京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その2)

京都大学の中で話題になっている「国際高等教育院」構想について、特にこの構想へ反対する側の議論を批判的に検討することを念頭に、今回は、いわゆる総長メールに添付された参考資料1から参考資料4について、その内容を把握し検討してみようと思う。また、総人・人環有志がこれらの参考資料に対して行ったコメントの内容についても検討したい。

参考資料1の内容概観

京都大学の学士課程における教養・共通教育の理念について」と題されたこの文章は、教養・共通教育に関する理念的整理を試みた2節および3節と、そのための具体的な方策について言及している4節が特徴的であると考える。

《教養とは何か》という問題

 具体的な記述を見てみる。まず2節で、「教養」というものに対するさしあたっての定義が述べられている。まず2つの大枠が示されている。

教養教育(liberal education)は、「もともと『人間が人間らしく在る』とは何かに思いを致し、人間固有の価値や尊厳について理念的に掘り下げるとともに、それらを実践的に高揚・促進する心の姿勢ないし態度(humanistic attitude)を涵養するのを、本来の目的としてきた教育」とされる。そして、「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」といえよう。

「教養とは、個人が社会とかかわり、経験を積み、体系的な知識や知恵を獲得する過程で身に付ける、ものの見方、考え方、価値観の総体ということができる。教養は、人類の歴史の中で、それぞれの文化的な背景を色濃く反映させながら積み重ねられ、後世へと伝えられてきた。人には、その成長段階ごとに身に付けなければならない教養がある。それらを、社会での様々な経験、自己との対話等を通じて一つ一つ身に付け、それぞれの内面に自分の生きる座標軸、すなわち行動の基準とそれを支える価値観を構築していかなければならない。教養は、知的な側面のみならず、規範意識と倫理性、感性と美意識、主体的に行動する力、バランス感覚、体力や精神力などを含めた総体的な概念としてとらえるべきものである。」

これ以外にも、次のような記述がある。

  • 人間を人間たらしめているロゴス(言語、思考)に関わる訓練であり、知識欲、ものに気づき探求へと向かう能力や共感する力を涵養することにある
  • 教養・共通教育の重要性が再認識されるに至った背景には、学問研究の高度化・精緻化に伴い、専門教育の細分化が進展する一方で、環境や生命をはじめ、現代社会が直面する重要な課題が、より複合的で深刻な価値観の対立を含むものになって来ている状況がある。このような課題に対応するためには、多様な専門分野間での共同が必要であり、異なる価値観や視点の共存を図るとともに、現在の世代だけではなく、将来の世代に対する配慮をも欠くことができない。
  • 我が国や国際社会において指導的な役割を果たす人材を輩出していくためには、自らが専攻する分野について高度な専門的知識・能力を確実に修得させるとともに、共時的にも通時的にも多元的な視点で考察することができる知識や能力を身につけさせることを通じて、開かれた知的姿勢をもって、自ら課題を設定し探求していく創造的な能力を育成していく必要がある。もちろん、各人が専攻する分野における専門的知識・能力の修得が、これからも大学教育の最も重要な目的であることは言うまでもない。しかし、これからの社会において、そうした専門的知識・能力が十全に発揮されていくためには、自らの専門性を全体の中に的確に位置づけるとともに、異なる分野や異なる見方・考え方と対話し、多元的な視点で考察する能力が益々重要になるであろう。
  • 本学の卒業生は、研究者あるいは高度専門職業人として、様々な領域で知識基盤型社会を牽引していくことが期待されるだけではなく、健全な良識と深い人間的洞察力、そして高い責任感・倫理感をもって、自由で公正な民主社会の担い手となることも求められている。それゆえ、そのために必要な基本的知識・資質を身につけさせることも求められる。この点、青年期後期にある学生の人間形成の観点からは、「未知なるもの」あるいは「自分とは異なるもの」と接触し対話を図ることによって、より広い世界の中で、自己とは何かを考え、自らの現在の位置を見極めると同時に、新たな自己の可能性を切り拓いていくことが、重要であると考えられる。こうした経験を積み重ねることにより、異なる考え方や価値観を有する人々との共生を図りつつ、社会における自らの役割と責任を自覚し、より高い次元において自己を実現していくことが可能となる。

これだけ書いてあれば十分であろうと感じる。もちろん、単なる美辞麗句を並べただけだとの批判は可能であるが、それだけでは建設的ではないと考える。もしここに述べられていることに本質的な異論があるというのであれば、まずそのことを明示して議論するべきであろう。このような文章がある以上、賛成側が「教養とは何かを提示していない」などという批判はあたらない。また反対する側がもしこのような記述に異論があるのならば、これに応答する形で「教養とはなにか」ということについて述べるべきだと考える。

次に、3節では、まず、4年あるいは6年一貫の学士教育の中で、教養・共通教育をどのように位置づけるかが、各学部において十分に検討されていない、あるいは明確化されていないことを指摘した上で、そのような明確化のための指針となるべき考え方について議論している。その中では、

検討すべき問題は、教養・共通教育の目的・理念に照らして、より具体的に、どのような内容の科目を提供することが適切であり、どのような教育方法を用いることが効果的か、また各科目をどのような観点から体系的に編成し、学生に対してどのような履修を求めるかといった点にある。

と述べ、代表的な3つの考え方の利点と欠点・改善点などについて分析する形をとっている。

《多様性への警鐘》

特に、第2の考え方についての議論が大切なので引用しておこう。

様々な領域から多種多様な授業科目を提供し、その中から学生が自由に履修を選択し学ぶことによって、自ずから教養が身に付くとする考え方がある。これは、教養・共通教育の目的として、主体的・自発的に学ぶ意欲・態度の育成を重視し、授業をそのような主体的・自発的な学びの契機と位置づけるものであり、学生の多様な知的関心を触発するためには、できるだけ多様な科目の展開が望ましいと考えるものである。

