当事者性はつねにすでに

2007年10月からデルタGという主に性差別問題を扱うサイトで「いぬのえいがひょう」というコーナーを連載していました。


映画評という名ではあるものの、映画評論が目的ではなく、その映画にこじつけて、差別反対を語っていたことが殆どでした。
それはあくまでも差別反対であって人権擁護の考えはありませんでしたが、デルタGの特性上、人権というものに興味があるかたや人権擁護活動をしているかたがアクセスすることが予想できたため、当初は既存の人権思想に近い書き方をしていました。
人権擁護に、賛同することは書いていたつもりはないけれど特に反対もしていませんでした。


当初から、連載の最後には、書こうと思っていたことがありました。
2009年7月の最終回は、予定通り、その内容にしました。
それがこちら。

人権という差別思想
[いぬのえいがひょう] vol.088
エレファント・マン (1980) The Elephant Man

19世紀末のロンドン。
全身の骨格が変形し、頭部と右腕が肥大し、皮膚のほとんどが腫瘍で覆われていたジョン・メリックは、見世物小屋エレファント・マンと呼ばれ、檻に閉じ込められ、鞭で打たれ、見世物にされていました。

ある日、メリックのことを知って衝撃を受けた大病院の外科医トリーブスは、メリックを研究材料として見世物小屋の座長バイツから引き取り保護します。
メリックを知っている誰もがずっと、メリックには知性が存在しないと思い込んでいました。
しかし、トリーブスは、メリックがキリスト教の聖書を熱心に読み、口唇の腫瘍のため発声が困難でありながらも、すらすらと詩篇を暗誦する姿に触れ、メリックが豊かな知性の持ち主であることに気づきます。

そんなメリックのことが新聞に報じられると、メリックの境遇に同情した上流階級のかたがたが、こぞってメリックを気にかけるようになります。
それまで経験したことのなかった優しい扱いにメリックは感謝します。
しかし、商売道具である「エレファント・マン」を騙し取られたと逆恨みした見世物小屋の座長バイツによってメリックは病院から誘拐され、また檻の中に監禁されてしまいます。
見世物小屋から逃げ出した裏切り者としてバイツから暴行を受け瀕死の状態になったメリックは、見世物小屋の仲間に助けられて、なんとか逃げ出します。
病院へ向かう途中、メリックは、好奇の目を向ける街の人間たちに迫害され、地下道に追い詰められ、叫びます。「私は人間だ。動物じゃない」

メリックは、キリスト教を敬虔に信仰していました。

フリードリッヒ・ニーチェは、キリスト教ルサンチマンであるとして非難しました。
ルサンチマンとは、社会的弱者が強者を妬む感情のこと。
強者の権力を妬むがゆえ、強者をと権力から引き摺り下ろし、弱者である自分がその権力の座につきたいと願うこと。
キリスト教はそのために、道徳的価値観を設定したのだとニーチェは言います。
道徳的価値観の中では社会的に弱者である自分たちのほうが強者になれます。
「悪い者に手向かってはいけません。 あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」
暴力をふるう権力者に対しての非暴力は、道徳的価値観の中でならば価値を獲得し、権力関係を逆転するのです。

マタイの福音書にあるこの記述とよく似た言葉が、差別やいじめの被害者に対して語られることがあります。
「差別やいじめをする側のほうが、世界観の狭い愚かな者なのだ。あなたのほうが正しいのだから、加害者を秘かに軽蔑していればいい」というアドバイスです。
これもまた道徳的価値観の中で加害者への復讐を果たすことで、被害者を慰めるのです。
そう考えることで弱者は心理的に慰められるかもしれません。しかしその慰めは、実社会での権力関係を見て見ぬふりを決め込むことから目を逸らす言い訳でもあります。

慰めが慰めだけで終わるなら、弱者の姑息な言い逃れのレトリックに過ぎません。
強者の権力の温存に協力しながら、弱者としての権力も持つのです。
おいしいところだけをつまみぐいするという、卑怯な真似をしているのです。
ニーチェの非難にも一理あります。

