2008-07-10 音楽的生気の色合いを細やかに描いたキタエンコの《革命》

- 品番:WME-S-CDR-1241
キタエンコの《革命》としては、CD-Rで2枚目のディスク。以前出ていたのは、NDR響を振った2004年の録音*1だ。前回、ゲルギエフ事件で書いたことだが、CD-Rでは、同じ録音がオーケストラや録音データを変えて「別物」としてリリースされることは少なくない。ところがなぜか、指揮者名を変えて出されることはほとんどない。商業録音ではむしろそのパターンが多いのだが、ヘタレ指揮者の演奏を有名指揮者の演奏と偽って出したほうが効率は良いような気がする。
ショスタコーヴィチのディスクで、そういった意味で気をつけなくてはならないのは、前科のあるところではチェリビダッケ、コンドラシン、ザンデルリンク、ヤンソンス、インバル、ゲルギエフ、
しかし、まあ、一部の店舗や通販で、細々と商売を続けていくのがCD-R業者の生業といえば生業なので、身の程をわきまえた行為といえなくもない。
そこでキタエンコ。実はこの2種、演奏時間が極めて近く、店頭チェックしたときから同一録音臭をムンムンと放っていた。しかも「Milan Rai Orchestra」などと怪しげなオケ名*2がついているのだ。無理もない。
下に、演奏時間のデータを示す。なお、参考までに正規録音のデータも示す。
- 第1楽章/16:29
- 第2楽章/05:28
- 第3楽章/15:47
- 第4楽章/11:06
- 第1楽章/16:34
- 第2楽章/05:33
- 第3楽章/15:23
- 第4楽章/11:01
- 第1楽章/13:39
- 第2楽章/04:59
- 第3楽章/12:09
- 第4楽章/10:24
- 第1楽章/16:32
- 第2楽章/05:38
- 第3楽章/14:26
- 第4楽章/11:36
それぞれの楽章の差を出すと、ミラノ放送管盤はNDR響盤と比べて第1楽章、第2楽章が-5秒、第3楽章が+24秒、第4楽章が+5秒。録音年月日が近いNDR響盤とケルン・ギュルツェニヒ盤も第1楽章が2秒、第2楽章が5秒と、極めて近いが、第3楽章は約1分、第4楽章も30秒と、大きく違う箇所もある。しかし、ミラノ放送管/NDR響は、全楽章トータルで19秒しか違わず、演奏時間の面からだけみると(購入前の判断基準はこれしかない)、これはもう同一録音と判断するしかないというわけである。
しかし、実際に演奏を聴いてみると意外や意外。これが、第1楽章冒頭から、全く違う内容だったのである。
それでは、各楽章の内容をみていこう。
冒頭の低弦は、しっかりと音符を弾き分けてはいるのだが、やや流され気味に推移する。音圧もそれほど出ておらず、適度に力が抜けているのがいい。低弦といっしょにカノンを構成する高音弦も急ぎがちで、低弦同様、32分音符のスタッカートの効果*3が効いていない。低弦も高音弦も、32分音符を装飾音的に扱っている。3小節目の32分音符のスラーはアンサンブルが乱れて、譜割りが曖昧になっている。
NDR響盤は、低弦も高音弦も、タイやスラーで繋がっている箇所も含めて、一つ一つの音符をカッチリと弾き分け、ミラノ放送管盤とは明らかにアーティキュレーションが異なる。32分音符は全く装飾音になっていない。低弦の音圧もNDR響盤の方が圧倒的だ。しかし、両者とも、第2楽章と第3楽章の間の低弦と高音弦のクレッシェンドに同じ特徴があり、同じ指揮者の演奏と言われて十分な説得力がある。
提示部は、第1主題、第2主題とも終始明るいトーンで推移する。低音は深刻にならず、高音は十分に歌う。柔軟な中間色調の美しさがものをいっている。
展開部も、気分的に柄の大きな表現で、豊かな響きと足取りをもった演奏だ。モスクワ・フィル盤の外的効果を狙っただけのデリカシーのかけらもない演奏とは大きな違いである。ケルン・ギュルツェニヒ盤では、スコアの色彩美をフルに発揮し、この演奏よりもさらにメリハリのある演奏となっている。とはいえ、253小節目の「ア・テンポ・コン・トゥッタ・フォルツァ」は極めて力強く演奏される。強調されたティンパニの足取りをバックに、トロンボーンは割れんばかりの音量と音色で聴き手を圧倒する。
ラテン的な楽天的さと、愉悦感に満ちた演奏だ。この楽章も、力づくで聴き手をねじ伏せようとするモスクワ・フィル盤とは大きな違いである。縦の線を重視し、トゲトゲしいフレージングでかっちりとした四角四面のリズム感覚よりも、時間的な横の流れに神経がそそがれている。金管や打楽器が、まるで客席に飛び出してくるようなバランスではなく、そのため、響きそれ自体が空虚に浮き上がることがない。絵画的説明的ではなく、極めて構成的にまとめ上げられいる。
また、音楽が少しもせつかず、ソロを受け持つ各パートをしっかりと弾かせ、表面に生起させているのがいい。