この考え方は、「国際高等教育院」構想に反対している側が、現在の共通教養教育の利点として再三強調している点である。しかしこの参考資料1の中で、このような考え方に対する危機感は明確に表明されているといってよい。もちろん危機感の表明は考え方の否定ではないことに注意しつつ、参考資料1でどのような観点が述べられているのか拾ってみよう。

まず第一に科目数の多さが、学問領域に十分な見通しを持っていない学生にとって、選択の困難さを助長しているのではないかという指摘がある。

こうした「『自由な学風』に根ざした教育は、必然的に、学生個々人の学術研究、勉学への強い興味、意欲を前提としている。しかし、自主的・積極的な勉学意欲が常にすべての学生に自然に備わっているわけではない。課題探求への主体的な意欲をより一層惹起するために、それを可能にする学習環境をカリキュラムと結びつけて構築することが必要である」。また、学生は、入学時点において、必ずしも各学問領域について、それなりの見通しをもっているわけではないことから、約800科目・2500コマを超える授業の中から、自らの判断で体系的な履修計画を立てることが困難になっており、選択の自由を拡大するために、多くの選択肢を提供した結果、却って有意義な選択を困難にする状況を招いているといってよい。

 第二に、「楽勝科目」の増大に拍車をかけているのではないかという指摘がある。

さらに、教養・共通教育に対する学生の目的意識を欠いた受動的でお座なりな態度の増長により、定期試験の難易度を基準として、いわゆる楽勝科目に履修が集中する傾向などの問題を顕在化させている。

 第三に、高校における学習内容の削減により、早い段階から専門基礎科目を重点的に履修させねばならない事情から、教養・共通科目にかかる時間数が減少し、その履修において、体系性への考慮が弱まっているのではないかという指摘がある。

これは、学生の意識や履修態度の問題だけではなく、カリキュラム上の問題に起因する面があることも否定できない。高校段階における科目履修の多様化と学習内容の削減等により、かつては高校段階で習得していた知識を、大学入学後において習得させる必要性も高まっている。特に、理系学部においては、初年次より相当数の専門基礎科目が必修とされ、他の教養・共通科目を履修することができる時間が著しく限定される状況になっている。このことが、自らの興味・関心とは別に、また体系性をなんら考慮することなく、A群又はB群科目を履修するという風潮に拍車をかけている。

こうした問題点の指摘になんら具体的な応答をすることなく、ただ「自由の学風」や「多様な科目群」だけを称揚するだけであってはならないと考える。反対する側にはそうした問題点に対して積極的に応答しようという気配が残念ながら見受けられない。

なお、第3の考え方について「副専攻」制度について議論している。副専攻制そのものを本格的に行おうとすると、専門科目の単位数を圧迫する可能性があることが指摘され、そのためには教養・共通教育のみならず、学士課程・大学院全体に関わる見直しが必要になると述べている。これについては各学部の検討を待ちつつ、その一方で、「副専攻制」の考え方を次のように活かせないかと提案している。

現在の教養・共通教育の基本的な枠組みを前提としながらも、例えば、各学問領域や一定のテーマについて科目群を設定し、一定の観点から個々の授業科目を体系的に位置付けて、学生にはこのような複数の科目群から一定の単位数の授業科目を履修することが可能となる仕組みを構築することが有用ではないか。

《具体的方策について》

4節は「具体的方策」と題され、2節・3節で述べてきた理念的な議論を、より具体的な教養・共通教育の設計において実現するための方策について述べている。

(1)では科目群の設定と履修方法について述べられている。

 学生が一定の目的を持って体系的な科目履修を行わない場合には、様々な分野の雑多な知識を断片的に習得することになり、ある学問領域等について、それなりにまとまった知識や見方・考え方を身につけるには至らず、また他方で、論理的思考力や表現力等の能力を十分に身につけることもできないままに終わってしまうことになる。

という懸念が表明されたのち、

こうした状況に陥ることなく、教養・共通教育の本来の目的を実現するためには、各授業科目の内容・方法だけではなく、授業科目相互の連携を重視し、教育課程全体における各授業科目の目的あるいは役割を明確にしたうえで、そうした授業科目を一定の方針にしたがって体系的に履修することにより、全体として期待される学習成果・到達目標を実現することが可能な教育課程の編成を行うことが重要であると考えられる。

と述べ、教養・共通教育の中に一定の「科目群」を設定することを提案している。その中では、ある学問領域あるいはテーマについて、「基礎的な知識や基本的な見方・考え方の習得」という観点から科目群を設定しつつ、「論理的思考能力や表現力などの一般的な能力の習得」に関わる科目をその中に適正に配当されることが望ましい、と述べている。

 次に、科目履修の方法として、

1.各学部が指定した科目群の中から、定められた単位数の授業科目を必ず選択し、履修することを求める方法
2.学生が自由に選択した科目群の中から、定められた単位数の授業科目を選択し、履修することを求める方法
3.履修モデルを設定し、科目群から一定の単位数の授業科目を選択し履修することを推奨するに止め、それにとらわれない履修をも認める方法

という3つの方法を掲げ、これらを組み合わせるなどの多様な方法が考えられるとしつつ、3節で述べたような学生の状況から、「履修モデルの設定は必要であろう」と結論している。

 (2)では、「初年次における履修環境の整備─科目履修の順次性と科目区分の整理─」と題して、教養・共通教育、専門基礎科目、専門科目の順次性を取り上げている。
 問題意識は次のように表明されている。大学入学時の習得内容に変化が生じているため、十分専門的な教育を行うためには、早い段階で専門基礎科目としてケアしなければならに状況が生まれており、それによって教養・共通教育の履修が圧迫されているということである。

現在の初年次教育を見た場合、既に触れたように、高校における履修状況の多様化と教育内容の削減等によって、これまで専門教育において前提とされていた知識・能力を未だ習得していない学生が増えてきていることから、専門基礎教育として、これらの学習を行わせる必要性が生じてきている。その結果、とりわけ、理系の学部を中心に、これらの専門基礎教育を行う授業科目が、必修科目あるいは選択必修科目として、初年次に多数配当されており、これが、教養・共通科目を体系的に履修させるために必要な授業時間割の可塑性を失わせる要因となっている。

