There is no telling what becomes a cause. −日英同盟の義理付き合いがもたらした「日独の絆」


(鳴門市ドイツ館の外観)

 昨日(22日)、今日(23日)と、私用(というほどのものでもない野暮用)で徳島県にいました。せっかく徳島県に来たならば、せめて何か見所の1つも見ておこうと向かったのが、JR徳島駅から電車…ではなく列車で30分ほどの鳴門市板東駅です。

    
 (この電車で移動です、1車両の普通列車なのに、中にはトイレもありました。池内駅で鳴門方面からの列車との接続で10分待ちというのが、スローな感じでよかったです)

 板東駅に来た目当て、「お遍路さん」ではありません。確かにお遍路さんの一番札所の霊山寺は駅から10分ほどの場所にありましたが、私の目当てはさらにその先の、駅から20分ほど山の方へ歩いたところに残されている「板東俘虜収容所跡」ならびに「帰国の志半ばで日本で息絶えたドイツ人の方々の共同墓碑」です。

    
 (板東の収容所跡とドイツ人の共同墓碑です。墓碑に手を合わせます)
    
 (板東駅はお遍路さんの1番札所となる霊山寺(りょうぜんじ)があるので、こちらで有名な場所ですね)

 四国は徳島県のこの片田舎(というと失礼な表現ですが…)に、第一次世界大戦時、ドイツ人の収容所施設の一つがありました。「そもそもなぜドイツ人が日本の収容所に?」という疑問があるかもしれません。

 時期を遡り、オーストリアのフェルディナント皇太子がセルビア人青年に暗殺されたことが開戦の発端となった「第一次世界大戦」ですが(歴史の教科書に懐かしい、あの「サラエボ事件」です^^)、この第一次世界大戦にて日本は連合国側として参戦します(つまりドイツと敵対することになります。日本はイギリスと日英同盟を結んでいたので、イギリスから極東に展開するドイツ軍への攻撃の依頼を受けたわけです)。そこで中国の青島にいたドイツ軍を降伏させて、日本に移送しました。

 さて、この地における当時の歴史は、収容所跡地を少し山の方に行った場所にある「鳴門市ドイツ館」(冒頭の写真)に入ると、詳しい説明があります。
    
 (左:「鳴門市ドイツ館」は少々アクセスが不便ですが、行っただけの価値は十分にありました。/右:中では「音楽が繋いだ交流」について演劇もどきのちょっとした説明もあります)
    
 (左:ベートベン像、ここは「第九」が日本ではじめて演奏された地だそうです。もちろんドイツ人俘虜らの演奏とのことです。右:帰りに板東駅に戻ると、すっかり日も落ちてきました)

 この板東俘虜収容所における松江中佐の俘虜への接し方は、世界の収容所の中でも特に模範的とされています。日本は武士道の精神から、敵に降伏することは美とせず臆病者とされることがあります。一方で西洋では、敵に降伏することは人事を尽くしたあとの英断とみられるとのことです。私は昨日、この地に来るまでこの収容所の歴史を詳しく知らなかったのですが、松江中佐のドイツ人に対する対等な接し方、そして自主的活動を奨励し、自由を与え文化交流を促し、その経営にも創意工夫をしていたという同収容所の事実には少し驚きました。

 当時の地元民(呼び名「バンドー人」)とドイツ人(呼び名「ドイツさん」)の交流が、終戦とともにドイツ人が本国に帰国した後も、第二次世界大戦を跨ぎ、昭和の後半に再び始まります。今でも日本とドイツの友好を支えていることは、かつての私達の祖先の行為に感謝すべきことだと感じました。同時にここにも日本人の誇りの存在を感じます。

 また俘虜と地元民の交流を通じて、もちろん音楽の交流も注目すべきことですが、何よりもドイツの先端技術がこの地で伝わったことや、収容所の運営に様々な創意工夫がされたことにも興味を持ちました。交流、技術の伝播は何がきっかけになるか、わからないものです。

P.S.
 昨日、フェイスブックに写真を乗せると、「バルトの楽園」という映画になったとのことを教えてもらいました。私も観てみようと思います。
 お腹がすいたので、板東駅近くでご飯を食べようと思ったところ、もうこの時間はお店がどこも閉まっている。諦めて歩いていると、国道沿いにローソンを発見!入るや「からあげくん、徳島すだち味」を発見。「これも徳島名物」とばかり、徳島駅に戻るまでの繋ぎとして購入しました。徳島名物も、何がきっかけで発見するかわかりません(ちなみにこのあと徳島市に戻ってから、翌日にかけて色々と食べまくりなのですが…)。
 
 (ローソン前で猫が泣いていたので、1つおすそ分けしました^^)