思考がダダ漏れ



今日は早めに帰ったのでトリビアを見ていたのですが、「このはしわたるべからず」と書かれた立て札の立った橋に対して、お受験教育を受けた100人の子供たちのうち何人が、あの一休さんの有名なとんちと同じように橋の真ん中を渡るか、というのをやっていました。


母親たちは一様に、「よく考えるのよ」だとか、「うちの子はよくお勉強させてるからわかるんじゃないか」だとか、自分たちの子供が一休さんと同じ答えを導き出すことを期待しているようでした。


・・・。
もうね、アホかと。
もし一休さんのエピソードを知らずに、自分の感性だけで一休さんと同じ行動をするやつがいたら、そいつは間違いなく社会の中で普通の生き方はやっていけないでしょう。


まず第一に、橋の目の前に立てられた立て札に「このはし」という語句を見て、通常の文脈を読み取る理解力さえあれば、「橋」という意味を連想することができるでしょうし、後に続く「わたる」という動詞に対して「橋を渡る」という解釈のできない理解力不足の子供は、まともに文章を理解することはおろか、人との会話すら満足にできないでしょう。


また、仮に「このはし」の意味を、「橋」「端」「箸」などとあらゆる可能性を考慮できる柔軟な思考を持ち、さらにそこから「橋を渡る」と「端を渡る」という2種類の解釈が出来るということまで到達できる驚くべき子供がいたとします。
「この端渡るべからず」と解釈した場合、「真ん中ならば渡ってもよく、端は渡ってはならない」という不自然な状況が発生します。
橋に穴でも空いていて危険であるなど、可能性は考えられますが、そこまで思考できる子供であれば、「この橋渡るべからず」という可能性が捨てられない以上、どちらにしてもなんらかの危険性がこの橋にはある、と考えるのが自然な解釈だという解答に到るはずです。
そして、橋の向こうに目的があるならば、橋の安全性を確認しながら慎重に渡るか、橋を渡らずに向こう岸へ渡る方法を考えるでしょう。


一休さんの回答は、まず出発点から、自分を一杯食わせようとする大人に対して逆に一杯食わせようというところから来ています。
ですから、「このはしわたるべからず」という立て札は、一休さんにとって自分を困らせようとする大人の意思以外の意味を持たなくなります。
前提として人を信じないという思考方法を持って初めて、「端を渡ってはいけないのならば真ん中を渡ればよい」という、禁止の意味を全く喪失した回答を出すことができるのです。


何も考えずに橋の端っこを渡った子供に対して、「真ん中を渡ったら正解だったんだよー。」などと軽く責め気味に言ってるバカ親もいました。
危険の可能性を考えなかったことを叱ってやれ、ボケが!
お前は自分の子供が大人を全く信用しない人間であって欲しいんか!
無謀な行動に対する危険を想像する力もない人間であって欲しいんか!


石を使って安全を確認しながら渡った子供や、四つんばいになって慎重に渡った子供など、危険性を理解しながらも目的に向かって進もうとした子供たちにはその勇気と慎重さ褒めてやれ。
ついには渡ることを断念した子供には、目的は果たせなかったが選んだ道としては間違いではなかったとなぐさめてやれ。


こんな真意のない解答を正解だと教えられて混乱した子供がどう思うでしょう。
理解力のある子供であれば、世の中の大人は自分を騙すことがある、ということを理解し、人を信用するということに躊躇するようになるでしょう。
理解力の劣った子供であれば、理解を超えた解答に思考を停止するでしょう。


はぁ。。。
こんなことで鬱になってるぼくがアホですね。
世の中奇麗事だけじゃ生きていけないんですよ、分かれよ、ぼく。
あーあ、こんな気分やと今日は眠れへんのやろうなぁ。
でも明日は協力会社の人と打ち合わせあるし薬飲んで頑張って寝るか。

Nirvana/Nevermind

Nevermind

Nevermind



最後に聞いてからもう10年ぐらい経っているような気がします。
こんな気分のくさくさしたときは、静かな曲を聴いて気分を落ち着けたり、楽しい曲でテンションをあげるよりも、ぼくの場合、逆に衝動的で負の感情をぶちまけたような曲を聴いて、同調させたままドロドロした感情を発散させる方が落ち着きます。


ああ、しかし懐かし。
この歳でニルヴァーナ好きっていうのは恥ずかしさがこみ上げてきますが、やはり音楽はテクニックを超えたところにも何かあることは間違いないですね。
あの頃のギターキッヅ達はこぞってSmells Like Teen Spiritのリフを弾きながらカートコバーンになりきっておりましたものです。
ぼくもその一人だったことなんて知られたら恥ずかしくて死んでしまいます。
ああっ!!