記。
「忘機」ではなく「忘機」のようです。「忘機」なら、Googleでは一件もヒットしません。

連想の情報学vs.検索の情報学

昨年暮れに「想・IMAGINE Book Search」http://imagine.bookmap.info/imagineを取り上げて褒めた。
2006-12-21「メタ書籍検索エンジン:想-IMAGINE Book Search」
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20061221/1166718254

昨日3月12日の朝日新聞の夕刊に、「「想・IMAGINE」の開発に携わっている高野明彦さん(国立情報学研究所教授)による「連想の情報学」の立場からの非常に興味深い記事が載った。
「思考に適した検索サイトとは/文章で入力 連想で抽出/潜在記憶と電子情報を連結」

高野さんによれば、「連想の情報学」の基本的な考え方はこうである。

我々の頭の中に眠る膨大だが意識的にはなかなか活用できない潜在記憶と、確かに存在しているが一度も見たことのない大量の電子情報を「連想」によって結びつけようとする試みである。

次に我々が「電子情報空間」、インターネット、つまりはウェブにおいて現在直面している文化的課題は次の点にある。

住みやすい街に道路や公園が欠かせないように、電子情報空間にも有用で高信頼な公共コンテンツが必要である。この「知の公共財」を社会全体としてきちんと維持して広く活用することが、その文化の底力となる。長い年月と多大な労力により維持されてきた高信頼なコンテンツは情報空間における”水源”の役割を果たすと期待される。

そのような「水源」としてすでに「ウェブキャットプラス」「新書マップ」「ブックタウンじんぼう」「文化遺産オンライン」などの情報サービスを立ち上げてきた高野さんたちは、それらに中核エンジンともいうべき「連想機能」を持たせた。

そしてさらにこれらの高信頼のコンテンツである複数の「水源」(情報源)を組み合わせて構築されたのが「想・IMAGINE」だった。「想・IMAGINE」の基本的な「コンセプト」は次のように説明されている。

複数の情報源からの”見え”を組み合わせることにより、私たちは電子情報空間の中での自分の位置を知り、どの方向に歩き出すべきかを判断できる。

具体的には次のような知的展望が拓ける、という。

多様で深みのある信頼度の高い情報源を複数横に並べて、ユーザがそこに自分の想いを文章として投げかけると、各情報源ならではの情報の見え(文脈)が返される。それらを書棚のように並べて一覧することで、さらに多角的な文脈、情報の景色が得られる。ユーザは各情報源の想いを読み解きながら歩き回り、その中から心に響く情報を取り上げて読み進む。その過程でユーザの想いは少しずつ変化し、それに呼応して情報源が示す情報の景色も変わる。想いが連なり連想に変わる。

高野さんは最後に「連想の情報学」のミッションについて力強く語っている。

知識や真実の価値を信じた先人たちの深い想いを、今ここに生きる私たちの切実な課題や思考と響き合わせて柔らかく接続できればと願っている。

遡って、このような「連想の情報学」の根本的な立場、観点はこうである。

私たちは誕生以来の記憶を恐らくはずっと潜在意識下で持ち続けながら、普段はほんの一部だけを思い出して使っている。つまり、自分の脳内の記憶を連想的に探索し、無意識下で関連情報を想起しながら思考すると考えられている。一方、情報空間には、決して眺め尽くせない大量の情報が存在し、そこから思考に役立つ情報を収集して活用することが求められている。考えてみればこの電子情報は私たちの潜在記憶に似ていないか。
このような観点から、我々は「連想の情報学」を提唱してきた。

そして高野さんが「連想の情報学」(といういわば正統的な知の伝統)の立場から手厳しく批判するのは現状のウェブ検索による情報編集である。

グーグルを自在に使いこなして自由な意思決定に役立てていると思い込んでいるが、それが本当かどうかはかなりあやしい。
指定した言葉の有無だけで探すウェブ検索は超強力なサーチライトのようなもので、地球の裏側まで見通せるが、その視野はひどく狭い。数語を指定して集めたページが関連する全知識の縮図だと錯覚しがちだが、実際はひどく偏った情報である。
そんな検索結果から役立つ情報をコピー&ペーストすれば、自分の意図に合う情報を簡単に収集できる。私たちはこの単純な検索作業を”自分の頭で考える”ことと混同しがちである。
ウェブ2.0」という流行語に乗って発信されるページはそんな”自分の考え”で溢れかえることになる。偏った情報に基づく論評がウェブ上で増殖する原因はここにある。

長々と高野さんの文章を解体して引用してきたが、私には高野さんが本当は何を批判し、本当は何が言いたいのか、はっきりしなくなった。先ず第一に、高野さんが批判するグーグル等の検索エンジンを駆使したウェブ上の情報編集は、あまりに矮小化されたイメージにすぎないと思われる。少し熟練した者なら、一本ではなく、何十本、何百本もの「サーチライト」を照らすような「極めて視野の広い」検索を行っているはずである。第二に、高野さんが強調する「高信頼のコンテンツ」、「多様で深みのある信頼度の高い情報源」における「信頼」の基準が「長い年月と多大な労力により維持されてきた」こと以上には明らかにされていない。揚げ足取りに聞こえるかもしれないが、可能性としては「長い年月と多大な労力により維持されてきた」ゴミのような情報だってあるのではないか。あるいは、それは単に古い基準で価値づけられた情報でしかない、したがってある意味では「視野の狭い」ものになる可能性も否定できないのではないか。