理系における積み上げ式の専門教育に理解を示しつつ、「専門教育の充実とともに、教養・共通教育の充実もまた、学士課程教育にとって重要であり、そのためには、人文科学、社会科学、自然科学の枠を超えて、それぞれが専攻する学問分野以外の授業科目を適切に履修させることが望ましい」とした上で、次のように述べて検討を促している。

今後、高校の教育課程及び科目履修の状況を踏まえて、どのような授業科目を専門基礎科目として開講する必要があるか、またどのような順次性で専門科目と接続していくことが適切かについて検討を行ったうえで、初年次とりわけ前期において教養・共通科目の履修を円滑に行うことができるよう、専門基礎科目の配当をできる限り控える等の制度的な工夫を講ずることが必要である。 なお、これに関連して、専門基礎教育によって教養・共通教育が置き換えられていくことを防ぐために、専門基礎科目を全学共通科目として位置づけるか、あるいは専門科目として位置づけるかなど、科目の区分を適切に整理して、バランスのとれた教育課程を編成することが必要である。

 (3)では「ポケットゼミ」科目について触れられている。教員・学生両者の満足度は高いものの、教員の負担が大きいことが指摘され、正規科目に格上げする方向が望ましいが、現状では困難もあることが述べられている。

 (4)では外国語教育が取り上げられている。
まず、学士課程の外国語学習の目的について

1.各学問領域の専門書を原語で精読することで、テキストを正確に理解し、論理的に思考する能力を訓練すること
2.グローバル化が進展する中で、国際的な情報の発受信を行い、様々な人々とコミュニケーションを行うための基礎となる語学力を高めること
3.言語は思考・文化の結晶であることから、母国語と異なる言語を学ぶことによって、異なる見方・考え方あるいは価値観を学び、多文化理解を図ること

という3つの例を挙げる一方、

学士課程教育を構造化し、その中における教養・共通教育の意義・目的を明確化していく際には、外国語教育についても、いかなる目的のために、どのような内容の教育を、どの段階で、いかなる方法で実施するかを検討する必要がある。
という問題意識を表明している。

そのための考え方として次のような点が挙げられている。

  • 各学問領域の専門書を英語や他の原語で精読することによって専門的能力を高める教育は専門科目において行われることが適切であり、また、その導入となる専門基礎教育としての英語教育については、各学部が「文学部英語」、「科学英語(医学)」などの専門英語を全学共通科目として提供する方向が適切である。
  • それ以外の教養・共通教育としての英語についても、大学教育においてふさわしい内容の教育という意味において、「一般学術目的の英語」という位置づけを維持することが、今後も適切であろう。
  • しかし、第一に、どのような書物・文献が、上述の教養・共通教育の基本理念に照らして、本学の学術的教養としてふさわしいかについては、今後、さらに検討を行う必要があろう。また、第二に、グローバル化の進展の中で、様々な分野で指導的な役割を果たす人材は、人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。そこで、「一般学術目的の英語」においては、ディスカッションやライティングなどの、言語技能的な側面をより重視する教育を行う方向性で検討する必要がある。この際、大学の限られた授業時間でバランスある外国語学習を行うには本来的に無理があることから、学生による能動的な自学自習を促し、授業科目と補完しあう教育へと質的な転換を図ることが必要である。

 この後「初習外国語教育」についても、その目的を明確化するべく検討が必要であることも述べられている。

 (5)では、「科目履修における規律の確保と成績評価の在り方」と題されており、冒頭から、次のような危機感の表明を行っている。

 これまで本学は、自由の学風あるいは自学自習を重視する観点から、できる限り、学生の自主性を尊重した科目履修を可能とするように努めてきた。それは、学生が高い学習意欲と明確な目的意識を持って、科目履修において自己規律を行うことに期待をしてきたということでもある。 しかし、近年、安易な科目履修の態度を示す学生が顕著になり、それを放置することによって、教養・共通教育における学生の学習意欲・目的意識をより一層損なうとともに、教育課程の編成や教育内容・方法に悪影響を及ぼすことが懸念される事態になっているといわざるを得ない。自由な精神をもって学問と向かい合い、自ら主体的に学ぶということと、学問あるいは学びに対して真摯な姿勢を求めるということは、本来、両立するだけでなく、後者は前者を可能にするための前提条件でもある。それゆえ、教養・共通教育の早い段階において、学問あるいは学びに対して真摯な姿勢を身につけさせるために必要な規律を行うことは、その後の専門教育を含め、本学の自由な学風が大きな学問的実りをもたらすために必要であると考えられる。

その上で、「単位制度の実質化」を図る必要性を指摘し、次のような項目を挙げている。

  • 単位制度の実質化とは、授業時間外に準備学習や発展学習を行う自学自習の時間を十分に確保することを目指すものであり、学生が自学自習を行う動機づけを行うとともに、学びの方法を学ぶ時間として授業を適切に位置づけるということである。
  • 各学期における履修登録の上限についても適切な在り方が検討される必要がある。
  • 本学の自由の学風を今後も維持するためには、自学自習の動機づけを図ると言っても、いわゆる詰め込み式の課題を出すことによって、準備学習や発展学習を強制するのは適切ではない。あくまで授業を契機として、学生が自らの興味・関心を広げ、意欲的に自学自習を行うことが重要なのであり、そのために適切な課題の設定や必要な学習方法のアドバイス、あるいはその成果を示す場の確保など、授業の在り方やシラバスの内容の改善について検討を行うことが求められる。その際、学生にとって指針となる「京大生のための100冊」、あるいは「見る1000冊、読む100冊、身につける10冊」といった書籍の選定、「自学自習のために必要な学ぶ技法」に関するテキストの開発、さらには、わからない問題を、わからないからといって敬遠するのではなく、わからないことを抱え込み、それを多角的に見ることを大切にする姿勢を学ぶために有用と思われる課題の開発といった作業が組織的に行われる必要がある。

