シュ都参詣 後編

再びいまさら。完結編。



図録を購入した際にもらったポスター。マグリットの『秘密の分身』。


新鮮な気持ちで書くつもりでしたが、かなり冷静になってしまいました。


・[前編]   ・[中編]
よかったら合わせてお読みください。

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ナチスドイツがフランスに攻め入り前衛が弾圧されると、シュルレアリスト達は亡命する。



4 亡命中のシュルレアリスム 1939-1946


共鳴していたシュルレアリストが、それぞれの道を模索しはじめた、ように思える。
マッソンシュルレアリスム復帰作『アンドレ・ブルトンの肖像』はかなり具象的であるが、他4点の作品はやはりオートマティスム風だった。
その中に描かれる人体はピカソからの影響をうかがわせ、『?抵抗』と題された作品なんかはモロにキュビスムだ。
『雷雨の中のカエデ』『錯綜』『巫女』は、『抵抗』と違い、マッソン独特の荒々しさが見て取れる。
中でも『錯綜』では、具象が極限まで排除され、様々な激しい色の曲線がまさに錯綜している。
ジャクソン・ポロックの絵画『月の女が円を切る』も展示されていた。
ポロックはマッソンの影響が強いようだ。
というか、亡命してきたマッソンがアメリカ人ポロックに影響を与えたんだけどね。
ポロックのアクション・ペインティングと呼ばれる制作方法で描かれた作品は、先ほどの『錯綜』とかなり似通っている。
まあ、僕はあまり好きではない。
ピカビアの三点の絵画(『仔牛の崇拝』『仮面と鏡』『ブルドッグと女たち』)はどれもいやーな印象を受ける。
なんと言ったらいいだろう、嫌いではないが、まがまがしい・・・。
悪く言えば、低俗な印象だ(嫌いじゃないよ)。
『仔牛の崇拝』では多くのシュルレアリストと同じく、ミノタウロスに接近している。
『仮面と鏡』、白い線で描かれた奇妙な動物の顔の奥に、目を伏せる人がうっすら見える。
図録の解説にあるとおり、これは自分を描いているのだろうか。
ちなみにピカビア夫妻は亡命していない。
タンギーの『岩の窓のある宮殿』を見て衝撃を受けた。
あまりにも綺麗だったからだ。しかもデカイ。
『夏の四時に、希望・・・』では汚れ(言い方が悪くて失礼)で構成された平面だったのが、ここではかすれの無い丹念な塗りで一つの空間を作り上げている。
ここまでキレイだとは思っておらず、あっけにとられ見入ってしまった。
塗りもさることながら、形態の不可思議さも面白い。
岩と鉱石と玩具がより合わさったようなソレらには、ある種懐かしみ・親しみを感じる。
エルンストの彫刻を初めて見る。
ブロンズ『クイーンとともにゲームをするキング』は、山羊の角の生えた人物(プレイヤー)がチェスのコマを操る、という構図で、プレイヤーの抽象化された顔や細長い胴・腕、コマのシンプルかつ象徴的な形が、原始美術の様相を感じさせる。
この像、普通に正面から見るだけでは気付かないのだが、山羊頭のプレイヤーは背後にまわした手にコマを持っている。
イカサマをしているのかもしれない。
ヴィクトル・ブローネル『狼−テーブル』。
この四本の脚をもつテーブルは、同時に自分のしっぽに向かって吠える狼でもある。
テーブル部分は木製、そこに狼の頭部・尻尾・金玉袋のはく製を組み合わせてある。
その木製の脚は一本だけ動物の脚のように加工され、テーブルに生命を吹き込んでいるかのようだ。
もう一点、『パラディスト、あるいはパラディストの主題によるコンポジション』、非常に説明しにくい作品だ。
ただ言えるのは、いままでのどの作品も及ばぬ神秘性、信仰がにじみ出ているということだ。
背景に対して、あまりにも平面的な二人の人物はまるでエジプト絵画のようであるが、絡み合う蛇たちはまた別の様式を思わせる。
率直にいえば、”ブローネル独自”である(あたりまえだが)。
この平面と立体の対比、という作風は『マンドラゴラ』『アレクサンドリアのヘロン』の延長線上にあるのだろう。
台座に腰掛ける不自然な四肢の人物の左腕は、『空気の威信』に登場した人物と同じく、身体から切り離され浮いている。
ブローネルにとってその切り離された左腕のモチーフはなんだったのか。
偶然かもしらん(偶然性はシュルレアリスム上で重要であるにしても)。
他に...
顔面が女体になっているマグリット『凌辱』、
女性特有の素朴さを感じさせる、マリー・トワイヤン『早春』、 
ロバート・マザウェル『素朴なプロテスタント(胸像)』、アーシル・ゴーキー『風景−テーブル』、
アフリカ美術を感じさせる作風のヴィルヘルムド・ラム『自然の中の裸婦』『会合』、
小箱に、何かを詰めた小さな瓶をおさめたジョゼフ・コーネル『博物館』、
ラウル・ユバックマヌエル・アルバレス・ブラボインジヒ・ハイスラーらの写真作品が一点づつ展示されていた。

