アメリカホドイモと詩の時代(Apios americana & the reign of poetry)


Apios americana or Apios tuberosa


ソローの『ウォールデン、森の生活』の後半に、北米土着のアメリカホドイモ(アメリカ塊芋, potato bean, hopniss, Indian potato or groundnut, Apios americana or Apios tuberosa)について、その滅びゆく運命を北米原住民の運命に重ね合わせながら、その再生、復活の可能性を意味深長かつ大胆に「詩の時代」(the reign of poetry)として思い描く一節がある。凄い想像力だと感心した。そして、そのアメリカホドイモが現在日本で「アピオス」という名前である意味で復活していることを知って驚いた。比較的容易に入手でき、また、その気になれば、自分で栽培して収穫することもできることが分かった。北米インディアンの伝説の果実と言われるだけあって、非常に栄養価が高く、かつ美味であるという。大きさは親指ほどらしい。実際に食べた人の感想によれば、その風味は「落花生とサツマイモを足して2で割り、わずかにさといもを加えたような味」、あるいは「ジャガイモやサトイモにサツマイモを合わせたように、さわやかに甘く、アズキあんにも似た風味があります」とのことである。んーん、食べてみたい。また、日本にも土着の同属のホドイモが存在すること、さらに、一説にはアイヌの人たちが「トマ」と呼んで煮て食べたり餅にして食べたりした塊茎がホドイモであるということも興味深い。しかし、知里真志保著『地名アイヌ語小辞典』によるかぎり、「トマ」はホドイモではなく、 エゾエンゴサクの塊茎であるが、、。



肝心のソローのアメリカホドイモ哀歌ともいうべき一節を下に引用する。翻訳自体の諸問題への関心もあって、岩波文庫版の飯田実氏の訳文、講談社学術文庫版の佐渡谷重信氏の訳文、そして原文を引用する。

 ある日、ミミズを掘っていたとき、蔓についたアメリカホドイモ(Apios tuberosa)を発見した。これは原住民のジャガイモであり、いわば伝説の果実であって、私は子供のころに掘って食べたことがあるとひとには話していたものの、ひょっとすると夢のなかの出来事ではなかったかと疑いはじめていた矢先のことだった。あれからも、ほかの植物の茎に支えられている、その縮んだ赤いビロードのような花をしばしば目にしながら、アメリカホドイモとは知らずにいたのである。それもいまでは開墾によって、ほとんど絶滅しかかっている。霜にやられたジャガイモとよく似た甘味があり、焼くよりも煮て食べるほうがうまかった。この塊茎は、将来、「自然」がみずからの子孫をここで育て、質素に養おうとしていることのかすかな徴候のように思われた。肥えたウシと波打つ穀物畑の時代である現代においては、かつてインディアンのトーテムだったというこのつつましやかな塊茎も、まったく忘れ去られるか、わずかにその花を咲かせる蔓によって知られているにすぎない。しかし、野生の「自然」がふたたびこのあたりを支配する日がくれば、ひ弱で贅沢なイギリス伝来の穀物などは無数の敵の前に姿を消してしまうであろうし、人間の手を借りなくても、カラスがトウモロコシ畑の最後のひと粒に至るまで、南西部にあるインディアンの神の広大なトウモロコシ畑へともち帰ってしまうことだろう。もともとこの鳥が、そこからトウモロコシを運んできたといわれれているのだから。その一方で、いまではほとんど絶滅に瀕しているアメリカホドイモはよみがえり、霜や荒れ地をものともせずに繁茂して、それが地元産の植物であることを証明し、狩猟部族の食料としての重要性と威厳とを取り戻すことになるであろう。インディアンの穀物神(ケレス)か知恵の神(ミネルヴァ)が、その発明者兼贈与者だったにちがいない。やがてこの地に詩歌の治世がはじまるとき、アメリカホドイモの葉と実の生る蔓は、われわれの芸術作品の上に表現されることになるだろう。(飯田実訳、岩波文庫版『森の生活』下巻123頁〜124頁)