しかし、道徳的価値を言い訳としてのみ用いるのではなく、現実において行動を起こし強者の権力の転覆を図る指針とするならば、話は別ではないでしょうか。
ルサンチマンが、強者に抵抗しない言い訳ではなく、強者に抵抗する思想となるならば、ニーチェの非難を逃れるのではないでしょうか。

そして、人権思想はキリスト教のこの点と大変よく似ています。

人権運動には、ふたつの方向性があります。
ひとつは、被害者の権利を守る運動。弱者への慰めです。
運動が弱者保護のみを目的とするならば、ニーチェの非難は人権運動に対してもそのまま妥当に当てはまるでしょう。
おいしいところだけをつまみぐいしているのです。
もうひとつの方向性は、加害者への抵抗運動です。
これがあってはじめて、人権運動はつまみぐいの卑怯さを逃れます。

メリックは、「私は人間だ。動物じゃない」と叫び訴えました。
これは、「私は人間です。よろしくおねがいします」という、単なる自己紹介ではありません。

「これはペンです」と言うときそれは、ペンという物体の価値、無価値を語っているのではありません。
しかし、「私は人間だ」の場合は、暗黙に「人間は尊重されるべき存在だ」という思想が共有されていることを前提にしているのです。
「人間は尊重されるべき存在だ」という思想。それは、現在、人権思想と呼ばれています。
メリックが叫んだのは、人権思想です。
「私は人間だ。価値のない動物とは違う」
これとまったく同じ理屈は、人間の枠組みより下位のカテゴリーにおいても、よく見受けられます。

「私は白人だ。価値のない有色人種とは違う」
「私は健常者だ。価値のない障害者とは違う」
「私は○○国民だ。価値のない××国民とは違う」
「私は○○教徒だ。価値のない××教徒とは違う」
「私は資本主義者だ。価値のない共産主義者とは違う」
「私は有職者だ。価値のない無職者とは違う」
「私は男だ。価値のない女とは違う」
「私は男だ。価値のないオンナオトコとは違う」
「私は男だ。価値のないホモとは違う」
「私は女だ。価値のないレズとは違う」
「私は女だ。価値のないオトコオンナとは違う」
「私は性欲がある。価値のないAセクとは違う」
「私は彼氏/彼女を作れる。価値のない非モテとは違う」

他にも膨大な例がありますがそれらはすべて、「私は尊重されるべき存在だ。尊重される価値のない他のものとは違う」という考えです。
そしてこれが、差別と呼ばれるものです。

差別は、自身の帰属するカテゴリーの価値を妄信することによって過剰な自尊心を得ることが目的です。
その自尊心の設定は、自己と他者を洗脳し尽くし、互いに洗脳しあうことで成し遂げられます。
その自尊心には理由が述べられません。とにかく、そうと決まっているのです。
捏造した価値を、自分たちの帰属するカテゴリーに付与するのです。
真実ではない嘘を、真実だと言い張って押し通すのです。
差別者は、真実と呼ばれる嘘を用いて、自尊心という不当な利益を得ます。
差別者は、真実と呼ばれる嘘を共有することで、集団の権力の一部になるという不当な利益を得ます。
差別者は、真実と呼ばれる嘘を用いて社会制度を構築することで、社会的に優遇されるという不当な利益を得ます。
他カテゴリーを蔑視し迫害することは、そのための手段にすぎません。
差別の不当性の根拠は、嘘を真実と語る、詐称にあります。
差別とは要するに、嘘をつくことなのです。

メリックが知っていたらきっと支持したに違いない人権思想は、そういった差別に反対する思想としてよく扱われます。

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
(世界人権宣言 第一条)