厳しさよりも、流麗さに気を配った演奏。ムラヴィンスキーはこの楽章のリハーサルの際、「この音楽が書かれた、あの厳しい時代のことを思い出して」というような趣旨の指示を出していたが、ここにはそのような厳しさはない。そのかわり、全体を実に自然な流動感のうちに纏め上げられた充実した音楽となっている。
とはいえ安穏退嬰、万事事なかれ主義の演奏かといえばそうではない。ダイナミックスは、下方向(弱音)へのレンジの広がりはないが、上方向(強音)へはかなり幅広くとられている。多くの指揮者が、弱音指定に惑わされ、デリカシーを意識しすぎて音楽の豊かさを失っているのとは正反対である。スコアをよく見てみると、ピアニッシモは少なく、多くの部分で最弱はピアノだ。しかも、ソロ(soloと書かれていなくても、結果的にソロになっている箇所も含めて)の音量はピアノが主で書かれている。
例えば、58小節目のラルガメンテのフォルテッシモへの盛り上がりは迫力十分だ。テンポも引き締まっていて、フレージングが弛緩してしまう箇所はない。これは、キタエンコというより、イタリアのこのオーケストラの特徴といえるだろうが、声楽的な流動性ともいえるしなやかさが、実に滑らかかつ自然に音楽のささやきを息づかせている。
主部(120小節目以降)も、雄弁さと意味深さが音楽にある。リズムの着実さには、目を見張るばかりだ。コーダの最後の頂点の高揚に向かって、内部から湧き出る気力に溢れている。キタエンコは、スコアそのものを大切にしながら、聴き手が音楽に期待するものを満たしている。
フィナーレは、キタエンコがこの盤の演奏でこれまでやってきたことの、集大成のような音楽だ。特に、各声部の透明度と響きの軽やかさ、アンサンブルとリズムが敏感を極めていること。加えて、音色のニュアンス、スマートで快適な音楽の運びがある。
キタエンコは、ロマン的なうねりを敢えて切り捨て、この楽章の古典的な枠組みを見極めたうえで、実にヒロイックで厳しい筆致の交響的な世界を描き出した。もちろんわざとらしい、表面的な演出は皆無で、指揮者が素朴に共感をこめて、音楽と向き合っているように感じられる。
楽章冒頭は、長いクレッシェンドがキタエンコの最近の演奏の特徴だ。スコア上、クレッシェンドはフォルテ(f)からフォルテシシモ(fff)までだが、この演奏ではメゾ・ピアノ(mp)あたりからスタートしている。極めてゆっくりとクレッシェンドしていき、その頂点でティンパニがレ-ラの四度を強打する。このティンパニの大胆な扱い方は、本盤の演奏に大きく目立つところである。続く金管の第1主題はトランペットよりもトロンボーンに重心が置かれ、独特のふくらみをもった響きを作り出している。導入部は、かなり力強く推移するが、十一小節目で第2主題が出て以降は、禁欲的な音楽となる。
弦は明確なフレーズの表情をつくり、ディテールがすり潰されるようなことがない。対位法的な動きのバランスのよさとあいまって、各声部が明晰に聴こえてくる。フレージングだけでなく、リズムの明快さも、そうしたディテールの処理が自然に生み出したものである。
提示部前半は、楽譜の指示どおりに、断続的にテンポを上げていくかどうか、指揮者によって大きく演奏が分かれるところだ。キタエンコは、8小節目からアッチェレランドして、11小節目で一度テンポが決まると、そのまま速度を維持していく。そのまま提示部を弾ききるのかと思っていると、トランペットのソロが出た箇所で、スコアの指示のとおりアラ・ブレーヴェにして、テンポを一気に上げる。このトランペットのソロは、伴奏の木管と高音弦の十六分音符に埋もれてしまうケースが多いが、明確に聴き取れる。94小節目からのトランペットとトロンボーンの付点四分音符+十六分三連は、音型と譜割りを遵守し、細かい音符を後方に詰め込まない。
展開部となる中間部は、やや遅めのテンポをほとんど動かすことなく、音楽を入念・克明に描き出す。明確な中高音の動きをささえる低音のたくましさに、キタエンコの音楽的な成熟が表されているといえる。交響曲全集*4でもみられる、彼の音楽のそうした特長は、モスクワ・フィルとの録音からは見出せない。あの頃のキタエンコには、もっと表面的な傾向が強かったのだ。それがいけないと気づいたのか、モスクワ・フィル時代からもう少し年代が下がったベルゲン・フィルの時代には、表層的な表現はなりを潜めていたものの、その音楽は、ただ面白くない演奏という印象にしかならなかった*5。
問題のコーダ(323小節目以降)は、NDR響盤同様に、バーンスタイン/プレヴィン式の速いテンポをとる。ロシア人の指揮者は遅いテンポで演奏しているという先入観があるが、速い演奏は割と多い*6。この演奏も、演奏時間で11分を超えているので、遅いテンポだろうと思っていると、驚かされるだろう。
