オカバルシ川、観音岩山、美しいカツラ(桂)の大樹

地脈や水脈、鉱脈といった自然の、土地のリズムか旋律のようなものが、人為と絡み合って形成してきた、サウンド・スケープも含めてのランド・スケープ(景観)に強い関心がある。それはほとんどマインド・スケープ(心の景観)といってもいい。現在私が住む北海道の札幌市の南には、水脈で言えば、日本海に注ぐ石狩川に合流する豊平川をいつも東側に感じていて、地脈については、とにかく石山、硬山、砥石山という地名に顕著に認められるように、石の上にいる、そして石に囲まれていることを日々感じている。鉱脈については、定山渓に至る山々に残存する鉱山跡から今のところは推理しているに過ぎない。いずれチェックするつもりである。

先日8月19日に参加したナイトハイキング(札幌市の地下鉄真駒内駅前から定山渓温泉の渓流荘に至るまでの21キロ余りのルート。これは札幌市の南区を北から南の端まで辿るルートである。)でも、暗闇の中で巨大な石の建造物の亀裂に沿って流れるような豊平川の気配、イメージを感じながら歩いていた。石、岩と水。


後からそのルート沿いの地図を見ていて、南側から豊平川に合流する唯一のカタカナ表記の川であるオカバルシ川が目にとまった。藤野にある流路5キロほどの短かい川である。南側の札幌岳(1293m)や空沼岳(1251m)が聳える山脈に水源をもつ幾つかの川のうちの一つである。オカバルシとはアイヌ語で「川尻に平岩のあるところ」を意味する。たしかに、オカバルシ川が豊平川流入する辺りは北側の硬石山(371m)の裾野に当たり、実際にその辺りの川床は平たい石が広がり、少し西寄りにはその景観を生かした十五島公園がある。また硬石山は砥石山(826m)、神威岳(983m)、百松沢山(1038m)と連なる地脈をなしている。そちらにはまた別の水脈が存在する。

実は一昨日の昼、家内が二年前の雑誌で目にとめた"vigne(ヴィーニュ)"(「葡萄畑」という意味)という名のパスタが自慢のレストランがその藤野のオカバルシ川の傍にあることを知り、二人で探した。雑誌の地図はラフすぎて、なかなか見つけられなかった。オカバルシ川をはさんで、かなり起伏に富んだ土地に、複雑に住宅街が広がっていた。てっきりレストランはそんな住宅街の中にあるものと思い込んでいた私たちは同じ区域内の通りをくまなく探したが見つけられなかった。そしてまさかこんな上流の畑が広がり山も迫るところにあるはずはないよな、と思いながらも、もしやと感じて車を走らせていて、こんな看板が目に飛び込んできた。

ここだった。


妻が見た雑誌にはひと言も書かれていなかったが、このレストランは、その辺り一帯の広大な土地を大庭園のごとく造成した中をめぐる並外れた規模のパーク・ゴルフ場のレストハウスを兼ねているのだった。自家製食材を使ったパスタやデザートのパウンドケーキなどはかなり本格的でしっかりと作られていて、美味だった。レストランのロケーション、外観、そして周囲の景観はすばらしかったが、内装に関してだけは、レストハウスとレストランのコンセプトをきちんと切り分けて設計、デザインし直せば、もっと良くなると感じた。テーブルと応接セットが混在し、食事するテーブルのすぐ隣の応接セットでゴルフ談義する人たちがいるというスペースはいかがなものか。せっかくの料理の味が半減すると思うのだが。

食後、レストランの周囲からその大庭園の一部を散策した。


レストランのすぐ傍をこんな風に人工的なオカバルシ川が流れている。

少し上流を散策してみたら、こんな「床固工群」が設けられていた。昭和56年(1981)の災害を契機に行われてきた「砂防事業」の結果である。川のこういう姿を見ると、そもそも宅地造成の構想段階から自然の川を殺さないで生かすという発想がなかったことが悔やまれる。

"vigne"の名の通り、葡萄畑の一角があった。が、あった、としか書きようがない。

「葡萄畑のレストラン」を後にした私たちは、ナイトハイキングのルートの一部を辿り、二つ発見をした。

この二本のサクラの木は、旧定山渓鉄道*1(1918-1969)の「滝の沢駅」の跡である。1931年に初代駅長の福井正造氏が中心となって駅構内に植樹した二本のソメイヨシノ定山渓鉄道廃線後現在も「二美桜」としてちゃんと保存されている。樹齢76年以上である。しかしこの「滝の沢駅」跡は、それだけでは発見にはならなかった。

