『砂塵』(1939年)

entomolite2007-10-31

"Destry Rides Again" 監督ジョージ・マーシャル
面白い。
よく言われることだが、1939年というのはハリウッド映画史上異常な年で、『風と共に去りぬ』と『駅馬車』という記念碑的な作品が公開されただけでなく、佳作レヴェルの作品を挙げても、『スミス都へ行く』、『オズの魔法使い』『若き日のリンカーン』、『無法者の群』、『彼奴(きやつ)は顔役だ!』と枚挙に暇がない。『スミス』に続いてジェームズ・スチュワートが主役を張ったこの作品もこの年のハリウッドの圧倒的な生産力を見せつけるものだ。
まず冒頭の、荒くれ者たちの街ボトルネックの描写から圧倒される。この映画を通して終始聞こえてくるのは「イヤッホーーーー!!!」という叫び声で、街の荒くれ者たちもマレーネ・ディートリッヒもなぜか知らないがみなトチ狂ってしまったように叫んでいるのだ。
そして圧倒的な人間の数。この映画はほとんどが酒場で展開するのだが、そこにいる人間の密度が異常に高い。これが画面に並々ならぬ緊張感を与えている。
さらに乱闘の場面の異様な迫力。ディートリッヒと彼女がズボンを巻き上げたボリス(ミシャ・オウア)の妻(ユナ・マーケル)との取っ組み合いの女同士のケンカ、スチュワートに飛びかかり物を投げまくるディートリッヒ、そして最後の大団円となる酒場での善玉・悪玉・そしてその妻たちという三者が入り混じっての大乱闘は強烈なインパクトを残す。
さらに特筆すべきこととして、西部劇という比較的リジッドなジャンルにあって、この西部劇では外国人や女性が大きな役割を果たしていることだ。そもそもドイツ語なまりのディートリッヒが街の女ボスで酒場で歌を歌っているという設定(彼女のお世辞にもうまいと言えない歌は後にメル・ブルックスの『ブレージングサドル』でパロディの対象にされる)が変なのだが、それ以外にもロシア移民でカウボーイになりたがっているボリスも変だし、上に挙げた乱闘の場面にあるようになぜか女性が重要な場面で男たちを圧倒してしまうのも面白い。ボトルネックという西部の辺境の街が非常にコスモポリタンな空間に見えるから不思議だ。
しかしこの映画の最も重要なテーマは再来と革新だといえるだろう。酔いどれの負け犬であるがゆえに保安官に任命されたウォッシュは、かつての名保安官デストリーの息子トマス・ジェファーソン・デストリー(スチュワート)を保安官代理としてボトルネックに呼び寄せる("Destry will ride again!")。しかしこの保安官代理は、父親を背後から撃たれて殺されたという経験があるゆえに、銃の力を信じておらず、むしろ銃なしでこの街に法と秩序をもたらそうとする。「父」の再来の期待とその乗り越え。このテーマはサブプロットでも反復されており、ボリスは、その妻の前の夫の名前であるキャラハンと皆に呼ばれているのだが、第二の保安官代理として活躍することでボリスは自分の名前を回復する。あるいは最後でスチュワートに憧れてこの保安官代理の身振り手振りを模倣する少年。これは、そもそもアメリカという国家がヨーロッパという旧世界の遺産の相続とその乗り超えから出発したことと無縁でない。スチュワートは最後でアメリカという国家の理念を体現する存在としてあらわれる、ただしそれは最終的には銃を使い、手に余る他者であるディートリッヒの死という犠牲を払っての上のことなのだが。