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おまわりさんのはなみず RSSフィード

2009-07-20

何のためのカミングアウト?

Ry0TAさんの日記から孫引き

クローゼットからのカミングアウトに何か自己肯定的な、実際解放的なものがあるとしても、それは、カム・アウトすれば、従属状態から逃れ、一切の足枷のない自由な状態になれるからではけっしてない。むしろ逆だろう。カム・アウトすることは、また違った種類の危険と制約に自らをさらすことであり、自分で手軽なスクリーンになって、ストレートの人々がいつだってゲイに対して抱いている幻想を引き受けることである。そしてなにより、自分の身振り、発言、表現、意見のすべてに、ホモセクシュアルアイデンティティを認めた者、という、とてつもなく大きな社会的意味が加わってくる。(Halperin 1995=1997: 48-49.)

デイヴィッド・M. ハルプリン村山敏勝訳『聖フーコーゲイ聖人伝に向けて』太田出版, 1997.

「カミング・アウト」の言説は明らかにその目的をはたした。だがその危険性はどうだろうか。「アウト」と看做されている人々が、自分が意図してそうなったかどうかにかかわらず、失業とか公的攻撃や暴力の対象となることが最近とみに増えてきているが、私がここで言っているのはそのことではない。「アウト」な「主体」が従属をまぬがれ、最終的に自由になることができるだろうか。つまり、ゲイレズビアンの主体を、いくつかのやり方で服従させる隷属状態は、いったん「アウトである」ことが主張されるや、抑圧を続けたり、もっとも陰湿なやり方で抑圧するということがありえるだろうか。(Butler 1991=1996: 118.)

ジュディス・バトラー/杉浦悦子訳「模倣とジェンダーへの抵抗」『イマーゴ 特集 セクシュアリティ』5月号(1996), pp. 116-135.

http://queeringme.g.hatena.ne.jp/Ry0TA/20090429/1240968926


まるで、カミングアウトすると、被差別当事者が生きやすい環境を手に入るものということが、前提になっているようです。

この前提は奇妙だと思います。

カミングアウトしたことで、「もっとも陰湿なやり方で抑圧」されるなんて、当たり前。

そういう状況でなければ、クローゼットなんて有り得ない。

そういう状況でなければ、それはカミングアウトではない。

同性愛者が偏見を持たれない社会で、同性愛者を大っぴらに自称することは、そもそもカミングアウトとは呼ばない。

そもそも、カミングアウトは、あえて正面から抑圧を受ける危険にさらされるという選択なのではないですか。


差別とは、自身の属性または自身の信じる偏見に、根拠のない価値を設定し、優位に立つこと。

嘘をついて騙してズルして利益を得ることなんです。

差別者は、自身の生きやすさのために、嘘をついて被差別者を抑圧し、利益を得る。

差別問題の根本は、嘘をつくこと。


一方、被差別属性を持つ者も、クローゼットの中で外にバレないで済むなら、抑圧されずに済みます。

これもまた、嘘をついて騙してズルして利益を得ることなんです。

もちろん、状況から言って脅迫されて嘘をつかされているようなものですから、仕方のない嘘かもしれません。でもそれはせいぜい必要悪であって、決して善だというわけではありません。