二美桜のそばから北に、八剣山(498m)、別名「観音岩山」を望むことができる。二本のソメイヨシノの木陰からこの剥き出しの奇岩を眺めることができることが発見だった。つまり自分が氷山の一角ならぬ、岩山(石山)の一角に立っていることを実感できる景観を望めることが。

二つ目の発見は、実はナイトハイキングのルートをちょっと外れたところにあった。それは定山渓温泉の数キロ手前にある小さな小さな小金湯温泉郷にあった。ここには温泉宿が数件しかない。

これは廃業したらしい、すでに廃墟の佇まいを見せ始めている黄金湯温泉旅館。後で調べたところ、黄金湯温泉旅館は今年の5月30日に閉館、廃業した。宿泊客減少、湯の加熱代負担増の中、土地所有者が返還を求めてきたのを契機に、7代目経営者が廃業を決意したという。建物は取り壊される予定であるという。

その正面玄関前には、はっと息を呑むような存在感の巨木があった。その上方に勢いよく箒状に豊かに繁った明るい緑の葉が日光を背に光り輝いて見えた。枝の先端には黄葉が混じっていた。旅館の建物を大きな影で覆うほどだった。この神々しく見えた巨木はカツラ(桂, Cercidiphyllum japonicum)だった。樹齢700年を越えること、「桂不動」とも呼ばれ、北海道の保護樹に指定されていること、根元にはたくさんの地蔵尊が、西側には馬頭観音が祀られていることなどを初めて知った。

カツラには雄株と雌株がある。これがどちらかは不明。幹の根元付近を見ると、数本が合体しているようにも見える。兵庫県美方郡香美町の樹齢1000年を越える「和池の大カツラ(わちのおおかつら)」の場合には雌株で、「主幹の周囲を幹周約3mの樹叢10数本が囲む」という構造らしいが、「桂不動」の場合は、主幹らしき幹がない。朽ちたという説もあるようだが、はっきりしない。とにかくちょっと異様な存在感だった。黄金湯温泉旅館の廃屋よりも、カツラの巨木の異様さが発見だった。

あくまで自然の樹木であるカツラに関わる人間の歴史は、岡山出身の僧侶、美泉定山(みいずみじょうざん, 1805-1877)が定山渓に源泉を発見した1866年から始まる。定山和尚はこの木を目印にして托鉢をして歩いて温泉を見つけた、とか、この老樹の根方に一夜の仮寝を結んだとき、その夢枕に樹霊が現れたとかいう言い伝えがある。それ以前には、アイヌの人々との関わりがあったはずだが、調べはついていない。実は小金湯温泉郷には、狭い土地なのでカツラの巨木の近くにはと言ってもいいのだが、札幌市アイヌ文化交流センター「サッポロピリカコタン」がある。「ピリカ・コタン」はアイヌ語で「美しい・村」という意味。休館日で見学はできなかったが、なぜ、ここにアイヌ関連の施設が建設されたのか、その理由に関しても調べはついていない。

ここからは私の勝手な想像だが、美泉定山の発見以来、和人によって、アイヌの「美しい村」は破壊された。その罪業の一部始終をカツラの樹は見ていた。生長し続けるカツラの樹は和人にとっては過去の罪業の記憶そのもの、記念碑のような存在として、彼らの潜在意識を罰し続けてきた。そんな彼らの罪滅ぼしの行為が、地蔵を祀るなどの仏教的な行為となって現われた。私は直接この目では仏教的なサイン、徴候を一切見なかった。でもその御陰で、おそらくそれらによって覆い隠されている「歴史」が微かにではあるが感じられたのではないかと思っている。

あのカツラの樹を「桂不動」と命名したり、各種偶像を配したりする仏教的な偏見を退けて、ただの美しいカツラの樹として見ることができなければ、アイヌの人々の「文化」に触れることにもならないのではないかと思うのだが。間違っているだろうか。

*1:冬期オリンピック(1972年)を契機にして札幌市に地下鉄が開通する以前、40年ほど前までは、定山渓鉄道、略して定鉄(じょうてつ)が、正しく定山渓まで通じていた。現在でも、定山渓までの路線を運行する定鉄バスにその名残を認めることができる。