《革命》交響曲が、ショスタコーヴィチをポピュラーな大作曲家に押し上げる役割を果たしてきた。この交響曲の存在意義を認めるにしろ認めないにしろ、常にショスタコーヴィチの音楽の背後に、旗印よろしく位置してきたことは事実だ。多くの音楽ファンは、とかくこの交響曲を、ショスタコーヴィチのいわば魂の告白と受け止めたがる。キタエンコが、自分で気づいているか否かにかかわらず、コーダの「速いテンポ」は、何よりも、そういった通俗的で俗受けのする典型的なショスタコーヴィチ像から、この交響曲を引き離そうとする意思の表れなのである。
そして終演直前、急ブレーキがかけられ、ティンパニとバス・ドラムの響きがこだまする。最終のユニゾンでスネアの響きを聴こえるように出しているのは、全集盤にもあるキタエンコの特徴だ。しかし、譜面上、タイで繋がっているシンバルの閃光をピリオド的に入れているのはこの演奏だけだ。キタエンコの指示なのか、打楽器奏者の判断なのかは分からないが、これはこれでアリだと思う。
終演後には、まだホール内に残響があるのにプロムスのような盛大な拍手が巻き起こる。そして、ややフライング気味の「ブラヴォー」は完全にイタリア訛り*7。イタリアで行われた演奏であることと矛盾しない。そういえば、カエターニ盤もこんな感じでブラヴォーと拍手があった。
NDR響盤には、そもそもこの単独の「ブラヴォー」はない。演奏終了後、やや遅れておもむろに拍手が始まり、会場内が盛りあってきたところではじめて「ブラヴォー」の大合唱が始まるのだ。編集で拍手を付け加えたような不自然さも全く感じられない。ミラノ放送管盤とNDR響盤の両者は、100%、異なった演奏である。
正規盤としてリリースするほどではないが、改めてミックスダウンし、マスタリングで音を整理し直したら、あるいはもっと聴ける録音になるかもしれない。
2008-06-28 ニコニコでお馴染み、ドゥダメルのショスタコーヴィチ第10がCD-Rに!

グスタボ・ドゥダメル指揮ベネズエラ・シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ
- レーベル:VIBRATO
- 品番:VLL302
グスタボ・ドゥダメルは、第1回グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールに優勝して以降、名を馳せてきた若手指揮者で、2010年からロサンジェルス・フィルの音楽監督に内定している。しかし、曰くアバドに認められた、曰くラトルが注目している、曰くバレンボイムが絶賛しているといったように、周りが騒いでいるだけで、指揮者として本当はどんなポテンシャルを備えている人物なのかはよく分からない。個人的には判断を保留している人だ。有体に言えば「金になる」タレント(本来の意味で)ということなのだろうか。黄色いレーベルさんの偏差値低い宣伝攻勢はなんとかして欲しい感じなのだけど、まあ提灯記事はオールスルーってことで。
そこで、このCD-R。上記のとおり、録音データは録音年しか記されておらず、CD-Rとしても極めて不親切なディスクといわざるをえないのだけれど、これは、2007年の8月18日にロイヤル・アルバート・ホールで行われたライヴ、つまりプロムスでの演奏だ。
なんでそんなことが分かったかというと、映像がニコニコ動画にアップされていたから(今は削除されている。また何週間かしたらアップされるかも)。「同じ演奏だったらお笑いだね」なんて思いながら買った一枚だったが、見事にそのとおりだったというつまらないオチ。前回のゲルギエフもそうだが、情報化社会とはいえ、狭い世界のこと、悪い予感というのはだいたい当たってしまう。
とはいえ、ニコニコ動画の粗悪な録音とは比べ物にならないクリアな音質で、演奏を鑑賞に堪えるものにしている。
■演奏について
極めて重厚な響きとゆったりとしたテンポで全体が統一され、ずいぶんと筋肉質な印象を受ける。「こういう演奏、どっかで聴いたなあ」と思って考えてみたら、チェクナヴォリアン指揮ナショナル・フィル(BMG TWCL-3014)の演奏が、これに近い音楽作りだったことを思い出した。26分34秒という演奏時間は、恐らく、この楽章のもっとも遅い演奏なのではないかと思う(他に遅いテンポの演奏として記憶にあるのは、キタエンコ盤の26分14秒、ラトル盤の26分23秒、ロストロポーヴィチ盤の25分31秒、ウィグレスウォース盤の25分52秒といった程度。ザンデルリンクのボストン響盤は演奏時間―27分07秒―の割りに遅さを感じない)。
とはいえ、ドゥダメルが重視しているのは、恐らく主要声部の旋律線の流れとテンポ感の融合だ。デュナーミクや陰影付け的な要素を持たない、ラテン的志向の典型的だ。つまり、和声的というよりも、水平的な音のつながりを感じさせる演奏である。しかし、構造的で全体的な音楽の構成感が失われていないので、スクロヴァチェフスキのベルリン=ドイツ響盤(WEITBLICK SSS0076)のような鈍重さを全く感じさせない。この楽章において、鈍重さは聴き手にとって最悪のストレスなのだ。