しかしこの宣言も、人間が「生れながらにして自由」であること、「尊厳と権利とについて平等」であること、「理性と良心とを授けられて」いること、それらの検証を全く行っていません。証明を放棄し、そう妄信しているだけです。
人権思想がその正当性を語る基盤は、差別思想のそれと全く同じ構造なのです。

差別思想とは、「私は尊重されるべき存在だ。尊重される価値のない他のものとは違う」というもの。
尊重されるべき理由は、「そう信じるから」というだけです。
もっともらしい理由によって、正当化することもありますが、根本には、理由などない絶対的な価値の妄信があります。
メリックの言った「私は人間だ。価値のない動物とは違う」という人権思想。
これもまた、差別思想のひとつなのです。

キリスト教を信仰しているメリックは、自分が神に価値を認められた人間であることを、存在の拠り所としていたのかもしれません。
病室で暮らしながら、キリスト教会の精巧な模型を作っていました。
その模型は、メリックから神への愛を込めた返答だったのでしょうか。
模型という「像」の形を与えると、信仰は認識しやすくなるのでしょう。

設定された価値観は、「像」を作ることで、象徴として崇拝しやすくなります。
国家帰属という権力概念は、国家という象徴的な「像」を設定することで維持できるようになります。
家父長制という権力概念は、家族という象徴的な「像」を設定することで維持できるようになります。

そして、人権というものも、人間賛美という権力概念のための象徴的な「像」なのです。

もちろん、人権思想も差別のひとつであるからといって、人権思想が非難する他の差別を肯定することは論外です。

ある民族的被差別者の多数の実像が、男尊女卑だったとしても、それをもってその民族への差別が肯定されるはずがありません。
けれども、その民族が「私たちは、私たちを差別するあなたたちと同じく男尊女卑を信じている。あなたたちと同じだ」と語り、それを差別反対の根拠とするのであれば、そこに正当性はありません。
その根拠こそがまさに、差別なのです。
男尊女卑を掲げた差別反対の言説は、それ自体が差別行為なのです。

ある宗教が同性愛者蔑視をしているからといって、その宗教徒であることを理由に差別をしていいはずがありません。
けれども、その宗教徒が「私たちは、私たちを差別するあなたたちと同じく同性愛者ではない。あなたたちと同じだ」と語り、それを差別反対の根拠とするのであれば、そこに正当性はありません。
その根拠こそがまさに、差別なのです。
同性愛者への偏見を掲げた差別反対の言説は、それ自体が差別行為なのです。

ある人間が人間を自認しているからといって、人間であることを理由に差別をしていいはずがありません。
けれども、その人間が「私たちは、私たちを差別するあなたたちと同じ人間だ。あなたたちと同じだ」と語り、それを差別反対の根拠とするのであれば、そこに正当性はありません。
その根拠こそがまさに、差別なのです。
人権を掲げた差別反対の言説は、それ自体が差別行為なのです。

ボーヴォワールは、自著『第二の性』で、「人は、女に生まれるのではない、女になるのだ」と言いました。

人は、女や男に生まれるのではありません。
ジェンダー規範という「像」を用いて過剰に自己肯定するために、つまり、差別思想によって利益を得るために、女や男を自認するようになるのです。

人は人間に生まれるのではありません。
人間の価値という「像」を用いて過剰に自己肯定するために、つまり、差別思想によって利益を得るために、人間を自認するようになるのです。

あ! そうそう! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!


人権も差別である。ここではとりあえずそれが最終の結論でした。
人種差別、民族差別、性差別、宗教差別など、ある程度可視化され差別問題と認識されているものの他に、人類優位主義という差別もあると指摘したかったのです。
そして、人類優位主義も含め、各種差別問題の緩和が並行して行われることが望ましいと考えていました。

でも、人権が差別であるという指摘が、最終地点だと判断してしまったのは、改めて考えてみれば浅はかでした。
その判断は、既存の人権問題の枠を意識しすぎていたのでしょう。中途半端に自己満足して思考停止していました。