その上で「成績評価」の基準づくりの必要性について述べている。

 このようにして学生の科目履修の規律を確保する工夫を行った場合には、そのような学習に対する意欲を高め、またその成果を適正に評価するために、成績評価の在り方についても検討を加え、適切な改善を行う必要がある。教養・共通教育の目標及び期待される学習成果・到達目標を明確化し、それを基礎とする成績評価基準を策定したうえで、その周知・徹底を図るなどの工夫が必要であろう。成績評価が過度に厳し過ぎたり、緩やか過ぎる科目が顕著である場合には、学生の履修が特定の科目に集中したり、また逆に履修者が著しく少ない科目が多数生まれたりするほか、学生が不必要に多くの科目を履修登録するなど、教育課程の編成の上でも、また授業の内容・方法の上でも問題を生じさせ、学生の学習意欲・目的意識を低下させることになる。

参考資料1に対する反対側のコメントについて

 私は、参考資料1の中で、教養・共通教育に関する様々な考え方の比較検討や、具体的な問題意識、それに対する一定の方向性の提案などがなされていると考える。そうであるにも関わらず、「総人・人環有志によるコメント」では、それらに対する実質的な応答はないと言ってよいと思う。具体的に検討してみよう。

メンバーに、全学共通教育の主たる担当部局の人間・環境学研究科長を入れずに行われた検討作業である。本来この種の検討は、共通教育について2003年に設置された全学組織である「高等教育研究開発推進機構」で行われるべきものである。

冒頭から手続きや組織論である。検討する組織が変わったとして、上記の報告書にある内容的な部分がどう変化するのかはっきりしなければ、そのような批判は、あまり建設的ではないと考える。
 次に内容的な指摘がようやく現れる。

この報告には、機構が10年にわたって行ってきた共通教育改善の経緯を参照したと思しき箇所が見当たらない。

どのような経緯やどのような改善の試みがなされてきたのであろうか。もう少し読み進めてみよう。

総じて、各学部が4年乃至は6年一貫の学士教育課程について、教養・共通教育も含めた全体の過程に主体的に向き合うことを相互確認した上で、教養・共通教育の改善の方策を議論した報告であるが、専門科目についての課題は当然検討の範囲に入っていない。そこで登場する問題点は、教養・共通教育の科目編成に係わる問題もあるが、各学部の学生への教科選択のガイダンスの密度の過疎によっているものが散見する。

 繰り返すが、参考資料1では、教養・共通教育に関する問題意識から始めて、改善のための提案などを幅広く報告している。その中には、専門教育や専門基礎教育との関係についてもコメントがあった。にも関わらず、「専門科目についての課題は当然検討の範囲に入っていない」のように議論の趣旨を把握しきれていないのではないかと疑わせる記述や、「教養・共通教育の科目編成に係わる問題もあるが、各学部の学生への教科選択のガイダンスの密度の過疎によっているものが散見する。」というような具体性を伴わない記述しか見られない。

 自分たちの取り組みについて次に述べられているのだが、これは、参考資料1で述べられている問題意識そのものとは合致しないばかりか、むしろ逆のことを言っているのではないかとさえ思えてならないものである。

この検討会に加わっていない人間・環境学研究科・総合人間学部(5学系からなる)では、すでに、学部4年一貫の学士課程教育の設計を、以下の方策で10年来試みていたことをここで確認しておこう。すなわち、
1.副専攻制度によって、主題がなく拡散しやすい教養教育と専門科目履修を結合し、専攻主題の複合化を図る(学生の希望による)
2.共通教育科目を専門科目に算入する改善
3.各学系毎に、共通教育科目と専門科目の履修モデルの提示
4.学部学生用に単位なしの自由課題の少人数ゼミ(学部専用)の提供
5.初年次のクラス担任制度による履修相談
6.2回生以のアドバイザー制度(学生の希望する教員でゼミ履修教員以外も可能)
というものである。これらの方策は、参考資料2が冒頭で挙げている教養・共通教育の改善策の4課題に当たるもので、総合人間学部ではこれらの改善にすでに取り組んでいる。それらに共通する根本理念は、全学共通科目と専門科目を厳密に区別せずに4年一貫で連結して履修指導することである。また、「検討会」が課題として取り上げながら、検討できなかった「副専攻制度」を総合人間学部は創設時から実施している。同学部卒業生が体現する自由で個性と幅のある教養に対しては、社会的評価が高い。

 この文章の中には、教養・共通教育と専門科目との関係について、参考資料1で述べられていることと、逆とは言わないまでもかなり方向性の異なる見解が表明されているように見える。

  • 「副専攻制度によって、主題がなく拡散しやすい教養教育と専門科目履修を結合し、専攻主題の複合化を測る」
  • 「共通教育科目を専門科目に参入する」
  • 「全学共通科目と専門科目を厳密に区別せずに4年一貫で連結して履修指導する」

などというのは、そもそも参考資料1が述べていた「専門基礎科目」の「低学年化」が「教養・共通科目」の履修を圧迫しているという問題意識とは逆になってしまっている。そして「専門基礎科目」を教養・共通教育に配置することは抑制的に考えるべきだという方向性とも乖離している。

 そもそも教養・共通教育は、「学問研究の高度化・精緻化に伴い、専門教育の細分化が進展する一方で、環境や生命をはじめ、現代社会が直面する重要な課題が、より複合的で深刻な価値観の対立を含むものになって来ている状況」の中で、「自らの専門性を全体の中に的確に位置づけるとともに、異なる分野や異なる見方・考え方と対話し、多元的な視点で考察する能力」を身につけてもらうことにあると述べられていた。「各人が専攻する分野における専門的知識・能力の修得が、これからも大学教育の最も重要な目的であることは言うまでもない」と断った上でである。教養・共通教育は、もちろん専門教育の位置づけの把握や専門教育を見る視点を広げることもあるだろうが、さしあたっては、専門教育とは独立した、あるいは専門教育をうける以前の、人間形成に関わる教育だと位置づけられているのである。「専攻主題の複合化」や「専門科目への参入」や「専門科目と厳密に区別しない」とか「連結して履修指導」とか、そういった把握の仕方は、参考資料1で述べられている方向性とは明らかに乖離している。
 もちろんこの点に異論があるのなら、まずそのことから述べ始めるべきだろう。

