反物語

メカスの映画哲学とでもいうべき考えは、世界の実在、実在世界のありのままの姿の断片を偶然に左右されながら、それが人間に許された極限的な必然性であると云わんばかりの仕草で、写すことであるように思われる。人生には学ばなければならない事が何段階かあって、まずは「物語」的な構造、その深みを知る段階、それはそれで時間がかかる段階があって、しかし、それで終りではなく、そのような「物語的深度」をうっちゃってしまうような、いわば「実在的強度」を感受する段階が控えている。

一見、無意味で表層的な映像と音声の驚くべき具体性。人を戸惑わせ、立ち止まらせる具体性。無限の具体性。今日のフィルムでも、メカスは「吃り」ながら、「無限」という言葉を何度も使っていた。特に「人間性(humanity)」の無限性を強調していた。それを抑圧する制度、装置を激しく告発しながら。なぜなら、それらは無闇に樹を剪定するような、あるいは川にダムを作るような、浅はかな抽象的な物語だからである。世界は反物語的に複雑で豊饒で美しいにもかかわらず。

無限を内蔵した複雑で豊饒で美しい物語はどのようにして可能だろうか。

情報デザイン論2007 第2回 世界と物語

私の経験と考えでは、良いデザインとは、しみじみとしたり、ワクワクしたり、ドキドキしたりといった感動をもたらす広義の「造形」です。そのような感動の本質は、過去のポジティブな体験の記憶が数多く想起され、しかもそれらが初めてのやり方で劇的に結びつくことにあると考えています。そう言われると、ピンと来るものがあるのではないでしょうか。どうですか?この点で、例えば、『横浜逍遥亭』の中山さんが取り上げている、アメリカの新聞における写真や図版の情報デザインの秀逸さは、私もアメリカ滞在中に、日本の新聞との比較において痛感したものでした。そこでEmmausさん(id:Emmaus)がコメントしている「トポロジー」という観点は情報デザインにおいて、体験の記憶を呼び出す仕掛けとして非常に重要なものだと私も考えています。参考にしてください。

もちろん、ある種の記念碑のように、意図的にネガティブな体験を特別にポジティブに想起、再現させるようなデザインのことを忘れてはいけませんが。

前回はオリエンテーションとは言え、私が情報とデザインに関してずっと考えてきた、そしてつたないながら実験的に経験もしてきた途中経過的な報告も兼ねて、一気に「時間」や「死」のデザインについて触れました。それは私たちの人生が、とりもなおさず、死という特別の「終わり」を孕んだ生という過程、途上としての「時間」そのものであり、その根底的な有り様から、あらゆる種類のデザイン、情報のデザインの、いわば基本的な「構造」を皆さんの意識の隅っこにでもいいから、浮上させたかったからに他なりません。

他方では、いわゆるIT、コンピュータとネットワークの技術の進歩によって実現されつつある情報デザイン環境にも目を向け、そのいわば「もうひとつの世界」における「生き方」を、従来の世界との関係、そしてより重要な両者の統合の試みという観点からいくつかの可能な展望についても触れました。

狭義の「情報デザイン」に関する一般的な(教科書的な)知識の基本的な構成はレジュメに示した通りですが、それにつてはいずれ必要に応じて敷衍します。

今回は、空間的であると同時に時間的でもある私たちが生きる世界のグランド・デザインとでもいうべき、世界とはこういうものであると主張する「世界観」ないし「世界モデル」、そして一定の解釈を与えられた世界の中で(人)生がどのように進行するかを描いた「物語」の二つに焦点を当てながら、私たちが生きる上で最も重要な情報群がいかに編集され、一定の「形」(特定のメディアによるコミュニケーション)に落とし込まれるか、情報デザインの別の深みへと皆さんを案内します。お楽しみに。

参考サイト&ブログ:

最近の関連エントリー

これらは私が生きる土地の情報デザインの試み、素描の一環です。

very deep feeling for Reality:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、10月1日、274日目。


Day 274: Jonas Mekas
Monday, October 1st, 2007
7:43 min.

Phong, Raimund
and myself, we are
discussing a serious
subject---

フォンとライムントと私は
真面目なテーマについて
議論する…

メカスが世界の実在(Reality)に関する熱の籠った意見を述べる。それにライムント(Raimund Abraham, 1933-)が「政治的スキル」の観点からちょっとコメントし、フォン(Phong Bui, 1964-)が溺れかかったときの逸話を披露する。

メカスは、宗教的観点や科学的理解(量子理論も含めた)を越えた、自分ではどうすることもできない「深い感覚(deep feeling)」があるという。それは三次元、四次元どころか、未知の多くの次元、レベル、方向など、考えるだけ無駄な非常に複雑な世界に根ざすものである。……。

そのような世界の実在を、「いつどこでだれがなにをどうした」的な情報に対応づけて、何かが分かったつもりになっている者は、世界の何たるかについて少しも分かっていない。映画はそのような余りに人間的な意味付けをすり抜け、くぐり抜けて届く世界の実在の報告、日記、ジャーナルである……。

そんな風に、私(三上)が突っ込まれているように強く感じた今日のフィルムだった。「確かに、でも……。」(三上)

ナナカマドは12本あった!


昨日「ナナカマド(七竃, Mountain Ash, Rowan, Sorbus commixta)の街路樹をたしか3本」と頼りなげに記録した街路樹を今朝数えてみたら、なんと12本あった!「記憶」から9本は編集カットされていたのに驚いた。

もうそろそろ終りのようだ。アメリカフヨウ(亜米利加芙蓉, common rose mallow, Hibiscus moscheutos)。8月17日に初めて記録したのだった。