この楽章の演奏については、大きく2つのタイプがある。まずは、コントラスト、テーマの対比、激しさや張りを重視するタイプ。もう一つは、瞑想的な広がりや内に秘めた活力を軸として構成するタイプだ。前者は標題音楽的なアプローチともいえ、ドイツ系やロシア=ソヴィエト/東欧系の指揮者やオーケストラに多いタイプ、後者は純音楽的なタイプで、英語圏の指揮者やオーケストラ(英国のオーケストラは指揮者によって大きく変わる。チェクナヴォリアン盤は前者の、シップウェイのロイヤル・フィル盤は後者の典型)に多い。ドゥダメルのこの演奏は、どちらかといえば後者のタイプに属するが、テーマをやや前に出したスタイルとなっている。
次の楽章は、前楽章と打って変わって、演奏時間3分55秒で一気に突っ走る。第2楽章の演奏は、4分の壁を境に印象がガラリと大きく変わるが、この演奏は感覚的にもっと速いテンポの演奏に感じる。とはいえ、乾いた快速感ではなく、独特の粘り気と重量感のある演奏となっている。このユーモアと激しさの共存する音楽にとって、必要不可欠な要素であり、この楽章の中に含まれている活力が効果的に引き出されている。その辺りは、拡大された弦と金管群も含めて通常の倍という、このオケの編成的な特質によるものと思われる。
第3楽章は、前二楽章と比べると中庸・堅実な信頼性の高い演奏を作っている。その堂々とした構築の中には、現代的ともいえる鋭い感受性の閃きと手作り風の暖かい感触が同居している。ただ、デュナーミクの幅が小さく、とにかく聴かせどころだと思ったらメゾ・ピアノでもメゾ・フォルテでもフォルテやフォルテッシモでがなり立てるので、造形的な平衡間は強いのだが、ムラヴィンスキーやカラヤンの演奏と比べると、入念さに欠ける印象が最後まで拭えないのが惜しい。
とはいえ、8分25秒からのクライマックスのストレッタの巧みさは、私が聴いたもののうちで(少なくとも商業録音においては殆ど全て)、間違えなく最もエキサイティングかつドラマティックであり、抜きん出てトップクラスである。中には、ヤルヴィ盤のように、ストレッタを無視して全くテンポの変動しない解釈も成立するが、本来はこのように演奏すべき音楽である。
ドゥダメルは、ここでも旋律線をいささかも曖昧にせず、リズムとの有機的な融合を果たす。特に、執拗に繰り返されるDSCHのライトモチーフとホルンのコールサインの、自然で座りがよい響きからは、ドゥダメルの天才的とも言える直感を感じ取ることが出来る。
フィナーレは、前3楽章と比べるとさらに野暮ったさが消え、実に鮮やかな演奏となっている。それまでの演奏は、いわば翳りの部分のない立体感、つまり全てが凸状態で、凹の部分が存在しないかのような状態だったのが、ここにきて極めて明確に陰影が付けられた音楽となっているのだ。
それは、主調(ホ短調)のドミナント(属調)である、メランコリックなロ短調で始まる冒頭の低弦を聴いただけで気づくことが出来る。第1楽章のスタイルだと、思いっきり音を張って極めて高い音圧で響かせるところだが、旋律の抑揚を出来る限りえ、静寂さを保ちながらモルト・レガートで進めてていく(スラーは部分的にしか付いていない)。続いて、「ドルチェ(柔らかく)」と指示された8小節目からのオーボエのソロは、音量こそ大きめであるものの、そのニュアンスはドルチェそのものである。この楽章の前半部は、各楽器のソロが織物のように折り重なって展開していく。ムラヴィンスキーのエレガントな表情はまた別格だが、あくまでも伴奏の冴えた響きと一体になっているのは素晴らしい。
主部に入ってテンポがアップしてからも、変わらず各部に入念なニュアンス付けが施され、精緻な仕上げの見事さが際立つ。その雄渾な起伏から生まれる劇性は、音楽的にも充実している。さらに、一端静かになったところで音楽のムード沈みすぎず、清澄な感覚美に溢れているのがいい。濃艶ともいえる美しさは格別で、ドゥダメルはこのオーケストラの持てる能力をことごとく引き出した感じがある。
ファゴットのソロを経て音楽は再び活力を取り戻すが、各部の対照は相変わらず鮮烈で、音楽の輪郭はあくまでもクリア。オケのメンバの集中力の高さには驚かされる。手練れのプロオケならば、少しくらい集中力が切れてもテクニックでカバーできるが、まだ若い彼らにとっては、その瞬間瞬間が全力投球でなければ満足な結果は得られないだろう。しかも、このような外連(けれん)さが微塵もなく、大見得を切らないオーソドックスな表現でありながら、ここまで聴かせる演奏はなかなか出来るものではない。このディスクは、忌まわしきスターリン時代との決別を高らかに宣言したこの曲における、デモーニッシュなショスタコーヴィチ像が、鮮やかに浮かび上がった名演ということができるだろう。
2008-06-27 ゲルギエフのインチキ盤:ショスタコ交響曲『1905年』が酷い偽物!

