Hatena::ブログ(Diary)

elsuenyoの日記

2013-01-14

ハースト婦人画報社「依田勉三の生涯」 松山善三著・2012・5刊

11:40

   『指一本動く限りは十勝野の土を握りて放さぬ。何故か この豊饒の沃野を不毛に終わらせるのは子々孫々への恥と思うからだ。』

   『十勝野には無限の富がかくれている。それを摑むのは、君たちの手だ、汗だ、血だ。』


 数年前、ある郷土史家の文章で「依田勉三」という人物を知り関心を持った。、昨年5月出版された、映画監督松山善三著「依田勉三の生涯」を年末から正月にかけ読了した。冒頭の言葉は、同著の表紙、裏のカバーに書かれた言葉である。力強さを感ずる。


明治初期、戊辰戦争を含む明治維新後の各地における士族の反乱で敗者側は、下北半島への移封や屯田兵として北海道開拓に送り込まれた。

明治2年7月、蝦夷地北海道と改められた。

明治3年8月、民部省内に開拓使が発足し、全道11か国86郡と定められた。(民部省は後に大蔵省に併合)

明治4年、 明治3年に置かれた樺太開拓使開拓使に併合。 

明治5年、 北海道開拓使として長官は東久世公爵 黒田清隆が長官代理として指揮し、札幌、石狩、道南を拓く10年計画策定。

     北海道は全道未開、十勝野は論外の未開地域だった。開拓使は未開地域の開拓を行う太政官直属の役所で本庁を当初東京に、明治     4年には札幌に、開拓事業の終わった明治15年開拓使を廃止し函館県,札幌県、根室県の3県を置き,明治19年3県を廃止し、北海     道庁を設置した。


 4年前 2009年1月から3月にかけ、上野東京国立博物館表慶館慶応義塾創立150年記念として「福沢諭吉展」が開催された。

その中の数多い展示の中に あばら家を背にぼろぼろの衣装を身に着け,地べたに座っている乞食姿の「依田勉三決意姿」の写真、「依田勉三アイヌ姿」の写真、「帯広開拓地の図」のほか十勝野関連の何点かが展示されていたのを記憶している。小説では北海道に立つ前に写真屋を呼んで撮影させたとあるが、まさにそこまで覚悟して取り組むという迫力ある写真であった。(当初は開拓時の帯広の写真かもしれないと判断したが表情は若さがあり出立前の決意の姿と思われる。)

依田勉三の北海道入植は、時代的にはこの屯田兵制度の終了する時期の明治15年である。

 勉三はこの年1月1日土地開墾、開拓,耕作、牧畜、造林を目的として静岡・天城で「晩成社」を設立登記し,13戸27人で「オベリベリ」と称する現在の帯広近郊の十勝原野に入植した。今でいう構想の大きなベンチャー起業家ではなかったろうか。

時代背景は「釧路帯広」間の釧路線開通が明治38年、「旭川札幌」間の十勝線開通が明治40年といわれ 20年から25年早かった入植といわれる。

 依田勉三は1853年嘉永6年)伊豆豪農の3男として生まれた。このブログで取り上げた九鬼隆一が1850年嘉永3年)、東洋大学創立者井上円了日本女子大創立者成瀬仁蔵が1858年(安政5年)の生まれであるから同時代に生きた男である。

明治6年横浜スコットランドの伝道師ワッテルの英語塾で学んだ後、福沢諭吉慶応義塾へ進む。

 北海道開拓への野心は、当時辺境でほとんど耕作地のなかった天城山麓を中心に、伊豆駿河相模、などを開拓し、「開拓済民」を天職とした二宮尊徳翁に傾倒したようであるが、同じ志の仲間に当初は電信技師をめざして工部大学に入り、その後勉三とワッテル英語塾で知り合った渡辺 勝も明治政府開拓使顧問で元アメリカ農務局長の「ケプロン」報告書を読み、開拓に志した。また鈴木銃太郎という旧上田藩士の子孫も伝道師の道を捨てて父親、妹とともに開拓地へ向かったという。この妹はこの時代、英語も読め 開拓地では子供たちに農学校を目指させた教育を行ったという。入植したとき勉三は30歳、渡辺勝28歳、鈴木銃太郎27歳だった。夢の大きな青年達だった。この3人が中核となる。

 開墾は思うようにいかず、収穫高が計画から程遠く、3年 4年で脱落者が出はじめたという。

北海道開墾の内容は小説に譲るが、当時の実際の開拓、開墾の凄まじさを今日に伝える書で、読了後より胸を打つ著書は『石光真人著・ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書』であろう。戊辰戦争下北半島斗南藩に移封された旧会津藩士一家族の置かれた環境と当時10歳の柴五郎少年が体験した苛烈極まる不毛の地での開拓、公表をはばかる悲惨な飢餓生活を伝えている。心打たれる名著である。

 勉三達の道なき奥地の開墾、旱魃 霜害、イナゴの食害、息子の夭逝、実弟の死、幾多の困難を経て、明治26年には,澱粉工場,亜麻工場、畜産会社を興す。明治44年には乳業、缶詰工場、ハム工場を起こしたものの、しかし成功したわけではなく財産なく借財のみで、莫大な負債を抱いて、「晩成社」は四分五裂し、解散する。土地は一坪も残らず、借財の返済に充てられたという。

大正14年73歳で帯広で生涯を閉じた。

「依田勉三の生涯」にしろ、「柴五郎の生涯」にしろ明治人の生き様は現代の教育にぜひとも必要と考える。NHK大河ドラマ明治会津女性山本八重が取り上げられた。これからの女性の生き方の大いに勉強になる偉人である。現代は女性が上位。いわんや依田勉三・柴五郎は?、古いだろうか?『学ぶべきものは学べ、学んでならないものは学ぶな、ダメなものはダメ。』(了)

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/elsuenyo/20130114/1358131208