その先を、ここに少し、書いてみたいと思います。



性差と意識される属性の一切は文化的な構築物であるという考えがあります。

われわれが男や女の自然な属性と考えているものの多くは、決して自然なものでなく、むしろその社会や時代の文化に規定された属性にすぎない。(中略)しかしまさにこの演技は、演技ではなく自然の、そうでしかありえないふるまいとしてなされなければならない。
江原由美子フェミニズムと権力作用』 勁草書房 P.149)

おそらく、「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである。実際おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。そしてその結果として、セックスとジェンダーの区別は、結局、区別などではないということになる。
ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』 青土社 P.P.28-29)


自分の自然な感覚として感じている性の感覚は、社会の性規範を反復して確定された性の自認によって成り立ったものに過ぎません。
規範が身体化されているということ、本質を自然に偽装するということです。
身体化されている属性それ自体が、自然なものと扱われる権力を付与された構築物なのです。


これらの著作は、性差別を問題視するかたに多く読まれている以上、こういった性差に関する本質的な暴きは、支配的な性規範の問題の根深さを知らしめるために流用されることが多いものです。


性規範に一致した自身の身体性に基づいて、その身体の当事者として、性差別意識は成り立ちます。
差別者の当事者性によって、差別は成り立ちます。
そして、当事者性はつねにすでに構築物なのです。


かつてべティ・フリーダンが言った「名前のない問題」という指摘は、男性中心社会の抑圧の影響が、多くの女性たちに、心理上、身体上に感じていた、何かがおかしいという不快感に、耳を傾けさせました。
その不快感を言語化することで、生活に染み込んでいた差別性が明るみに出されました。
そして、男女差別の問題においては、女性の被差別当事者としての不快感や痛み、身体性の訴えが、差別性を暴く根拠となっていきました。
しかし、そもそも身体性は、構築物にすぎないのではないでしょうか。
被差別当事者としての痛みは、問題への気づきの切っ掛けとしては有用な場合が多いでしょうが、それは切っ掛けにすぎず、正当性を保障するものではありません。
その痛みは、被差別者の当事者性に依存しています。
そして、当事者性はつねにすでに構築物なのです。


江原由美子ジュディス・バトラーの言うような性差の虚構性に関する批判は、差別当事者にのみ適用され、被差別当事者に対しては用いられません。
痛みを感じる主体である自我の虚構性に対して、あまりに無自覚です。
無自覚で当然なのでしょう。それが目的なのでしょうから。
抑圧される属性の当事者が解放を求める運動のもとでの言説なのですから。


そして、その運動の根拠として、人権が用いられます。
人類自認もまた、性の属性と同じように身体化された規範にすぎません。


差別的関係において、差別者の当事者性も被差別者の当事者性はその属性に付与されます。
属性は権力を付与された構築物なのですから、当事者性と権力は不可分なのです。
差別者の当事者性の権力は、身体化された支配的規範に基づきます。
被差別者の当事者性の権力は、身体化された人権という概念に基づきます。
そうして人間の身体性という構築物に権力性を付与することによって、差別問題は設定されてきました。
被差別者の当事者性に基づいた差別緩和は、被差別者が自身の属性を無批判に肯定することで、社会権力を得ることなのです。その社会権力を救済することが、人権運動の主眼です。
しかしそもそもの差別自体が、差別者が自分の属性を無批判に肯定することで、社会権力を得ること。
(この社会権力はもちろん、個人的と扱われることも含みます)


差別問題の当事者は差別者だというのに、被差別者が当事者と呼ばれるようになったのはいつごろからなのでしょう。
差別者の属性に価値を設定することが、差別の核心です。
差別は、差別当事者の属する社会的立場の優遇を求めて行われます。
帰属によって自己を規定し、帰属によって連帯することの無批判に肯定するのです。
人権概念に基づいた差別反対も、被差別当事者の属する社会的立場の優遇を求めて行われます。
帰属によって自己を規定し、帰属によって連帯することで居場所を見つけるのです。