CD-Rを集めているコレクタにとって、避けて通れないのが、パッケージ・クレジットのデータと中身が異なるディスクを掴まされることだ。中にはただ単に演奏者や録音データを誤記するだけでなく、スタジオ録音に会場ザワと拍手を追加し、ライヴに見せかけた「巧妙な」仕掛けをほどこしたものもある。もっとも、これはCD-Rやレコード産業に限った話ではなく、絵画や骨董の世界にも偽物や贋作は存在し、コレクタにとっては大きな悩みの種である。それでも絵画や骨董品の場合には、そのことをちゃんと見破る鑑定士がきちんと養成されていて、しかるべき調査を施せば、偽物か本物か判明する。ところがレコードの世界では、あまり確かな対策はとられておらず、気づいた人しか知らない、知ってる人しか知らないという有様である。
私も、ムラヴィンスキーやロジェストヴェンスキーなどの「贋作」をいくつか公にしたことがあるが。最近だと、チスチャーコフの交響曲第8番やイヴァノフの交響曲第15番がインチキCDだと気づいたのは、恐らく世界で一番早いグループに属すると思う。何しろ、入荷日に購入し、その日のうちにはもうインチキだと判っていた。しかし、それらはつい最近までショップの棚に並んでいたし(ひょっとすると今でも)、ムラヴィンスキーのディスクでは、今でも廉価盤になって売られている。まあ、チクる義務はないし(メーカにも他の客にも)、マクシム・ショスタコーヴィチの交響曲全集のように、報告しても、迷惑がられて無視されるだけなのでそのままにしてるけど。レコード業界なんて、所詮はそんなヤクザな世界なのである。
そこで、本日のお題と参りましょうか。今回とりあげるのは、以下のCD−R。
ところで、ゲルギエフの交響曲第11番には、PMFでのライヴ録音があって、PMFのサポート会員限定版のCDが出ている。そのデータを以下に示す。
そこで、当然、聴き比べようということになるわけだが、実は音を出す前から死亡フラグが立ちまくっていた。その最大の要因は演奏時間。以下に各ディスクの演奏時間を示すので比べてみてほしい。
- 第1楽章/14:02
- 第2楽章/17:29
- 第3楽章/10:51
- 第4楽章/13:15
- 第1楽章/14:06
- 第2楽章/17:34
- 第3楽章/10:53
- 第4楽章/14:07
第1楽章はキーロフ盤が-4秒、第2楽章は同-5秒、第3楽章は同-2秒。第4楽章は拍手でかなり誤差が出るため、パッケージ・クレジットで見た場合比較は無意味なので、3つの楽章をトータルすると、キーロフ盤が-11秒という結果となる(ちなみにキーロフ盤は実際の演奏時間、PMF盤は拍手を含めた演奏時間で表示されている)。つまり、42分で11秒しかズレていないこととなるが、各楽章の誤差の少なさも驚異的だ。両者の演奏時間がこれだけ近接していると、同一の録音である可能性が高くなる。実測ではパッケージ・クレジットと大きな違いが現れるが、両者の誤差はほぼ0〜1秒の間で(LPの時には同一の演奏でも何秒かのズレは生じていた。デジタルでも、ほんの少しの誤差は出てくる)、全く同一の演奏であることが分かる。
■演奏について
総勢110名を超えるかなり大きな編成で演奏されているが、冒頭から、最近のこの指揮者の特徴である、堅固な音楽と着実なイン・テンポで演奏され、全体に弾力的なリズムと流麗な歌謡性、交響的な広がりが雰囲気よく漂っている。特に第2楽章や終楽章は、かつてのように勢いに任せて猪突猛進に進めてしまうようなことがない。あらゆる素材に対して綿密な配慮を見せ、テンポやダイナミクスに対する客観的かつロマン的な解釈は、スコアそのものや、これまでの演奏習慣を超えたところで、十分に生かされている。特に驚かされるのは第3楽章で、「これがあのゲルギエフの演奏なのか」と思えるほど旋律が余裕を持って歌い上げられている。
第2楽章後半部や終楽章でも、これまでのゲルギエフの演奏からは全く想像できない淡白な表現で、意外におとなしいというか、各部を明快にまとめて意足れりとしているところがあるようである。これらの楽章では、一般には近代的な機動性を極限まで発揮させるような演奏がかなりあるのに対して、まだプロ・デビューしていない、若手演奏家によるオーケストラなので抑えているのかもしれないが、正に「練習で言ったとおり」の枠内に収まった演奏である。中でも、これまでの演奏において随所で行われていたテンポの自由な変化、ロマンティックな構想を持ってかなり即興的に演奏を進めていくスタイルは影を潜めており、ハイティンクやアシュケナージの亜流のような印象も否めない。
PMFでは今年、《トゥランガリラ交響曲》が取り上げられるという。今でも、プロのオーケストラでさえも効果的に演奏するのがなかなか困難なレパートリだ。ここでの演奏も、PMFオーケストラの演奏は、息をつめたというほどではないし、誠実な反応とバランスの良い表現が快い。しかし、まだ形を整えることに意識が残っているようで、これをキーロフ歌劇場管の演奏と言われると、ちょっと待てよと言いたくなる。
■今回のケースの問題点
PMFは、ご存知のとおり、バーンスタインが提唱した、若手演奏家育成のためのプログラム。世界中から、オーディションを通してデビュー前の若手音楽家集められ、オーケストラを結成する。