何が言いたいかというと、高野さんの「連想の情報学」の提唱(と「想・IMAGINE」の紹介)と現状のウェブ検索と「ウェブ2.0的動向」に対する批判とは、適切な内的連関を欠いているのではないか、後者は的外れではないかということである。つまり前者のために後者を持ち出す必要は少なくとも論理的にはない。それはレトリカルに思える、ということである。

最後にひと言。
高野さんが批判する現状のウェブ検索に潜む立場を「検索の情報学」(の立場)と名付けておく。高野さんは「連想の情報学」対「検索の情報学」の構図を読者に共有させようとしている。しかし私はそのような構図はフィクションだと思っている。実際には「検索の情報学」の一部が「連想の情報学」である。あるいは「検索の情報学」という土壌で「連想の情報学」が育つ。なぜなら、そもそも検索技術がここまで進化したから、電子情報空間における「連想検索」も可能になったのではないか。しかも、もっと重要なことは、検索技術によって、逆に我々の潜在記憶の連想や想起のあり方が照らし出される可能性だってあるのではないか。

「物の味方」Ariane Michel:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、72日目。


Day 72: Jonas Mekas

Tuesday March. 13th, 2007
12 min.

Ariane Michel talks
about the sadness
of the melting
icebergs and her
film LES HOMMES.

アリアンヌ・ミシェル
融けゆく氷山の
悲しみと
映画『人間(Les Hommes, 2006)』
について語る。

アンソロジーのオフィスで、寛いだ雰囲気のなか、白ワインを飲み、時折チーズらしきもをつまみながら、フランスの映画監督アリアンヌ・ミシェル(Ariane Michel, 1973-)は、メカス、カメラに向かって、グリーンランドの氷河融解の実態とそこに生息する野生生物の悲劇について語る。メカスはそもそもグリーンランドのことをよく知らないようで、ミシェルに「グリーンランドはグリーンじゃないのよ。ホワイトよ。言ったでしょ?」なんて言われている。氷の棚が崩れ、氷山が生まれ、その氷山がどんどん融けて小さくなり、風で吹き流される。氷山の上で生活していた動物たちも流される。

アリアンヌ・ミシェルの公式サイトの解説によれば、映画Les Hommes(2006)を製作するために、ミシェルは極寒のグリーンランドを探検隊に同行して撮影した。映画評論家のJean-Pierre Rehmの評言によれば、アリアンヌ・ミシェルが敢行した撮影=冒険は、フランスの詩人フランシス・ポンジュ(Francis Ponge, 1899-1988)のように、「物の味方("le parti-pris des choses")」の精神に依っている、という。つまり、物の不透明さ、「古い語法(archaism)」、そして美しさに寄り添う詩的精神。映画に関しては動物映画としては二流かもしれないが、人間の痕跡をよりよく捕らえた映画である、と。

途中、アリアンヌの友人でフランスの歌手ジョルジュ・アンリ(georges henri guedj)が来訪し、アリアンヌと再会の抱擁。ジョルジュは2月25日に登場した画家でキュレーターのフォン(Phong Bui)と雑談する。そしてベン(Benn Northover)も参加し、メカスの音頭で五人で乾杯する。「映画に、音楽に、…氷山に!」というメカスの声。

アンリの膝の上のラップトップの画面にMYSPACE MUSICのアンリのページが表示され、彼の曲、"couer de taic"が流れる。アリアンヌがその曲を寸評している。「十代の物語ね。」「お前のための曲だよ、フォン」とメカスの冷やかす声。「この声好きだよ。セクシーだ。」とフォンの高い声。

***

フランシス・ポンジュ詩集 (双書・20世紀の詩人)

フランシス・ポンジュ詩集 (双書・20世紀の詩人)

フランシス・ポンジュが出て来るとは思いも寄らなかったが、ウェブ上にはポンジュに関するまとまった日本語情報はない。断片的な情報ばかりである。その中でブログ『KAFKA』http://kafka-die.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/__88c3.htmlにポンジュに言及した武満徹の言葉が引用してあった。孫引きする。

人間は、眼と耳とがほぼ同じ位置にあります。これは決して偶然ではなく、もし神というものがあるとすれば、神がそのように造ったんです。眼と耳。フランシス・ポンジュの言葉に、「眼と耳のこの狭い隔たりのなかに世界のすべてがある。」という言葉がありますが--音を聴く時--たぶん私は視覚的な人間だからでしょうが--視覚がいつも伴ってきます。そしてまた、眼で見た場合、それが聴感に作用する。しかもそれは別々のことではなく、常に互いに相乗してイマジネーションを活力あるものにしていると思うのです。
「武満徹 ─ Visions in Time」展 公式カタログ)