 あえて言うなら「主題がなく拡散しやすい教養教育」などという文言は、そもそも「教養教育を提供する部局としては、天に唾するようなものではなかろうか。「社会的評価が高い」も根拠が不明だといわざるを得ない。

教養教育の改善について、 「総合人間学部」がむしろ先行していると述べたいのであろうが、既にこの時点で問題意識に乖離が生じているし、自分たちが提供している全学共通科目に対して、参考資料1の中で指摘された様々な懸念や危機感、問題意識などについての回答が全くないというのも理解に苦しむ。

参考資料2の内容概観

参考資料2は、「学士課程における教養・共通教育検討会検討報告書」である。この参考資料2では、参考資料1よりもさらに踏み込んで、教養・共通教育の科目編成に関して提言している。I節で、「教養・共通教育の基礎となる科目について」と題し、入学後早い段階で学生に自覚を促し、自主的な学習の精神や手法を体得させるための科目を3つの観点で提案している。中心的な節はII節とIII節で、「教養・共通教育における科目群に関する考え方について」と題されており、人文・社会学、自然科学、学際の4つの科目群について述べ、III節で語学科目について述べられている。

《科目群の設定と階層化》

まず大枠として次の2つの点が述べられている。ひとつは科目間の連携、そうしてもうひとつは、体系化と履修モデルであろう。

  • とりわけ初年次の学生は、必ずしも各学問領域について十分な見通しをもっていないことから、自らの判断で体系的な履修計画を立てることが困難な状況に置かれている。また、学問領域の概要を把握し、基本的な見方・考え方を学び、同時に思考力・表現力を身に付け、人格の陶冶を図るなど、教養・共通教育に期待される教育目標のすべてを、半期2単位を標準とする各授業科目において達成することは困難であるため、教養・共通教育全体の中で各授業科目の目標を明確にしたうえで、それらを有機的に関連付けることが必要である。
  • 現在の教養・共通教育の基本的な枠組みを前提としつつも、既存の各学問領域や、例えば「生命」、「心と意識」、「都市と生活」など、学問領域を横断する一定のテーマについて科目群を設定し、それぞれの領域における基本的な見方・考え方を習得できるように各授業科目を体系的に位置付け、学生が、このような複数の科目群から一定の単位数の授業科目を履修する仕組みを構築することが適切である。その際には、各科目群の中において、基礎的な知識や基本的な見方・考え方の習得を図る授業科目を中心として、論理的思考能力あるいは表現力等の習得を重視する授業科目や専門科目とはいえないまでも発展的な内容の習得を目指す科目なども、適正に配置される必要がある

その上で、まず人文・社会科学系科目を次のようにグループ化することが提案されている。ここでも、少なくとも人文・社会科学系科目における「教養・共通教育」は「専門予備教育」ではないことが明示されていることに注意したい。

教養・共通教育は、専門予備教育ではなく、専門教育の土壌となるproto-disciplineを提示するものであることから、教養・共通教育の目標に照らして、全体のバランスを図る形で科目群の編成を行う必要がある。 以上の観点から、人文・社会学系科目群については、以下のようにすることが考えられる。 ( )内は主な関連学問領域
「真・善・美と人間形成」(哲学、西洋哲学史、日本思想史、東洋思想史、倫理学、宗教学、美学、芸術学、教育学)
「歴史と文化」(歴史学日本史学西洋史学、東洋史学、考古学、西南アジア史学、 南アジア史学、東南アジア史学)
「文学と言葉」(言語学、文学、日本文学、中国文学、西洋文学、西洋古典学、東洋古典学)
「人間の行動と社会」(心理学、社会学、地理学、人類学、教育学)
「法と政治」(法学、政治学
「経済と社会」(経済理論(近代経済学)、経済理論(社会経済学)、現代経済事情、経済史、経営学
なお、各科目群の設定は排他的なものでないことから、例えば、「歴史と文化」「法と政治」「経済と社会」などを横断する形で、「国際社会の歴史と現状」といった科目群ないし履修コースを更に設定することも考えられる。

その上で、各グループに配置される授業科目を3つの階層に区分するとしている。

第1階層は、各科目群を学ぶことの意義や各科目群に関わる見方・考え方の基礎を習得することを目的とするものである。この第1階層においては、当該科目群の全体を俯瞰するとともに、当該領域への学生の知的関心を高めることが求められることから、第1階層の授業科目については、授業内容・方法に関して格別の工夫が求められるとともに、その担当者の選定に当たっても十分な配慮が必要である。
第2階層は、各科目群に関する基本的な内容及び思考・表現の方法を学ぶことを目的とするものである。
第3階層は、各科目群に関する応用的・発展的な内容を学ぶことを目的とする科目であり、主として、3年次以降において履修することが想定される。

その上で各階層で提供される科目数の目安について

教養・共通教育の目標に鑑みると、専門領域に特化した科目を多数展開するよりも、できる限り基本的な内容を取り扱う科目を精選し、同一科目について多数のクラスを設けることが適切であると考える。

と説明し、具体的な科目数の目安を提示している。

 自然科学系科目については、まず編成の基本的な方針として、

自然科学系科目群の設定に当たっては、研究の流行を反映したトピックス的なものではなく、通時的な価値観の変化にも耐えうるような基本的、基盤的なテーマを設定し、長い学問的営為から自然に生じた分野により科目群を編成する。すなわち、基本科目群は「数学、物理学、地球科学、化学、生物学、情報」の6科目群で、6科目群のいずれにも分類できない科目については適切な科目群を設定する。