当然、CD-Rなので権利云々の問題はあるのだが、それ以前に、アマチュア集団の演奏を、名のあるオーケストラの録音として販売するなんて、乱暴すぎやしないか。これまでのインチキ・ディスクは、同じ演奏者の別テイクか、名指揮者の演奏をマイナ指揮者の演奏として出すパターンがほとんどだった。本盤の演奏については上記のとおりだが、キーロフの名誉のためにも、最悪、オーケストラ名を間違えるなら間違えるで、「らしくない」演奏ではなく、「いかにも」な演奏でお願いしたいものだ。
ちなみに先日届いた、ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管による同レーベルの《バビ・ヤール》(Von-Z、S-1-275)は、パッケージ・クレジット通りの演奏の模様。
2008-02-01

本日は、ウェブ配信で聴いたメジャー・オケのライヴについて書こうと思います。
アンドレイ・ボレイコがニューヨーク・フィルを振ったライヴで、1月24日の演奏。
この日のプログラムは、ショスタコーヴィチの他に、イベールの管弦楽曲とラヴェルのピアノ協奏曲が。
ラヴェルでは、グリモーのピアノが聴けますが、今回はその日のメインであるショスタコーヴィチの交響曲第4番の演奏について。
まず、ボレイコといえば、シュトゥットガルト放送響との同曲盤が既にリリースされています(Hanssler Swr Music 93193)。当然、その演奏と比べてどうなのよということが気にかかってきますが、基本的解釈は変わっていません。ただ、製品盤の方がやはり音は整理されて聴きやすい印象があります。特にトゥッティでは解像度の悪さが目立ちます。一言でいえば、カラヤンが80年代に録音したブラームスの交響曲全集みたいな音質ですね。ただ、打楽器は少々抑え気味に聴こえたものの、ハープや木管のソロも良く聴こえ、マルチ的な録り方には好感が持てます。ミキシングし直せば、シュトゥットガルト放送響の録音よりも聴き応えはするでしょう。
第1楽章は今流行の速めのテンポできびきびと進めていくやり方がとられています。かといって軽快な感じかといえばそうでもなく、どちらかといえばコンドラシンというよりも、バーンスタインの壮年期の演奏を髣髴とさせるものがありますね。中間部のフーガの部分なんかはアンサンブルの乱れもお構いなしにぐいぐいとオケを引っ張っていっています。アインザッツが合わないのは、指揮が見難いためでしょうか。とにかく、あまり重苦しい背景を前面に出そうとはしていない印象を強く受けます。ロジェストヴェンスキーのようなデモーニッシュな演奏が好みの向きには、ちょっとばかり物足りなさが残るかもしれません。
第2楽章は、中庸のテンポで丁寧に各部を表現していきます。それにしても、この均整の取れた造形で全体がまとめられているのは、指揮者の優れた才能をよく物語っていると思います。きっとこの人は、この楽章が好きなんでしょうね。ただ、後半で一番盛り上がるところのホルンは、これ楽譜の指定どおり8本で吹いているのでしょうかね? チューバはぶ厚い音圧で2本で吹いていることが分かるのですが、ニューヨーク・フィルのホルンて本当にこんなに痩せた音なのかなぁ。
第3楽章も概ね良い演奏なのですが、ちょっと課題を多く残してしまった感じです。特に、細部の表情にさらに克明な処理が必要だと思いました。ロマンチックな味わいやセンチメンタルな感情の移入によって曲の形が崩れないように節度を守り、モダンなタッチで割りと爽やかに演奏しているのはいいんですが、特に中間部のジャジーで協奏的な部分でオーケストラと指揮者との間で解釈の不統一が目立ちすぎます。
厳しいことをいうようですが、オーケストラの造形の整理もいまいちですし、ファゴットやトロンボーン、シロフォンのソロには、さらなる自発性のある演奏姿勢を求めたいですね。オーケストラの合いの手もリズムが鈍重で、バーンスタインだったらもっと巧く処理したろうにと。弦にも思わず「ええー!」と驚いてしまうような乱れがあったりして、これはもう、練習時間の短さを呪うしかないですね。また、同じ音形が執拗に繰り返される最初のクライマックスで、いくつか落ちてしまったパートもあったようです。
ただ、後半部のコラールは素晴らしく練り上げられた壮大かつ重厚な演奏です。堂々としたスケールの大きな音楽で、大変感動的に仕上げられています。細かいことを言えば、1076小節目(59分40秒付近)はホルンがフォルテでヴァイオリンとヴィオラがフォルテッシモなので、もっと弦の響きを効かせた方がいいのではと思いましたが、実演ではもっとちゃんと聴こえるんでしょうね。1100小節目からは、トランペットが旋律の主導権を握って朗々と吹いているのがいいですね。四連符の処理もいうことなし。さらに1118小節目からと1132小節目からのホルンの恐怖のハイCもばっちり聴き取れます。
静かになってからは落ち着いた表情で端然と演奏していきます。暗くなりすぎず、節度ある中庸な色合いが好印象です。ハープとチェレスタの音も明瞭に聴き取れて、見通しの良い音楽に仕上げています。フライング・ブラボーもなくて、良いコンサートでした。
とにかく、今のニューヨーク・フィルでショスタコーヴィチの交響曲第4番の演奏が聴けるとは夢にも思いませんでしたね。いよいよショスタコーヴィチの時代が来たといってもいいのかな?
