残虐行為展覧会



J・G・バラード『残虐行為展覧会』(工作舎

社会における人類の残虐行為とエロス、テクノロジーを俯瞰し、その中からエッセンスを抽出し、人間社会の究極の法則を帰納的に導出しようという試みの書。J・F・K暗殺、ベトナム戦争、有名人の自動車事故、傷へのオブセッションとエロス、フェティシズムと狙撃のみで記述されるアメリカ史など、バラードは科学的に個別の事象を統計学的な手法で抽出し、帰納的に各事象を抽出し、その結果得られる因果関係を断片的に記述している。この抽出や歴史という壮大な実験観測の考察から、バラードはテクノロジーに対する人々の偏愛的な傾向を、商集合の扱いのようにグループ分けし、分類する。バラードは、オブセッションに囚われた人々を主人公に、ミクロ的な個々の行為もまた何らかの公式に沿っており、それは連続体のように人々に伝播するようになっていることを見出す(第11章では顕著である)。言い換えれば、社会システムが先に存在し、それが規定すると考えるのではなく、個別の要素があり、それらの関係が社会システム全体を規定すると考えている。つまりバラードは個別の要素(自動車事故、セックスなど)に注目し、その間にある関係の記述を形式的にとらえ、冷静に分析にすることに主眼を置いている。

マスコミ、特にカメラを通じた社会における各種の事件の報道や、テクノロジーの発展(自動車や飛行機、核爆弾など)は、社会を構成する要素である我々に影響を与えるものである。社会をシステムとして見出したときに、我々個々人もまた微々たるものではあるが社会に影響を及ぼすと考えるが、人数が多くなればなるほど社会環境から独立し、我々自体は影響を及ぼせなくなる。つまり半孤立的であるような中で、実はオブセッションという形態によって「残虐行為」「興奮」記述できる関係が存在している。その意味では伊藤計劃『虐殺機関』『ハーモニー』(ハヤカワ文庫JA)に先立つ形で、バラードは虐殺言語・セックス・フリークス化に対するある種の拡張ユニットとなる要素を抽出し、それらが人間行動を変革させる被説明変数として記述できる回帰的な関係、あるいは一般法則を見出そうとしている。 伊藤計劃的にいえば、「残虐行為」をコード化する何らかの刺激や関係の記述である。

そこでは、時空を超えて(ミンコフスキー空間で記述されているが、空間の歪みを係数(modulus)の変化と捉える。その歪みをもたらすものが、自傷した肉体の変化であったり、事故という聖痕からの生還者の身体・精神的な変化であったりする)展開される対象物と自分との間への対応関係が位相同形(homeomorphism)になることで、同一化への憧れを昇華していく。このテーマは、『クラッシュ』でも引き継がれていく。またバラードは人間がもつ「オブセッション」の力を評価し、その結果はある種の仙人的な超人への道であると考えている節がある。ある種のイニシエーションにより、「一般人」との乖離により「権利」を得た主人公たちは、自分の願望(want)から内的世界を通じたシステムの変革を望む。つまり主人公たち自体が媒介変数あるいは説明変数となり、システムを変化させる役割を果たす。この変革を通じて主人公たち自体が社会環境そのもの(被説明変数)となり、環境システムの一部となる。このフィードバックの過程こそが、バラード的なのだろうと感じる。

このたびバラードのテクノロジー三部作、『残虐行為展覧会』を読んでクリアになった部分も多い。ネットを通じた形で我々はバラードの世界を体感している。バラードの作品においては、「死の大学であったり、残虐行為を展覧できる会場」が出ていたが、まさにインターネットはその役割を果たしている。このインターネットの中に数多く存在するポルノ、自動車事故の犠牲者、戦争のむごたらしい犠牲者、四肢切断者の写真や動画など、我々を日々刺激する関係性が普遍的に入手できる状況になっているという意味では、テクノロジーのストレスにより、日々変革にさらされる環境にあるといえる。ネットを通じて我々はバラードが小説世界で予言した事象をそのまま無意識のうちに、実行してしまうのではないだろうか。入手が難しいのが残念(訳者は横山茂雄さん)。バラードと松岡正剛トークもナイスで、バラードの人柄が垣間見れます。

