えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

人間は神ではない 川島 (2003)

ムーサよ、語れ―古代ギリシア文学への招待

ムーサよ、語れ―古代ギリシア文学への招待

  • 川島重成 (2003). 「ホメロス『イリアス』:人間と神々」, 川島、高橋編 『ムーサよ、語れ』, (三陸書房).

  神的王を冠したミュケナイ王朝は滅び、ギリシャにはポリスが現れていました。かつての王宮には神殿が建ち、守護神の前で人々は「人間は人間であって神ではない」と確認し合う。そんな時代の詩人がホメロスでした。ミュケナイ時代との距離感は、実際には小規模だったトロイア戦争を英雄達の世界に変えるとともに、しかしその英雄も神ならぬ「死すべき人間」として描かれ、そしてアキレウスはアガメムノンの理不尽な王の権威に怒るのです。その怒りに、ゼウスの計画と運命が交錯する『イリアス』では、人間と神々はどう描かれていたでしょうか。

 はじめに邂逅するのは、アキレウスとアテネ(一巻)。アテネの「わたしはおまえに力をもちいるのをやめさせようとして天からやってきたのです」に続く「もしかしてきいてくれるかと」は、スネルが指摘しているように、高貴な礼節の現れです。ここで神と人間は、隔たりつつも相互の尊重を可能にするある近しさを持っています。神の顕現はもはや畏怖すべきもの、不気味なものではない。アキレウスがアテネに髪を掴まれて振り向くとき感じたのは、「恐れ」ではなく「感嘆」(タウマゼイン)でありました。

  また印象深いのはアキレウスの母テティス、息子に迫った死をまるで人間と親と変わらないさまで嘆きます(十八巻)。とはいえ、「それなのに出かけていってあの子の助けになることも、わたしにはできないのです」と彼女が述べる時、神と言えども人間の運命を変えることができない、両者の距離が意識されています。そしてその運命を引き受ける決意を、アキレウスはティティスに告げるのです。「今こそわたしは行きます。愛しい友を倒した男ヘクトルと/対決するために。死の定めはその時この身に受けましょう」。

  一方のヘクトルは、両親の声に戦いを逡巡し、儚い希望を捨てきれないあまりに人間的な人物でした。二人の対決は突如として神々の視点から描かれ、ゼウスはヘクトルを死から救い出そうかと思案します。しかし彼自身、それは運命の前では無意味だと知っていました。「安心しなさい、愛しい娘トリトゲネイアよ、決して/本気で言っているのではない」。オリュンポスの神々はまことの人間的感情を示します。しかし神々は人間ではなく、そうである以上運命の方へと帰っていくのです。結局、神に味方されたアキレウスが一方的な勝利をおさめるものの、しかし最期についに「だが決して闘わず、誉れも無く死にたくはない」と己の運命を直視したヘクトルは、アキレウス最期の日を予言し、祖国の盾として立派に人生を終えました。彼の生き様は詩人によって語り継がれ、人々に慰めと励ましを与えています。

  そして最終巻、息子ヘクトルの亡骸を求めてきたプリアモスにアキレウスが「ああ気の毒な方よ」と呼びかける時、そこには戦争の勝者・敗者の別なく互いが共に悲劇の担い手であるという共感が息づいています。そしてそれは、神々との対比から生まれてきたものでした。「つまりは神々が惨めな人間にこのような運命の糸を紡いだのです」。人間は惨めな存在ですが、それこそが神ならぬ人間であり、そしてそれが確認された時、アキレウスの怒りは終わるのです。

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  人間の悲惨がマンモス感じられる年始ですがみなさまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。それでは、本年もよろしくお願いします。