2007年07月05日
薊、立葵、百合、疣取木
札幌、曇り。
いつ咲くか、いつ咲くかと思っていた隣の空き家の庭に生えているアザミ(薊, Thistle, Cirsium japonicum)の花が咲いていた。トゲトゲしていてどこか禍々しい印象の茎と葉のせいか、花はドキッとするほど色鮮やかで美しい。
藻岩山。毎朝撮らずにはいられない。
これはタチアオイの全容。およそ丈2メートル。昨日自信なくとりあえずフヨウ(芙蓉)と記録したが、ありがたいことに、早速、kinaさん、rairakku6さん、mmpoloさんから同じアオイ科でも、草のタチアオイ(立葵, Althaea rosea)であると教えられた。芙蓉は木、タチアオイは草。
セイヨウスグリ(西洋酸塊, Gooseberry, Ribes uva-crispa)の実が赤く熟していた。
今年初めてユリ(百合, lily, Lilium)を見た。薔薇といい、百合といい、人間との縁の深さもあり、目眩く複雑さだ。
最近、散歩中に嗅覚を一番刺激されるのは、この白い極小の花を沢山つけている生垣の傍を通り過ぎるときである。これはイボタノキ(水蝋樹・疣取木, Ligustrum obtusifolium)というモクセイ科の落葉低木のようだが、ミヤマイボタ(深山水蝋, Ligustrum tuchonoskii)との区別がつかない。かなり強い少し濁った甘い香りがする。思い切り吸う気にはなれない。
論理学入門2007 第11回 現実から可能性へ:『論理哲学論考』入門2
論理学入門 | |
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前回は『論考』の序文を参照しながら、ウィトゲンシュタインの尋常ではない壮大な企画、すなわちすべての哲学問題にケリをつけるために、思考の限界を画定するという無謀とも思える企画を概観しました。それは実際には思考の表現としての言語の限界、すなわち有意味な言語表現/ナンセンスな言語表現の境界を画定することによって遂行されるはずの企画でした。
さて、今回は『論考』の本文に入り、ウィトゲンシュタインによるその境界画定の遂行の現場に立ち会います。そこで、私たちは、そもそも考えるとは何をどうすることなのか、という超難問に挑戦するために、若きウィトゲンシュタインが当時の理論や常識と苦闘しながら構築した見事な足場、生きた思考の出発点ともうべき場所を探訪し、哲学(的思考)の神髄の一端に触れてもらいます。
講義の骨子です。
1世界と論理空間
2われわれが世界で出会うのは事実であり、ものではない
3事実は対象へと解体される
4現実から可能性へ
5可能性は言語によってのみ開かれる
6言語の限界は思考の限界と一致する
7まとめ










喜んで庭に植えたものの、花が咲いたときその臭いこと! こちらでイボタの花の写真を見た途端、鼻腔の奥にその強烈な臭いがよみがえりました!! もうあれから45年以上経つのに。
内容が抽象的なので毎回頭を抱えながら講義を聞いています。
「入門!論理学」、講義のために買ったのは事実ですが純粋に
読もうと思えるものでした。先生のおっしゃるとおりもの凄く
噛み砕いた表現は、読む人への配慮と著者の技術が感じられて
社会人になったとき、こーゆー大人になれたらいいと思いました。
まだ全て読んでいないのですが、なにか良い感触を実感しています。
※一つ質問なのですが、テストの時には持ち込み可能でしょうか?