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数々の資料を抜けると、いよいよ終わり。




5 最後のきらめき 1946-1966


ここでまたもデュシャンの登場。
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』、通称『大ガラス』と呼ばれる作品に関する、様々なスケッチ、メモ書きなどがガラスケースに展示されえている。
中央には〈LA MARIEE MISE A NU PAR SES CELIBATAIRES MEME〉(彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも の意)と記された箱が置かれ、『大ガラス』の下部に描かれている『チョコレート粉砕機』の姿も見える。
実はこの資料たちも作品で、本来はその箱に、資料を忠実に複製したファクシミリが収められている。
タイトルは『大ガラス』と同じく『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』。
箱に貼られたスエードの色から、通称『グリーン・ボックス』。
ちなみにこの『グリーン・ボックス』は、パリで320部が刊行されていたらしい。
もう一点、小さな彫刻『ノット・ア・シュー』はデュシャン特有の、小馬鹿にするような、投げやりな印象を受ける。
直訳すると「靴では無い」といったような意味だろうが、そう言われれば靴っぽいような気もする。
言われなければ男性器を彷彿とさせるシンボリックな置物にしか見えない。
エルンストはリアリズムから離れ、自身が発見したフロッタージュ、グラッタージュと呼ばれる技法による作品へと移っていったよう。
『最後の森』『三本の糸杉』の二点はどちらも木がモチーフとなっている。
ロプロプの止まり木、というのは深読みか。
ここにもブロンズ作品(『愚かもの』)があり、シンプルな造形はやはり原始美術を思わせる。
エルンストの妻、ドロテア・タニングの作品『かくも幸福な絵画』もあった。
ヴェールに見え隠れする人体、不敵な笑みを浮かべる唇、が不気味だ。
風が吹き荒れる中に激しく舞うヴェールは、エルンストのグラッタージュを感じさせなくもない。
デルヴォーの絵画に登場する女性は、まるで吸い込まれるような眼差しをしている。
古代ギリシャの建築と、同じポーズの半裸の女性たち、といった要素は、神秘的であると同時になにか恐怖感を与えるようでもある。
デルヴォー作『アクロポリス』は、パッと見では分からないが、どうやら画面を二分割した構図らしい。
その左右の景色の対比によって、鑑賞者になにやら物語を想像させる。
マグリットのブロンズ『ダヴィッドのレカミエ夫人』、圧倒される作品だ。。
これは彼の同名絵画作品を忠実に立体化したもので、さらにはその絵画も、ジャック=ルイ・ダヴィッドの『レカミエ夫人』の忠実なパロディである。
ダヴィッドの作品で描かれている人物(レカミエ夫人)を、マグリットはそっくりそのまま棺桶にして描いている。
棺桶が、(ダヴィッドの描いた夫人と同じく)上半身を起こしポーズをとっていて、マグリット特有の静かなユーモアを感じられる作品である。
絵画・立体ともに、『ダヴィッドのレカミエ夫人』はユーモアよりも、気品と重苦しい雰囲気を強く感じる。
もう一作、絵画『ストロピア』は、今までのマグリットの作風からは想像もできないものだ。
あの丁寧な塗りは、ここではもう無い。
が、「キセル」というモチーフが、マグリットを主張している。
ブローネルの『傷ついた主体性のトーテム?』ではまだ立体感はあるものの、他の三点(『法悦』『育む女』『礎と頂き』)はまったく平面的である。
その画風からは、古代壁画やアフリカ美術を感じさせる。
謎めいている、あるいは儀式めいている、まあつまりはブローネルそのものだ。
『礎と頂き』からは強い生命力を、『育む女』からは無機質な・霊的なものを、『法悦』からは神話・信仰をひしひし感じる。
もちろん『傷ついた主体性のトーテム?』からも神秘性を感じ取れるが、それだけじゃなくブローネルの思想が強く反映されているだろう。
これらの作品を見た時、その画面から滲み出る何かに、しびれてしまった。大感激だった。
出る前にもう一度見たくらいだ。
『雌−鏡?』、初めてシモン・アンタイという画家を知ったが、かなり目を引く作品だな・・・。
カラフルな上に本物の骨も使われてるものね。
マルセル・ジャンは、『ホロスコープの娘』『眠りの番人たち』が展示されていた。
ホロスコープの娘』はトルソに地図のような図形が描かれていて、首には小さな時計がつけてある。
ジョアン・ミロの彫刻『女』もあって、奇妙な威厳と包容力を示していた。
最後は「アンフォルメルタシスム」のコーナーだった。
シモン・アンタイマッソンユディト・レーグルジョアン・ミロジャン・ドゥゴテクスマッタなどのオートマティスム
マッタはいくらか具象だったが、それでもあんまり好みではない。


この章で完全に、シュルレリスムの終焉を、身にしみるように感じた。
むかしむかしのことなのに。

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全体を通して、改めてシュルレアリスムの全貌を知るとともに、シュルレアリスムの(または作家それぞれの)ルーツや変化、行く末について知識を深めることができた。
シュルレアリストは偉大だが、今は昔の話である。
それでも、この先人たちに学ぶべきことは、まだまだ多く残っているだろう。




ブラーヴィ



購入したポストカード。上左からエルンスト『ユビュ皇帝』『視覚の内部』、ブローネル『法悦』、マグリット『夏の行進』。