ある日、釣の餌を探しながら、蔓になっているアメリカ塊芋(ほどいも)(Apios tuberosa = ピーナッツのような豆科)を見つけた。これは原住民にとっては馬鈴薯(ポテト)代わりであり、一種の伝説的な実でもあった。前にも述べたように、私は子供の頃にそれを掘って食べたことがあったのかどうか、またそれは夢ではなかったのか、そんな記憶も疑うようになっていた。その後も、同じ物とは知らずに、その縮れた、赤いビロードに似た花が他の植物の茎に支えられているのを何度も見かけたことがあった。だが土地が耕作されたのでそれもほとんど絶滅してしまった。その実には甘味があり、霜にやられた馬鈴薯の味に似ていた。焼くより煮たほうが美味しいことが分かった。この塊茎(ほどぐき)は《自然》が将来いつの日かに、ここで自分の子孫を育て、質素に養育しようとする、わずかな約束でもあるかのように思えた。牛は肥え、穀物畑が波うつような今日の時代に、かつてはインディアン部族のトーテムであったこのつつましい地下茎も、すっかり忘れ去られているのか、花の咲いた蔓によってのみ知られている。しかし、《自然》が未開のまま、もう一度ここの土地に君臨するように努力しよう、さもなくば何にも代えがたい、贅沢なイングリッシュ育ちの穀物などは、おそらく無数の敵の前に姿を消してしまうであろうし、人間が面倒をみなくても、鴉が玉蜀黍(とうもろこし)の最後の種子さえ、神がその実をもたらしたといわれる西南地区のインディアンの神の広大な玉蜀黍畑へ持ち帰ってしまうかもしれない。ところが、今ではほとんど根絶したといわれるアメリカ塊芋(ほどいも)が霜や土地の荒廃にもめげずに再生し、繁茂し、それ自身、土着の植物であることを証明し、狩猟部族の食料として古代からの尊大さと威厳を回復することになるだろう。インディアンのケレス(豊作の女神)かミネルヴァ(知恵と発明の女神)が、この植物の発明者か授け人であったに違いない。こうして、ここに詩歌の御代が始まる時に、その植物の葉と数珠つなぎになった実がわれわれの芸術作品の中に謳われるのかもしれない。(佐渡谷重信訳、講談社学術文庫版『森の生活−ウォールデン−』350頁〜351頁)

Digging one day for fish-worms I discovered the ground-nut (Apios tuberosa) on its string, the potato of the aborigines, a sort of fabulous fruit, which I had begun to daubt if I had ever dug and eaten in childhood, as I had told, and hada not dreamed it. I had often since seen its crimpled red velvety blossom supported by the stems of other plants without knowing it to be the same. Cultivation has well nigh exterminated it. It has a sweetish taste, much like that of a frostbitten potato, and I found it better boiled than roased. This tuber seemed like a faint promise of Nature to rear her own children and feed them simply here at some future period. In these days of fatted cattle and waving grain-fields, this humble root, which was once the totem of an Indian tribe, is quite forgotten, or known only by its flowering vine; but let wild Nature reign here once more, and the tender and luxurious English grains will probably disappear before a myriad of foes, and without the care of man the cow may carry back even the last seed of corn to the great corn-field of the Indian's God in the southwest, whence he is said to have brought it; but the now almost exterminated ground-nut will perhaps revive and flouish in spite of frost and wildness, prove itself indigenous, and resume its ancient importance and dignity as the diet of the hunter tribe. Some Indian Ceres or Minerva must have been the inventor and bestower of it; and when the reign of poetry commences here, its leaves and string of nuts may be represented on our works of art. (Henry David Thoreau: A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985, pp.512–513)


日本のアピオス・ブームは、いわゆる健康ブームやグルメブームの一環にすぎないようだが、しかし、きっかけはどうあれ、一度は北米で絶滅しかけたアメリカホドイモが、150年後の日本で甦ったと考えることは愉快だ。それに、ソローが記した「自然の消えやすい約束(a faint promise of Nature)」が日本で果たされ、「詩の時代(the reign of poetry)」の始まりが日本で始まっているのかもしれないと考えることはもっと愉快だ。それはさておき、今年はアメリカホドイモをなんとか手に入れよう。


ちなみに、アメリカホドイモは植物分類学上は豆科の蔓性多年草である。学名の ‘Apios tuberosa’ あるいは ‘Apios americana’ のホドイモ属を意味する‘Apios’ は元来ギリシア語で「梨」を意味する語に由来する。塊茎の形状が梨に似ているという命名理由らしい。 ‘tuberosa’ は、膨張や隆起を意味するラテン語 tuber に由来する。英語でもtuber 一語で塊茎を意味する。


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