撮る光、見る光

HASHIGRAPHY Rome: Future Deja Vu ローマ 未来の原風景

HASHIGRAPHY Rome: Future Deja Vu ローマ 未来の原風景




東京上野、国立西洋美術館で開催されていたHASHI展に、最終日の閉館2時間前に駆けつけた。HASHIこと橋村奉臣さんとパートナーの良子さんが会場の外で出迎えて下さった。2年ぶりの再会である。HASHI展は国立西洋美術館開館50周年記念事業であり、その正式名称は「『ローマ 未来の原風景 by HASHI』展」である。開催を記念して出版された作品集『HASHIGRAPHY Rome: Future Dèjá Vu』に拙文「ローマによって見られた夢(A DREAM DREAMT IN ROME)」を寄稿したからという理由だけでなく、そこでも触れたのだが、ハシグラフィーという写真(フォトグラフィー)を核に据えた独自のミクスト・メディアの技法は写真を見るという体験をひとつの新しいインスタレーションに高める挑戦、実験でもあると感じていたこともあって、是非この眼で展覧会を見たいと思っていたが、その日まで時間がとれなかった。「ローマによって見られた夢」では、主にハシグラフィー作品群をわれわれの歴史的時間観念を根底から揺るがし、ひとつの新たな未来像を提示するものとして論じたのだが、実際にこの眼で見た展覧会においては、時間よりも光に対するHASHIのこだわりを強く印象づけられた。いうまでもなく、写真を撮るには光が必要不可欠である。そしてこれは忘れられがちなことだが、写真を見るにも光は必要不可欠である。そこから、では、写真はどのような光の下で見られるべきなのかという問題が発生する。写真は撮って終わりではない。撮った写真をどのような光の条件の下で見るか、見せるか。写真家はそこまである種の責任を負っているのではないか。写真家のある種の倫理と言ってもいいかも知れない。展覧会観賞後、新宿御苑のHASHI studioに招かれて、そこで祝杯を上げながら交わした会話の中では、橋村さんはハシグラフィーは写真ではなくあくまで「アート作品」であることを強調していたが、そしてそれは理解できることだが、しかし、私にとってはあくまで写真であり、ただし、写真を見るという体験の新たな地平を光と翳を精密に計算することによって切り拓いたところが革新的であると思われた。それにしても、国立西洋美術館という日本の美術館の頂点に立つ美術館において、良子夫人も語っていたように、生きた個人の展覧会は前代未聞の事件でもあった。唯一残念なことは、HASHIの挑戦が、作品の革新性を正当に評価する地平における以前に、旧態依然かつ官僚的体質の根深い組織との戦いという消耗戦を強いられたことである。HASHIさん、良子さん、ご苦労様でした。そして拙文「ローマによって見られた夢(A DREAM DREAMT IN ROME)」の推敲段階でメールによるやりとりを何度も交わし、今回実際に会う事のできた、大槻さんと伊東さんも、ご苦労様でした。


HASHI展を訪れるに際して、私の急な誘いに快く応じてくれた中山さん(id:taknakayama)、id:mmpoloさん、早川さん(id:hayakar)、大和田さん(id:kaiowada&大阪からやってきたパートナーさん)、下川さん(id:Emmaus)とも再会することができた。下川さんとは実際には初対面だったが、全然そうは感じなかった。ブログ上での深いやりとりが長いせいだろう。そうそう、すでに簡単に書いたことだが、HASHI展では姜信子さんとも遭遇したのだった。響宴はHASHI studioからイタリア・レストランに場を移して続いた。その後HASHIさんと別れた私たちは新宿西口の思い出横丁に繰り出して、終電まで語り続けた。