残虐行為展覧会

J・G・バラード『残虐行為展覧会』(工作舎

社会における人類の残虐行為とエロス、テクノロジーを俯瞰し、その中からエッセンスを抽出し、人間社会の究極の法則を帰納的に導出しようという試みの書。J・F・K暗殺、ベトナム戦争、有名人の自動車事故、傷へのオブセッションとエロス、フェティシズムと狙撃のみで記述されるアメリカ史など、バラードは科学的に個別の事象を統計学的な手法で抽出し、帰納的に各事象を抽出し、その結果得られる因果関係を断片的に記述している。この抽出や歴史という壮大な実験観測の考察から、バラードはテクノロジーに対する人々の偏愛的な傾向を、商集合の扱いのようにグループ分けし、分類する。バラードは、オブセッションに囚われた人々を主人公に、ミクロ的な個々の行為もまた何らかの公式に沿っており、それは連続体のように人々に伝播するようになっていることを見出す(第11章では顕著である)。言い換えれば、社会システムが先に存在し、それが規定すると考えるのではなく、個別の要素があり、それらの関係が社会システム全体を規定すると考えている。つまりバラードは個別の要素(自動車事故、セックスなど)に注目し、その間にある関係の記述を形式的にとらえ、冷静に分析にすることに主眼を置いている。

マスコミ、特にカメラを通じた社会における各種の事件の報道や、テクノロジーの発展(自動車や飛行機、核爆弾など)は、社会を構成する要素である我々に影響を与えるものである。社会をシステムとして見出したときに、我々個々人もまた微々たるものではあるが社会に影響を及ぼすと考えるが、人数が多くなればなるほど社会環境から独立し、我々自体は影響を及ぼせなくなる。つまり半孤立的であるような中で、実はオブセッションという形態によって「残虐行為」「興奮」記述できる関係が存在している。その意味では伊藤計劃『虐殺機関』『ハーモニー』(ハヤカワ文庫JA)に先立つ形で、バラードは虐殺言語・セックス・フリークス化に対するある種の拡張ユニットとなる要素を抽出し、それらが人間行動を変革させる被説明変数として記述できる回帰的な関係、あるいは一般法則を見出そうとしている。 伊藤計劃的にいえば、「残虐行為」をコード化する何らかの刺激や関係の記述である。

そこでは、時空を超えて(ミンコフスキー空間で記述されているが、空間の歪みを係数(modulus)の変化と捉える。その歪みをもたらすものが、自傷した肉体の変化であったり、事故という聖痕からの生還者の身体・精神的な変化であったりする)展開される対象物と自分との間への対応関係が位相同形(homeomorphism)になることで、同一化への憧れを昇華していく。このテーマは、『クラッシュ』でも引き継がれていく。またバラードは人間がもつ「オブセッション」の力を評価し、その結果はある種の仙人的な超人への道であると考えている節がある。ある種のイニシエーションにより、「一般人」との乖離により「権利」を得た主人公たちは、自分の願望(want)から内的世界を通じたシステムの変革を望む。つまり主人公たち自体が媒介変数あるいは説明変数となり、システムを変化させる役割を果たす。この変革を通じて主人公たち自体が社会環境そのもの(被説明変数)となり、環境システムの一部となる。このフィードバックの過程こそが、バラード的なのだろうと感じる。

このたびバラードのテクノロジー三部作、『残虐行為展覧会』を読んでクリアになった部分も多い。ネットを通じた形で我々はバラードの世界を体感している。バラードの作品においては、「死の大学であったり、残虐行為を展覧できる会場」が出ていたが、まさにインターネットはその役割を果たしている。このインターネットの中に数多く存在するポルノ、自動車事故の犠牲者、戦争のむごたらしい犠牲者、四肢切断者の写真や動画など、我々を日々刺激する関係性が普遍的に入手できる状況になっているという意味では、テクノロジーのストレスにより、日々変革にさらされる環境にあるといえる。ネットを通じて我々はバラードが小説世界で予言した事象をそのまま無意識のうちに、実行してしまうのではないだろうか。入手が難しいのが残念(訳者は横山茂雄さん)。バラードと松岡正剛トークもナイスで、バラードの人柄が垣間見れます。