被差別当事者がエンパワーメントされるたびに、それは被差別者の内の「人間自認」がエンパワーメントされます。
人権運動においてエンパワーメントは、人権の保障、人間として生きていくよりどころを手に入れることなのですから。
人権擁護という形での差別問題の設定が浸透したのは、馴染みがある、差別主義と同じ形をしているからではないでしょうか。
生きやすさという餌に釣られて、被差別当事者が利己的に動くだけ。
被差別者は、被差別者属性、当事者性にしがみついている。
被差別者の当事者性が擁護されるたびに、人類への価値が設定されていくのです。
人権擁護の方向だと、細かい差別の解消がかえって、より大きな差別を支えていくのです。
人権運動としての差別解消は、人類優位主義という差別を強化してしまいます。
差別加害者糾弾さえも、差別解消運動が人権擁護と密接に結びついて扱われてきたことから、すぐに人類への価値設定に濫用されてしまいます。


それでも、さまざまな差別を、時期を見ながら順に解消していくことが現実的だという考えがあります。
人類属性優位の問題は、現実問題としてどういう活動に繋げれば良いかわからないでしょう。
とにかくいま出来ることをやるのが現実的であると。
「手を汚さずに革命などできない 権力について無駄なおしゃべりをする前に、まずわれわれ自身が権力を奪取することが必要である」とレーニンが言ったように。

例えば、同性婚の法制化の推進。
異性愛者の婚姻制度に同性愛者を組み込めと同性婚に賛同するかたでも、それで婚姻制度に問題視していないわけではないでしょう。


婚姻制度は、そもそもが異性愛優遇のための制度。
婚姻制度自体が、既婚者を優遇する差別支援制度です。
そうであっても、現実問題として、婚姻の権利を与えられた異性愛者は、婚姻制度の利権を手放さない。
利権を手放さない利己主義者が権力を掌握しているのです。
そうであれば、次善の策として、その利権を享受できる範囲を拡大することで、より平等を実現することができると、それが同性婚の考え方なのでしょう。
そして、その同性婚制度を利用するのは、同性愛の当事者です。


しかし、第二次世界大戦後の日本国の経済発展による総中流現象のように、少数の特権階級が君臨するピラミッド型の支配構造よりも、特権階級が多数になることで差別はより固定的なものになります。
100名の利己主義者うち、40名が支配階級、残り60名が被支配階級である場合。
それぞれが利己的に活動することで、60名が団結して支配構造を打ち倒し、平等を実現する可能性がある。
しかしそこで、被支配階級60名のうち30名が支配階級に統合されたらどうなるでしょう。
70名の支配階級に対し、30名前で抗議を起こさなければならない。
平等実現において、状況は不利になってしまうのです。


被差別当事者性が、他の差別にたいする気付きのきっかけになるとも言うけれど、それは稀なことです。
まして、被差別者の当事者性に価値が置かれる人権擁護活動においては、難しいことでしょう。
当事者性とは、客観性を欠いているということです。
平等な共産主義実現のための前段階としての社会主義がかえって不平等を造りだしたように、同性婚の法制化は、かえって差別問題を深刻化させてしまいます。
部分的な差別緩和はかえって、より可視化されていない被差別者への抑圧を強化するのではないでしょうか。


また、現実的と呼ばれるものは、人間社会の現実に過ぎません。
それは、人間社会の継続を絶対的に支持するまたは認めるという前提の上で語られる現実。
人間社会自体の否定だけは、はじめから除外して現実を語っているのです。


