札幌、曇り。肌寒い。
驚いた。あるお宅の庭のツツジ(躑躅, Azalea, Rhododendron)が花開いていた。雨の滴を留め美しい。種名までは分からない。
サフラン公演のハクモクレン(白木蓮, Magnolia denudata, Yulan magnolia)のたくさんの蕾みがほころびはじめた。
これは讀めるが…。
昔から好きだった良寛(Ryōkan Taigu, 1758–1831)の書を入口に「断絶」の彼方にある「旧字旧かな」の世界に入って行こうとしている自分がいる。
良寛の「脆弱を恐れず、寂寥を忘れず」の生き方と「切実」の思想についてはこの人の話を聞くのがいい。
私が何の疑いも持たずに空気のように吸い込み、水のように飲んでいる、現代の日本語表記には、わずか60年余りの歴史しかない。時枝誠記(ときえだ もとき、1900年–1967)*1を恩師にもつ築島裕(つきしま ひろし、1925年生まれ)は『歴史的仮名遣い』(中公新書、1986年、asin:4121008103)でこう書いている。
昭和21年11月、第二次世界大戦が終わってわずかに一年余、東京の町は、まだ焼け跡にトタン板のバラックが建っているようなころであったが、内閣訓令によって「現代かなづかい」が公布された。そして、この後は、公式の文書をはじめとして教科書も新聞・雑誌も、全部この新しい仮名遣いが使用されることになった。
この政策は、「国語審議会」(当時は文部省の中に設けられていた)の答申を受けて、内閣総理大臣の名で公布されたものであるが、軍備全廃、財閥解体など、日本社会の根底をゆるがす重大な変革が、次々と実行されていた当時としては、仮名遣いの改訂などは、取るに足らない瑣末なこととしか映らない人々も多かったであろう。しかし、戦前から戦後にかけて、「歴史的仮名遣い」を一生懸命に勉強して覚え、日記や手紙を書き、学校の試験の答案はもちろん、これで書いていた世代の中には、大きなショックを受けた人も、少なくなかったに違いない。私も実は、その一人であった。(「はしがき」i)
また小松英雄(こまつ ひでお、1929年生まれ)は『いろはうた』(中公新書、1979年、asin:4121005589)のなかで「国語審議会」(1934年設置、2001年廃止)*2についてこう書いている。
日本語の表記は、国語審議会によって完全に掌握され、また支配されている。国語審議会といっても、その実態は国語表記審議会であるから、それが公的機関として活動しつづけるかぎり、今後とも、日本語の表記いじりがつぎつぎと行われるであろう。もちろんその構成員の中には、高い見識の持ち主も少なくないはずであるが、機関としてこれまでにしてきたことには、立看用語に翻訳して言うならば、犯罪的といわざるをえないようなところもある。(7頁)
「犯罪」性の検証もふくめて、まずは1946年を大きな境にして失われたものをちゃんと知っておくことが重要であると思う。間違っても行き過ぎた「旧字旧かな主義」に陥らずに。ちなみに、国語改革の動向は敗戦とともに突如始まったわけではなく、明治以来の言語政策問題、いわゆる国語国字問題に遡る。
府川充男と小池和夫は『旧字旧かな入門』(柏書房、2001年、asin:4760119973)でこう書いている。
しかしなお、当用漢字字体表による字体整理、そして現代仮名遣いの徹底は、つい百年前の自国の文化との間に大なる断絶を作り出したことは否めません。
明治大正という歴史上近代に属する時代に普通に読まれていた文字さえ、現代の日本人には読みづらい旧字旧仮名の文字であり、ましてや現代に生きる私達が旧時代に則った漢字と仮名で文章を綴ることには多大な困難を覚える状況に際しています。
百年前、私達の曾祖父らはどのような文字を読み書きしていたのか、それに理解し得ないで、文化の継承等出来るものではありません。(四頁)
この「はしがき」は実は下のごとくすべて旧字旧仮名で組まれている。
併しなほ、當用漢字字體表による、字體整理、そして現代假名遣ひの徹底は、つい百年前の自國の文化との間に大なる斷絶を作り出したことは否めません。
明治大正といふ歴史上近代に屬する時代に讀まれてゐた文字さへ、現代の日本人には讀みづらい舊字舊假名の文字であり、況してや現代に生きる私達が舊時代に則った漢字と假名で文章を綴ることには多大な困難を覺える状況に際してゐます。
百年前、私達の曾祖父らはどのやうな文字を讀み書いてゐたか、其れに理會し得ないで、文化の繼承等出来るものではありません。
こうして、私が現在目にする日本語のページ、版面には見えない国語国字改革によるかなり大きな断層が走っていることを再認識した。その意味でも、「文字は不安にふるえている」(鈴木一誌『ページと力』)と言えるのかもしれない。
人里離れたある沢を流れる川の上流に粗末な作りのかなり傷んだように見える祠(ほこら)がある。以前から気にかかっていた。先日、山中の寺を偶然訪ねた帰りにふらりと見に行った。
このように、すこし川に突き出した淵の上に危ういバランスで建っている。川の流れの勢いをそこで押しとどめようとするかのようなセッティングに感じられる。最初にこの辺りに入植した人が建てたものだろう。当時はそのあたりがいわば結界だったに違いない。しかし、その少し上流には祠の存在をかき消すような床固工群が設けられている。
残念ながら、祠に近づくことはできなかった。不思議なことに、祠に通じる道が見当たらないのだった。川を渡って淵をよじ登るしかなさそうだった。次回挑戦してみよう。
それにしても何が祀られているのだろうか。水神としての龍神が祀られているのだろうか。「白龍」という文字が見えるような気がしないでもない。龍(竜)ほど興味深い想像上の動物はない。おそらくは土地(自然)と人体を結ぶ水という物質の「力」を巧みに象徴する存在なのだろう。あの祠の中に例えば下のような竜の絵があったら、と想像すると楽しい。ありえない。
祠の背後の開けたように見える土地は、実は採石され尽くして死んだ山である。かつての結界を無視してその後人間は山を削った。
そして隣の沢の奥まったところにあった砕石工場は今では廃墟(写真)になっている。廃墟とは受け身の結界ではないかとふと思った。
- 作者: 永原康史
- 出版社/メーカー: 美術出版社
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永原康史『日本語のデザイン』(美術出版社、2002年)をときどき手に取っては、8頁分が折り畳まれた「日本語のかたち鳥瞰」図をひろげてみる。何も考えず、ただ見るだけでも楽しい。
そこには古代は471年の「金錯銘鉄剣」、503頃の「隅田八幡鏡銘」から現代は石井明朝(MM-OKL)とゴナB写研、OSAKA10ポイント、ビットマップ・フォント(アップルコンピュータ)にいたるまで51種の文字たちが文字通りグラフィカルに並んでいる。それは千五百年におよぶ「日本語のかたち」の変遷の一筋を巧みにレイアウトしたいわば「文字の歴史デザイン」作品にもなっている。色んな「声」が聞こえてくる。色んな「風」が吹いている。永原氏は書いている。
日本語はグラフィカルな言語である。文字が言葉を視覚的にリードしてきたといってもいい。日本語をただ造形としてだけ眺めてみても、文字は視覚言語として立ち上がってくる。やはり言葉はヴィジュアルコミュニケーションなのである。古今和歌集のかなを起点とし、メディアデザインの視点から、前千年と後千年の流れを追った。(8頁)
蛇足ながら、言葉はヴィジュアルコミュニケーションでしかない、わけではないことは言うまでもない。