2007-12-28 ガッティの《春の祭典》とコルシアのバルトーク

ダニーレ・ガッティは、先日Harvest Classicsからショスタコーヴィチの交響曲第10番の演奏も出したが、今回はショスタコーヴィチ以外のネタで。
最近、フランスのオケの演奏を見直しているところなのだけど、そこで目に留まったのがこのディスク。
- 3.ブーレーズ:ノタシオン第七番
バルトークとイザイでソロを弾いているコルシアは、フランスのイケ面ヴァイオリニストとして活躍中の若手。バルトークの同曲は、<Naive>からCDが出ている(オラモ指揮バーミンガム市響)が、演奏はこの製品盤よりも本盤の方が新しい。本盤は、なんたって、2007年の10月の録音なのだから。
しかし、この演奏は、最初音程が不安定で、非常に聴きにくい仕上がり。しばらくするとやや持ち直してくるのだが、どうもピッチが確定しない。表現意欲はかなりある方だと思うのだが、こんな技術では、それも空回りだ。音の艶やカンタービレの美しさも影をひそめており、またニュアンスに欠けるフレージングは全く魅力的でなく、明らかに解釈ミスだといえる。全体的には終始一本調子で、退屈な演奏だ。
バルトークの他に、プロコフィエフやウォルトンも好きそうな人だが、この程度の演奏では、ちょっと聴くのは辛いかもしれない。彼の他の演奏を知らないのでそれ以上はなんとも言えないが、本盤のこの演奏を聴く限りにおいては、もっと音楽的経験を積んで出直して来てもらいたいと強く要望したい。
一方、伴奏のオーケストラは非常に素晴らしく、バルトーク特有の野性味、激しさ、厳しさ、鮮烈さを巧みに描出している。フランスのオーケストラで、このような尖った音が聴けるなんて思わなかった。
アンコールとして演奏されたイザイも同様で、音量の幅の広さと超絶技巧のハッタリは巧みだが、それ以外には音楽的魅力もセンスもない駄演。コルシアは、若いだけが取り柄の典型だと思った。
ノタシオン
マスの響きを基本に、バランスの良い完成度の高い音作りが聴かれる。セクションの定位は明確で、オケの解像度も水準を越える。中低音がややくぐもった響きだが、特別にミキシングやマスタリングが施されていないことを考え合わせると、CD-Rとしては最高水準の出来なのではないだろうか。
演奏は、ブーレーズ音楽の構築性を見事に描き出した造形美の巧みさに感嘆する。全体的に、緊張感の持続と開放の喜びを、活き活きと表出している。これは曲の難解さの割りに、演奏栄えのしない効率の悪い作品だが、さすがは自国を代表する作曲家の作品。演奏に独自の真実味がある。
キー操作の演奏ノイズまでもが鮮明に録られているだけでなく、不安定なファゴットの響きが妙なリアリティを醸し出している。管楽器の殆どが違った動きをする冒頭部の解像度の高さは、製品盤としても優れた録音に属するレヴェルといえる。
「春のきざし」以降、フェラーリの走りのような、極めてきっぱりとした快速テンポで進められる。そのスピード感はスリリングだ。楽譜そのものが持つ雄弁さとリズムと音響的な要求を、非常に巧みに捉えている。「大地の踊り」は凄まじいテンポで、いささか速過ぎるとも思えるが、ガッティの内的な表現がそこに現れているようにみえ、決してこけ脅しのための演出ではない。
第二部の前半部は、彫が深く静謐なサウンドを、ガッティはデリケートな感情で詩情豊かに描出してみせる。Fレンジ、Dレンジ共に伸びがいいので、各楽器が豊かに響く。
「選ばれし生贄への賛美」の一小節前、つまり四分の十一拍子からは再び快速なテンポとなる。現代人の耳には、もはやこのような演奏でなければ新鮮な驚きは与えられないだろう。ガッティは、思い切ってそのことを実現させている。
かといって、リズムやハーモニーがないがしろにされているわけではない。「選ばれし生贄への賛美」や「祖先の儀式」では、緊張感に満ちた研ぎ澄まされた感覚が行き渡っている。続く「生贄の踊り」の表現主義ともいえる凄まじい轟音は、これはもうゲルギエフといっても過言ではない、にわかにはフランスのオーケストラとは信じがたい鮮烈さがある。
特に、最後の数小節に用意されたクレシェンドを、楽譜どおり演奏に反映させているのがいい。音楽がまとまりを失わず、各声部が非常に明快に立体感を伴って響いているからこそ、その処理が生きてくるのだ。ガッティの本質はあくまでもラテン的志向の指揮者だが、演奏を総体として捉え、聞き手の耳にずしりと届く重層感、および極めて緊密な構築感を紛うことがない。しかも、オーケストラの有する座りの良い響きとの相性の良さを考え合わせると、ゲルマン的な要素も具えているものと思われる。
つまり、彼の音楽作りの本質には、感性と知性とのバランスの感覚が宿っているということだ。その意味では、同じイタリア系の指揮者でいえばアバドやムーティよりもトスカニーニやシャイーに近いといえよう。彼の音楽が非常にコントロールの効いたものであり、中世的な性格を備えているのは、そのバランス感覚のためでもあろう。もちろん、それが《ローマ三部作》の録音のように良い方向に作用する場合もあれば、チャイコフスキーの後期交響曲の録音(Harmonia Mundi)のように悪い方向に作用する場合もある。
