ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

「クレヤボヤンス マイミクシィ」

小説 TRIPPER (トリッパー) 2005年 夏季号
創刊10周年記念の「小説トリッパー」2005年夏季号をめくってみると、朝日新人文学賞が発表になっていた。受賞作は楽月慎『陽だまりのブラジリアン』だが、落選した候補作のなかに、ちょびっと目立つタイトルがあった。

クレヤボヤンス マイミクシィ  佐東歩美


ミクシィとはもちろん、近頃流行りのあの“知り合い系サイト”。一方、クレヤボヤンスとは、透視、遠感知能力、千里眼などと訳される超能力を指す。今時のネット環境を超能力に喩えたあたりに、作品内に展開されるだろう批評性を期待するのか、たぶんタイトルのフレーズで批評性は尽きているのだろうと想像するのか、微妙である。まぁ、落選したんだから、当然、後者っぽいわけだけれど……。
気になるのは選評で、「クレヤボヤンス マイミクシィ」についてコメントする際、選考委員5名のうち3名までもが田中康夫を引き合いに出していること。以下、田中の名の出てくる部分だけ、乱暴に抜粋する。

  • 斎藤美奈子〔いまのところ素材負け。田中康夫くらいの顰蹙を買い、高橋源一郎くらいに目を白黒させてくれないと〕
  • 重松清〔虚構から現実へという物語の幼さは認めつつ、一方で固有名詞の出し方に意識的なたくらみを感じ、田中康夫氏の『なんとなく、クリスタル』をも想起したのだが〕
  • 高橋源一郎〔なにかがちょっと足りない。それを、一言でいうなら、批評的な目〕〔ぜひ、現長野県知事である田中康夫氏の大傑作『なんとなく、クリスタル』を読むことをお勧めします〕

(他2名の選考委員は阿部和重小川洋子
はて、「クレヤボヤンス マイミクシィ」って、いったいどんな小説なんだ?


ミクシィでは、メンバー個々のトップページに、“マイミクシィ=閉じた知り合いネット空間において相互に認証しあったお友だち”の一覧が、卒業アルバムみたいなレイアウトで表示される。そして、マイミクシィのうちの誰かが、認証した“この人”について紹介文を書くスペースが用意されている。
でも、紹介文以前に、まずマイミクシィたちの画像の並ぶ状態が、“この人”に関する注釈になっている面がある。マイミクシィの数が、友だちの多い少ないを推察させるだけではない。マイミクシィそれぞれが(自画像代わりに)アップしている画像のタイプや質によって、“この人”を取り巻くノリがなんとなく読める――と思わせるところがある。
さらに、並んだマイミクシィの画像をクリックして、その人のプロフィールや日記にまで飛べば、実際、“この人”がどんなノリの人とつながっているのか確認できる。つながっているマイミクシィたちのノリから、“この人”の性格を逆算することもできる――ような気がする。
“この人”とマイミクシィの関係は、本文と注釈の関係に似ている。つまり、ミクシィは、マイミクシィ同士が互いに互いの注釈として機能する空間なのだ。
――てなことを、「クレヤボヤンス マイミクシィ」の選評に登場した田中康夫の名から、勝手に連想してしまったですよ。
『なんとなく、クリスタル』では、作中のモノやことがらに膨大な注釈をつけることにより批評性を打ち出していた。そうすることで、モノやことがらが実質を失い、情報としてしか機能しない光景を描いていた。
これに対し、「クレヤボヤンス マイミクシィ」では、自分に関する注釈としての他人を必要とする“私”の今――みたいな批評性が、書かれようとしていたのではないか。その時、ネット画像の発揮する独特な力を「クレヤボヤンス」の比喩で表現し、東浩紀的用語でいえば人に関するイメージや情報を「過視的」にする空間としてミクシィを把握する。そんな企みの作品なのではないか。
――なぁんて、たったの1行も読んでない小説を相手に、批評めいた妄想を勝手にどんどん暴走させた自分なのでした。
それにしても、本当は、どんな小説なのかなぁ? ためしに作品をミクシィにアップしてみたら、意外に好評でした――なんて展開にならないかしら……。