と踏み込んだ上で、階層化のポイントとして、

自然科学系の階層は、人文・社会学系の階層と同様、第1階層、第2階層、第3階層からなるが、自然科学系科目は「積上げ」を基本としており、自然科学系教養人に求められる基本知識体系と一般的教養人が学ぶべき知識体系には相違があるため、人文・社会学系科目群の階層とは違った考え方をする。大きな相違点は、第2階層を自然科学系教養人としての「積上げ」の最下層として明確に位置付ける点である。
第1階層は、文理いずれも受講可能なレベルの自然科学の一般的な教養・啓蒙科目からなり、文系対象の科目、文理融合的視点が有効な科目、高校未履修者のための科目はこの層に属する。
第2階層は、自然科学を基礎とする諸分野に共通した基盤的、基礎的科目から構成される。特定の学問分野を専攻するための科目ではなく、1・2回生を対象とした自然科学を学んで行くための必要最低限の知識・スキルとなる科目である。
第3階層は、より専門に分化した専門基礎科目からなり、単一学部のみを対象としている科目及び学部から全学に提供されている専門基礎科目はこの層に属する。

と述べている。さらに、「人文・社会学系科目群と同様に、できる限り基本的な内容を取り扱う科目を精選し、同一科目について多数のクラスを設けることが適切であると考える」とした上で科目数の目安について記述している。

 次に学際科目について 報告書では、学際科目の重要性について指摘しつつ、

学際的な分野について、これを単独の授業科目として開講すると、当該科目の教育課程全体における位置付けが必ずしも明確ではなく、また、リレー形式で授業担当が行われ、個別のトピックが組み合わされただけの内容になってしまうと、学問領域間の関係を考えるに至らないどころか、そもそも各学問分野の内容すら理解できないおそれもある。 それゆえ、学際的な科目を提供する場合には、現代社会の抱える包括的課題や新しい研究分野等の中から、京都大学における教育にふさわしい一定のテーマを精選し、学際的な科目群を設定した上で、授業科目を適切に編成して、学生に履修をさせることが望ましいと考えられる。 どのような科目群が適切かは、今後の検討が必要であるが、例えば、「生命」、「心と意識」、「都市と生活」、「科学史・科学哲学」などが考えられ、人文学系、社会科学系、自然科学系の教員が共通のテーマの下に集まり、リレー講義やワークショップ形式の講義を行うことも考えられる。

というように、学際科目が単なる個別の寄せ集めとなることに懸念を表明し、いくつかの具体的な科目の提案をおこなっている。

《語学科目》

  報告書のIII節はすべて語学教育にあてられている。そのうちおよそ3/4が英語教育に関するものである。

 まず、英語学習の目的について、

  • 「学術研究に資する」英語力の涵養を本学の英語教育に係る理念・目的の中心に据えて、大学の英語科目としてふさわしい内容とレベルを考慮しながら、学術的教養の涵養と学術的言語技能を養う
  • 英語I(1回生対象)においては、一般学術目的の英語という視点から、リーディングとライティングの基礎的技能を養成し、更に英語?(2回生以上対象)において、学術論文の読解や執筆に必要な技能、リスニングを中心とした高度な学術的言語技能、ゼミ、講義、学会等で求められる発表や質疑応答などのオーラル・プレゼンテーション技能、国外の大学院に進学する場合の各種試験をも想定した読解力・聴解力などの総合的な技能を養成すること

というこれまでの議論の結果を妥当と評価している。
 その上で、次のような問題点を指摘する。

  • 各教員の見識と関心を尊重すると指摘するのみであり、特段の方向性を示していない
  • どのような教材、素材、指導法が、本学の教養・共通教育の基本理念に照らしてふさわしいかについては、全学的な見地からも検討を行う必要がある。
  • 担当教員相互が切磋琢磨して教育の質を向上させるためにも、科目としての具体的な到達目標や水準を明確に設定する必要があるし、教材選定を含む具体的な方法論に関しても全体的な検討をしておく必要がある。
  • 本学における英語教育の主たる目標が、学術研究に資する英語であることは「新カリキュラム報告」が指摘するとおりであるが、プレゼンテーションやディベートといった場面でのより実践的な英語力に対するニーズが、社会的にも、また、学生の側からも指摘されているところである。今後、このようなニーズの更なる高まりが予想されるところであり、このような点にも配慮して教育内容の充実を図る必要がある。

これらに加えて、より具体的に英語I、英語IIの教育内容について踏み込んだ指摘を行っている。

 まず英語Iに関して、

  • クラス指定制度がとられている一方で、教材、素材、指導法が、各教員の裁量に委ねられている状況において、学生に選択肢が一切ないこと、成績評価の在り方に基準がない点については、速やかに改善が求められる
  • 英語?の教材、素材、指導法が、各教員の裁量にほぼ全面的に委ねられている現状のままでは、統一的な評価基準を設けることは極めて困難であるし、仮にそのような基準の設定が可能になったとしても、授業内容が個々別々で教員ごとに異なっている限り、クラス指定のもつ問題を解消するものとはなり得ないだろう。
  • 教材、素材、指導法のいずれについてもある程度共通化したうえで、ガイドライン(標準的なモデル)を作成し、成績評価の基準を設定するような方途が検討されるべきである。
  • 教材の選定については、1講義あたり1ページや2ページ程度ずつ進めるような熟読型の教材を使用するのではなく、広く教養の全般に関わる総合的な読解力や速読能力を身に付けるなど、基礎的・基本的技能の向上の効果を期待できるような教材を用いるべきである
  • 英語?を担当する専任教員が中心となって、教育方法や教育内容の具体的なモデルやマニュアルを作成し、授業を担当する非常勤講師等も含め、英語?のすべての科目を通じて一定の水準と内容が提供・維持されるようにすべきである。そのうえで、公平な成績評価が実施される必要がある。