「男は女を強姦したい性。それは絶対の事実。男のそういう欲求は悪くない」と言い張った上で被害者の女を責めるようなマッチョヘテロ男の言い分。男の暴力の否定だけははじめから除外。
異性愛でシスジェンダーが正しい性だということは揺るがさず、それに組み込む形で、性同一性障害者の権利を認めた性同一性障害特例法。X自認者と障害という自認のないTG、TSは除外。
自分たちの信じる唯一の正しい性の在り方だけは絶対にゆるがさない。
人間社会否定を除外した現実認識は、そういったものと同じ欺瞞があります。
男女差別への反対は、男社会をやめて人間社会になることを求めます。
人種的マイノリティ差別への反対は、人種的マジョリティ社会をやめて人間社会になることを求めます。
人間社会を求めるのは、被差別当事者が、社会の支配者としての属性を持ちたいからです。差別当事者と目的が同じなのです。差別をする当事者になりたいです。人権という概念はそのための道具なのでしょう。
差別反対を語るなら、人間社会をやめ、ただの「社会」であることを求めればいいのに。


マジョリティが自分たちを肯定したいがために差別は起こり、その肯定感をもっと高めるためにマイノリティに対して偏見を持つ。
特定の細かい差別カテゴリー(性差別、人種差別、部落差別などの差別の種類)において、マイノリティは、その属性を社会が肯定してくれません。
マイノリティは、社会からの肯定を望むとき、もっと大枠の属性である「人類への帰属」を自分の肯定に使います。
となると、既存の差別問題の中での被差別当事者は、差別当事者よりも、人類への帰属をより強く意識してしまいます。


個別の属性において。
抑圧:強者にプラス、弱者にマイナス
抵抗:強者にマイナス、弱者にプラス


種の属性において。
抑圧:強者にマイナス、弱者にプラス
抵抗:強者にプラス、弱者にマイナス


たとえば性差別問題の中でいえば、性差別を行っている度合いは
 性的マジョリティ>性的マイノリティ
しかし、人類優位主義という差別を行っている度合いは、マイノリティがより人権を意識している以上は
 性的マイノリティ>性的マジョリティ
となります。
既存の差別問題で被差別当事者が生きやすさを求めるなら、人間社会の内での個別の差別が人権概念を用いて解消されていくほど、むしろ社会自体の差別性は高まっていくのです。


被差別者救済の被差別者へのアプローチが、被差別者の自己否定をなくすというだけならいい。
現行の被差別者救済の活動は、それにくっつけて、人間帰属の肯定を付与する。
否定でなければ肯定だという両極端な方法論。
「あなたはあなたのままでいいんだよ」、といった、ありのままを肯定することの推奨する方向性。
何故、肯定する必要があるのでしょう。
何故、「あなたはあなたのままでいいわけでも、だめなわけでもない」ではないのでしょう。
差別は、あるものを肯定すること。 そのついでに、別なあるものを否定します。
肯定と否定で成り立っています。
現在のほとんどの差別反対は、否定しか問題視していません。
特に被差別者の当事者性に基づいた反差別活動は、否定を肯定に差し替えようとします。
否定への反対じゃなくて、肯定への賛成になってしまっています。
(そして、その肯定は、暗に否定を隠している)
それでは、差別反対と言いながらも、差別賛成に過ぎません。


属性に基づいた肯定はすべて差別でしょう。当事者であることの肯定などもっての他。
差別者の依り所をなしに、被差別者の依り所もなしに。
否定をなくすことだけにして、肯定は一切やめるべき。
当事者性を手放せということです。



近代的価値観では、善の定義を利他主義とすることが多いものです。


イヌという種は、ヒトの管理下での選別と交配が続いたことによって、他者への思い遣りに溢れた、友好的な個体が優先的に繁殖させられてきました。
イヌには、世代を経るたびにどんどん性質が善くなっていった歴史があります。


ヒトという種は、卑怯な手を使って他者を蹴落とし見殺しにしても平気な性質の、残酷な個体が優先的に繁殖してきました。
ヒトには、世代を経るたびにどんどん性質が悪くなっていった歴史があります。



…と。
とりあえず、ブログをはじめてみましたが、今後、どういう方向にするかは全く未定です。
いぬかわいい。