裸の王様だらけの世界。

皆が裸で暮らしながら、多くの者が自身も他者も服を着ていると言い張り、その詐称がルールとなっている世界。

カミングアウトは、嘘つき推奨の間違ったルールが支配するそんな世界で、「私は裸です」と言うのを選択することなのではないでしょう。


たいていの場合、マジョリティに対しての、マイノリティであることのカミングアウトは、自身の生きやすさのためには役に立たないでしょう。

だから何だというのでしょう。

そんなことははじめからわかっていて、生きやすさよりも大切なことがあるから行うのがカミングアウトではないですか。

正直者が馬鹿をみることはわかっていて、それでも正直でいようとする意思なのではないですか。


正直であることすらできない愚かな種が人類なら、人権などと言って、人類に価値を置いて差別問題を語るのはやめてほしい。

そんな嘘つきの詐欺師の種に価値があるというのでしょうか。


  政治家のまやかしにはうんざりだ。

  私が犬を好きなのは、政治家の様にウソをついたり裏切ったりしないからだ

    アラン・ドロン




「皮肉屋とは、犬の哲学者なり」

古代キリスト教の神学者アウグスティヌスは、シニカルな視点で冷徹に人間社会を分析する哲学者たちを揶揄してそう言いました。

人類社会内でうまく立ち回ることに役立たなければ、学問として認めない。

アウグスティヌスにとって、哲学とは真理の探求ではなく、人類社会ための道具に過ぎなかったのでしょう。


学校教育について「こんな勉強なんて社会に出ても役に立たない」と一蹴する連中に似ています。

この偏狭な時代の、偏狭な地域の人間社会内でうまく立ち回って利己的な利益を得ることだけにしか興味がないのでしょう。

そんな連中にとって、学問は、自分の利益のため。自分が得するため。

真実なんでどうでもいい。嘘で固めてかまわない。

でも、そんなものは、学問ではありません。

ああいう連中にとって、学校の意義は、社会適応訓練だけなのでしょうかね。学校はその社会の権力を崇拝することだけを叩き込むところなのでしょうかね。

陰湿ないじめに対して教育的に推奨される態度が事実上「見てみぬふりをすること」であるのも納得です。


アウグスティヌスも同じこと。

人類の利益のためになら、真理を放棄し嘘をも推奨する。


ところで、人類とは一体誰のことを指しているのでしょうね。


たとえば人権思想は、すべての人類に平等な権利を求めます。

しかし、その人類とは一体誰のことなのでしょう。


人権思想は、人類という種の絶対優位を前提にしています。

差別問題を、区別か差別かの線引きをどこでするかの問題にしてしまっています。

種の生物学的な差に基づいて区切っています。


けれどもそんな区切り位置など、人類という種をどう定義するか次第で、いくらでも変えられます。

穢多や非人は、人類でないと定義された者だった。

奴隷制度下において、黒人は人類ではなかった。

柳沢伯夫が言うように、女性全般を「産む機械」と定義し、男性だけを人類とするなら、それは単なる区別になる。

男性と女性の染色体上の違いや、人種の違いによる区別も妥当。

セクシュアル・マジョリティとセクシュアル・マイノリティ脳の構造に差異が見つかったら、その区別も妥当。

また、人類自認は、ジェンダーと同じく、社会的に形作られる後天的なもの。

人類を自認していない、狼少女や狼少年は人権の対象外なのでしょうかね。


  国家の偉大さとその道徳的進歩は、動物の扱い方で知ることができる

    マハトマ・ガンジー


人類だけの絶対優位を信奉する人権屋が道徳性を自称しているのが苛立たしい。

差別思想と人権思想の違いは、種の定義の区切り位置だけでしょう。


差別者も、人権信奉者も、人類というものに絶対の価値を意地でも嘘でも信じています。

差別思想と人権思想の違いは、人類の範囲をどこまでにするかの定義の違いにすぎません。

所詮どちらも、優等と劣等を区別して、優等な者が権利を独占し劣等な者は抑圧されてもいいという考え。


まあ、支配被支関係も、ごまかしのないもっともな理由があるなら肯定してもいいと思います。

優等と劣等の判断をを間違えなければ。

嘘をついて自分たちの優位性を捏造しなければ。


人類の優等の証は、その知性にあるとも言われます。

しかし、人類の社会は、人類の自認は、嘘を真理と思い込むことによって成立しています。

嘘を真理と見まごう者に、知性があるというのでしょうか。そんな馬鹿な。


優位の者は誰なのか、愚かな人類たちでさえ昔から知っていました。


  平均的な犬は、平均的な人間より、良い。

    アンディ・ルーニー


  犬たちは紳士だ。人間ではなく彼らの天国に行きたい。

    マーク・トウェイン


  もし犬があなたの顔を見ても近づいてこないなら、家に帰って自分の良心を確認するべきだ。

    ウッドロウ・ウイルソン


  犬はあなたの生の唯一の教師である

    プラトン


  神よ、あなたが犬に与えられた生まれながらの資質を、どうぞ私にもお恵みください

    シスター・メヒティルト


  人は犬によって、初めて真の優しさを教えられる

    キャプテン・ビーフハート


  犬。あの素晴らしい動物、真に賢い動物

    チャールズ・ディケンズ


それでも、犬たちは人類支配を転覆しようともしていません。

なんと、素晴らしい善良さなのでしょう。


ここに過去の人類の名言をいくつか引用しましたが、最後に、本当に本当に素晴らしい価値ある言葉を引用しておきます。


  わんわん!

    犬

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