という具体的な問題点が列挙された上で、

1.英語Iの教材としては、1)西洋知識人の教養の基盤を形成している古典や名著の現代英語訳(聖書やギリシア神話など)、2)人文学、社会科学、自然科学の諸分野の基本的・総合的な入門書、3)現代の問題を優れた英語で論述した論説文や評論文、これら3つのジャンルに絞って、教材を選定する。
 また、1講義あたり1ページや2ページ程度ずつ進めるような熟読型の教材を使用するのではなく、広く教養の全般に関わる総合的な読解力や速読能力を身に付けるなど、基礎的・基本的技能の向上の効果を期待できるような教材を用いるとともに、1)の教材を用いる場合は、古文やスラングが多用されているものは対象とすべきではなく、現代英語訳されたものに限定すべきである。 なお、原文による古典を教材とした科目については、学生のニーズに応じて受講することが適切であり、英語?において、あるいは異文化理解科目として、A群科目との関連の中で開設することが考えられる。
2.専任教員を中心に、教材、教育内容、教育方法に関する具体的なモデルやマニュアル(ガイドライン)を作成し、全体の授業計画を立案し、更に成績評価の基準などについても一定の決定権をもつ「責任ある実施体制」を整備する。
3.シラバスを整備し、科目ごとの授業計画、授業内容、教材名、成績評価の方法を統一して記載するようにし、学生に対してその科目としての意味(教員の個人的な意図ではなく)を明示的に示すようにする。

というかなり具体的で踏み込んだ提案がなされている。

 次に英語IIについては、

  • グローバル化の進展の中で、様々な分野で指導的な役割を果たす人材には、人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。このため、「一般学術目的の英語」においては、実践的な英語運用能力を高める教育を行うことが必要であり、そのための科目を増加させることが喫緊の課題である。
  • このため、特に英語?において、「新カリキュラム報告」が示すとおり、「学術論文の読解や執筆に必要な技能、リスニングを中心とした高度な学術的言語技能、ゼミ、講義、学会等で求められる発表や質疑応答などのオーラル・プレゼンテーション技能、国外の大学院に進学する場合の各種試験をも想定した読解力・聴解力などの総合的な技能を養成する」という観点から、どのような内容の科目を提供することが適切であり、どのような教育方法を用いることが効果的かを改めて検討し、適切な科目を充実していくべきである。
  • それら実践的な科目の充実に加えて、学生による能動的な自学自習を促し、授業科目を補完するような各種の教育プログラムの導入、あるいは採用が必要である。

という問題点が指摘された上で、

1.英語IIにおいては、上記のような実践的な英語運用能力やコミュニケーション能力を高めるという点をより一層重視し、そのために必要かつ適切な科目を充実させる。
2. 実践的な英語運用能力やコミュニケーション能力を高めるための方策として、1回生から選択可能なCALLシステム科目を設ける、各学部・学科において留学生をTAとして雇用してネイティブ英語による会話やプレゼンテーション等を行う機会を増加させる、外国人教師を招いて講義内容を全て英語で実施する国際コースを設けるなど、CALL 教材、外国人教師、留学生を活用した効果的な取組について検討することが必要である。
3.また、特に高度の素養と学習意欲を有する者等を対象として、現在2回生以上を対象としている英語IIの科目を1回生時に受講できるようなカリキュラム編成や上級のコースの設定、国際交流センターで実施されているKUINEPの活用、さらには、学外の優れた語学教育のプログラムを自学自習の対象として学習成果を評価する仕組みの構築など、素養や意欲ある学生の能力を伸ばし、実践的な言語技能を高めるための方策を、総合的に検討・実施していくことが必要である。
4.これらを実施するために、必要な教員の確保や施設の整備、及び英語教育の責任ある実施を可能とする組織的・制度的仕組みについて更に検討を進める必要がある。

という具体的な提案がなされている。

 また専門科目との接続について、次のように指摘している。

各学問領域の専門書を英語や他の原語で精読することによって専門的能力を高める教育は専門科目において行われることが適切であり、また、その導入となる専門基礎教育としての英語教育については、各学部が「文学部英語」、「科学英語(医学)」、「経済英語」などの専門英語を全学共通科目として提供する方向が適切である。

 残りの1/4の中で、初習外国語教育については、その必要性について強調する一方で、

  • 限られた時間での初修外国語教育の効果を考えたとき、そこで獲得された知識が多文化理解に十分活かされているとは言えない場合もあることから、それぞれの学士課程教育の中において、多文化理解を目的とするA群科目を初修外国語と関連付けたり、あるいは、それに代えるなどの方策も考え得る
  • 初修外国語の入門レベルでは、従来のように、文学研究者あるいは言語学者として学位を取得した(又は相当の能力をもつ)教員を配置することは必ずしも必要ではなく、当該言語における語学教育の経験と能力を備えていれば、外国人を含め幅広い人材の登用が望ましい。

といった踏み込んだ提言を行っている。

参考資料2に対する反対側のコメントについて

 この参考資料2では、科目群の編成の方向性について、グループ化や階層化という仕組みの導入にとどまらず、その内容や在り方について、かなり踏み込んだ内容の報告がなされていることが目を引く。これらの内容について疑義や異論があるのであれば、そのことを表明し、説明するべきだし、参考資料2はそのための非常に重要な文書であると私は考える。しかもこの参考資料2には、付録として、人文・社会学系科目群と自然科学系科目群のそれぞれについて、グループ化と階層化の2つの軸で具体的にどのような内容にし、どのような科目を設定するかという例示が具体的に示されている。
人文・社会科学系はこのpdfである。
自然科学系はこのpdfである。
これらは反対側が作成しているページの「学内資料一覧」では取り上げられてさえいない。
そして、「総人・人環有志によるコメント」では、主として外国語教育に関する部分だけを取り上げている。これはまったく理解に苦しむと言わざるを得ない。

