ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

実写映画版『美女と野獣』、再び

先日、実写版『美女と野獣』を今度は吹替版で見た。その後、以前のアニメ版も見直した。雑感をメモ(※ネタバレ考慮しません)


王子が野獣にされる発端部分――アニメ版は絵物語になっているが、実写版はパーティが舞台。王子は醜い老女(=実は美しい魔女)を邪険にしたことで逆鱗に触れ、魔法にかけられるのだが、そのパーティには白人だけでなく黒人も参加していた。過去のフランスという設定だから東洋人は登場しないものの、人種差別はしませんという「ポリティカル・コレクトネス」に配慮したキャスティングである。だが、それによって「見た目で判断する浅はかさ」という物語本来の主題がぼやけたのではないか。“政治的正しさ”は全ての場面でではなく、物語全体として表現されればいいのではないか。


ガストンと取り巻き――ガストンと一番の子分であるル・フウの関係は、ホモソーシャルというだけでなく、ル・フウにはホモセクシュアルなニュアンスが与えられている。また、ガストンの取り巻きである三銃士は、終盤の城での戦いにおいて女装させられ辱められる。実写版『美女と野獣』はフェミニズム的な正しさ、マッチョイズムへの批判をアニメ版以上に強めたが、それを表現するためにホモ、女装で笑いをとるのは政治的に正しいのか。ちょっと引っかかった。


バラの扱い――アニメ版のモーリスは、城に無断で侵入したことで野獣の怒りを買う設定だった。これに対し、実写版の彼は、ベルから頼まれていたバラを城の庭から盗んだとして監禁される。ボーモン夫人版『美女と野獣』にあった本来の設定を復活させているのだ。しかも、自分にかけられた魔法がバラと結びついているゆえに、野獣=王子はバラの扱いに過敏になるという理屈づけもされている。よいリアレンジだと思った。


誰が野獣か――ベルはガストンに対し野獣はあなたのほうだという一方、終盤で野獣自身が私は野獣ではないという。また、実写版ではガストンがモーリスを死に追いやろうとする場面が追加され、アニメ版以上に邪悪に描かれている。さらに、ミュージカル版の野獣は読み書きを習得できていない設定だったが、ここでの野獣はシェイクスピアのセリフも諳んじる教養人。やりたいことはわかるが、野獣の“野獣”性が薄められる脚色である。このキャラクターが原典(ヴィルヌーヴ夫人版)で有していた本来の寓意(醜く知性もない存在が、その心根だけで愛されることは可能か)から遠ざかっている。
また、アニメ版のガストンは、ベルが読書するのをよいこととは考えておらず本をすぐ汚したのに対し、実写版のガストンはベルの読書を馬鹿にしない。ガストンはより邪悪にされると同時に、悪さが弱められ村では愛される存在であることがいっそう強調されている。その意味では、彼のキャラクターが曖昧になっている。


城の雪――アニメ版では野獣の城も村も同じ気候の変化にさらされる。だが、実写版では、魔法にかけられた城周辺だけに雪が降り、冬になっている。これは、『アナ雪』のエルサの孤独な心が雪というメタファーで表現されたことを受け継いでいる。


朝の場面――アニメ版ではベルは羊たちとともに本を読むが、実写版ではベルが少女に本の読み方を教えており、そんなことは女には必要ないと村人からいわれる。ベルは読書する間、馬に綱で引っ張らせた樽が水上で回転する“自動洗濯機”で洗濯をさせている。近くでは他の女たちが、自分の手で洗っているというのに。これは、姉たちは遊んでいるがベルだけは真面目に家事をするというヴィルヌーヴ夫人版、ボーモン夫人版のシンデレラ風&良妻賢母的価値観のキャラクター造形とはまるで違っている。そんなベルの現代的な合理性は、フェミニズム的な価値観とつながっている。


ベル――ガストンのプロポーズを断ったベルが見晴らしのいい丘へ行き、保守的な村では得られない自由への憧れを歌う場面。なんとなく『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアのようだと感じた。映される風景の質が似ているからだが、それだけではない。修道院という保守的な場所から外へ出て、規律だらけだったトラップ家のこわばりをほぐすマリア。そんな彼女に、保守的な村人から変わり者扱いされつつも自由を求める、現代的なベルの源流をみる思いがするからだ。