 少し記述を拾ってみる。

総じて、教養・共通教育を構成する諸分野の科目編成の改善に対する提言である。第III部の外国語教育、特に英語教育に対するコメントが特別に紙幅を占める。そこでは、「『学術研究に資する英語教育』京都大学における英語新カリキュラム」(2006年1月京都大学大学院人間・環境学研究科英語部会、京都大学高等教育研究開発推進機)に対抗して実践的な英語力(発表・議論能力)育成のニーズを強調して、初年次英語の履修を語学能力の獲得に単純化し、次年次英語の履修を、専門によって、語学として履修するか、或いは教養科目として履修するかを各学部が決定することを提言している。この種の技術的な英語教育の扱いについては、後掲の参考資料3の高等教育研究開発推進機構第3回全学共通教育システム検討小委員会(2011年5月26日)でも、関係部局の教員に様々な意見があることは確認できても、意見の統一をみていない。学内の統一見解とはなっていない。

英語以外の科目に関することと英語科目などに関することの比率はせいぜい1:1だ。特別に多いなどというのはあまり適切な比較とは思えない。また「対抗して」というような表現からは、報告書が「新カリキュラム」と対立関係にあるかのように錯覚させるような印象操作が行われているように見える。この報告書では、「新カリキュラム」で提示された目標については肯定していたはずである。また、「統一見解」ではないことはわかっても、どのような相違があるのかについて、参考資料3を読まなければ分からないなど不親切な記述になっている。おそらく参考資料3の次のような記述

外国語教育については、英語部会はリーディング/ライティングを中心とする学術目的の英語教育を重視しているが、学生はオーラル・コミュニケーション等のより実践的能力の向上も求めており、学生の希望と科目提供の間に齟齬があるのではないかとの指摘がある一方、大学は海外旅行に必要な程度の英会話を教える場ではないとの意見も出された。また今や「地球語」ともいわれる英語の能力の向上を第一義とするべきとの意見も出される一方、英語以外の外国語を教養として学ぶことは多文化理解の観点からの意義があるとの指摘もあった。いずれにせよ、この問題は、求められる学士力の観点から各学部が検討する事項であり、学部は外国語教育の在り方を抜本的に再検討すべきである。「卒業単位だけのための外国語履修」といった無意味な履修行動を根絶するための対応は早急に行われるべきものである。

を意図しているのだろうが、参考資料3(10ページの資料)の中のわずか9行余りの箇所を探させるのではなく、端的に相違点を記述するなどの方法がなぜ取れないのか疑問である。しかもその反論は、「大学は海外旅行に必要な程度の英会話を教える場ではない」などという明らかに問題意識の低下した反論に過ぎない。
「人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。」という目標は、「海外旅行に必要な程度の英会話」とはレベルが違う。教養・共通教育では、速読・読解、あるいは発表や議論の能力などについても意識を向けるべきだと主張しているにすぎない。それは「海外旅行で必要な程度の英会話」とするのは、いささか一方的である。中身のある英文を速読し、英語で議論するという科目の重要性を指摘しているのだ。

 参考資料2の英語教育に関する部分は、「初年次英語の履修を語学能力の獲得に単純化」しているというのも一方的すぎる。「1)西洋知識人の教養の基盤を形成している古典や名著の現代英語訳(聖書やギリシア神話など)、2)人文学、社会科学、自然科学の諸分野の基本的・総合的な入門書、3)現代の問題を優れた英語で論述した論説文や評論文」のように、「広く教養の全般に関わる総合的な読解力や速読能力を身に付けるなど、基礎的・基本的技能の向上の効果を期待できるような教材を用いる」のである。これは単なる語学能力の獲得だけを目的としているわけではないし、そもそも「海外旅行に必要な程度の英会話」でもないし、ましてや駅前留学英会話学校で行われていることとも違うだろう。
次の記述に進む。

部局長らの外国語教育観は、初修外国語(英語以外の外国語)に対しさらに極端化し、「学位を得た文学研究者あるいは言語学研究者は外国語教育に必要なく、当該言語についての語学教育の経験と能力を備えていれば、外国人を始め幅広い人材の登用が望ましい」とまで結論している。本報告における、これら非母語言語科目履修に対する技術的に対応すればよいとする理解は、他の人文・社会学系科目群や自然科学系科目群の基礎的科目の階層的履修についても想定されているものだが、その細かなそして持続すべき議論こそ、共通教育を担当している主要部局を交え、全学組織である高等教育研究開発推進機構のなかで行われるべきものである。

というコメントも、どの箇所に憤りを持っているのかは理解できるが、内容的な反論にはなっていない。英語のように高校段階からの積み重ねがある科目と(言語構造などの点で英語との類似性がある言語もあるとはいえ)初習外国語とでは自ずから違いがあるのは当然であって、中学1年で英語をはじめて学ぶ際、学位を得た文学研究者あるいは言語学研究者を教師とするべきだというのが一般的な考え方であるとも思えない。もしそう考えるならもっとはっきりした根拠を述べるべきだ。反対なのはわかるが根拠は不明だとしか思えない。

また、「多文化理解を目的とするA群科目を初修外国語と関連付けたり、あるいは、それに代えるなどの方策」という報告書の文章からは、第二外国語を一からはじめて二年間やらせてもその言語を読み書きできるレベルに到達するのはなかなか難しいことを意識しているように見える。ドイツ語やフランス語を1回生・2回生で学ぶ人が多いだろうが、ではそれが英語と同じ程度まで読み書きできるようになるわけではない人がほとんどなのではないかという問題意識だ。むしろ他の人文・社会科学系科目の中で関連付けることも検討してみてはどうかという意図もうかがえる。そのこと自体は一考の余地はあると思う。これについてもう少し踏み込んだ議論はあとで私自身の意見を述べるときに付言したい。

「非母語言語科目履修に対する技術的に対応すればよいとする理解は、他の人文・社会学系科目群や自然科学系科目群の基礎的科目の階層的履修についても想定されているものだ」という文章も意図がわからない。そもそも「技術的に対応すればよい」というのがどういう意味なのかわからない。この報告書が提示している「階層的履修」は、「技術的に対応すればよい」ということを言っているようには見えないし、そもそも「非母語言語科目履修」と比較するのには無理があるとしか言いようがない。