本盤の《春の祭典》の演奏は、もちろん前者だ。全ての演奏がこれと同じ調子ではどうかと思うが、本盤は、ガッティの今後に淡い期待を寄せるに十分な実証の一つといえるだろう。
2007-12-26 ザンデルリンク指揮ロス・フィルの交響曲第8番

先日予告した通り、ザンデルリンクとロス・フィルによるショスタコーヴィチの交響曲第8番のCD-Rが届いたので、紹介する。
ザンデルリンクによる同曲録音には、ベルリン響とのスタジオ盤のほか、1997のBPOとのCD-Rがある。数としては、他の交響曲、特に第5番や第15番と比べると圧倒的に少ない。しかし、個人的には作品の内容はザンデルリンクにピッタリだと思うし、ライヴで取り上げられた回数も、第5番ほどではないにしても、第10番や第15番と同じくらいはあるだろう。希望的観測だが、今後、CD-Rで発売される数は多くなっていくだろうと思う。
実際、本盤を聴くと、それを証明するかのように素晴らしい演奏が展開されている。ジュリーニが音楽監督を務めて以降、この時期のロス・フィルは、決して一流のオーケストラというわけではない。。1999年といえば、サロネンが音楽監督に就任して数年が経過した頃だが、レヴェル的にはむしろかなり下のランクに位置していると思う。全体的に非常に柔らかい肌触りの音楽作りだが、この楽団としては、持てる力を全て出し切った最上レヴェルの演奏になっているのではないかと思う。
■第1楽章
CDプレーヤーのタイムが1秒以上経過してから音が出はじめるのだが、アタックが数ミリ秒欠落している。それを除けば、S/NもCD-Rとしては普通で、ディスクのバックインレイに記されているサウンド・クオリティが「Very Good」にマーキングされているのも頷ける。
この演奏では、特に弱音の美しさにはっとさせられる。例えば、四分の五拍子となる副主題から展開部までの雰囲気作りはザンデルリンクならではのもの。ムラヴィンスキーのような厳しさも魅力的だが、このようなやり口を実現できる指揮者もそう多くはないはずだ。手彫りの真摯さと人間的肌合い、時流におもねろうとしない一徹な気質とが、ザンデルリンクの音楽には強く感じられる。
交響曲弟8番は、第5番の発展形であると同時に、第10番へと繋がる、ショスタコーヴィチの交響曲芸術の真骨頂と芸術的資質が生々しく示された傑作である。特に第1楽章は、ショスタコーヴィチが目指す「理想的なアレグロ楽章」の姿がよく示されている。ある意味、過渡期の作品ともいえるが、もちろん、ショスタコーヴィチが気分的に音楽的迷路をさまよっているという感じは全くしない。といって、終結を予め見通して明快な論理の道筋をたどっているというものでもない。
ザンデルリンクの演奏は、ショスタコーヴィチの音楽のそうした資質を敏感に感じ取っていて、大きく無限界的に広がりながら、自己の音楽展開の足元はいつも見失うことがなかったというような状況を映し出してみせる。がっちりと腰をすえたテンポで、一歩ずつ確かに作曲者の音楽的イメージが形成して行く後を追っている。
また、展開部は、ゆったりとしたテンポでひたひたと忍び寄るような不気味な雰囲気を携えている。その意味で、同じように29分以上かけたキタエンコ、マクシム・ショスタコーヴィチ、ロマン・コフマンらの演奏とは一線を画する。作品内に生起するニュアンスの変化を、実に克明に捉えきっているし、強い内的エネルギーを立体的に描出している。形式主義を遠く超えた、この演奏のしっかりした音楽的眼力を示すものといえよう。
後半部は、抒情の肢体が美しい。ムラヴィンスキーのようなリアルな切実さよりも、そのひとつ手前に感覚のフィルターを置いて、なまめかしいヴィジョンをゆったりと作り出している。最後の最後まで緊張を緩めず、真摯な態度で楽曲に向き合うザンデルリンクの直向さには本当に心を打たれる。
■第2楽章
中低音がややこもり気味の音質故、切れ味の鋭さは録音から感じられないが、リズムの足取りはしっかりと、主旋律はやや長めの音形処理で、立体的なコントラストを見せている。第2楽章はアラ・ブレーヴェではなく、四分の四拍子なので、このやり方は実に的を射たものといえよう。
やや甘美なしなやかさには精細な技巧から発する幾分の冷たさと、聴き手の肌を滑り通ってゆくような感触がある。それは決して素っ気ないものではないが、手持ちの音楽性の無我なフル回転でもなく、もっと強く意識的な行為としての集中から来る一種の冴えである。一時代前のソヴィエトの演奏家によるショスタコーヴィチとは、大きく変わった新たな創造的性格に彩られたものであることも事実である。
そういう、ショスタコーヴィチ表現への新たな突破口は、80年代後半のヤルヴィ(89年)やショルティ(89年)、ビシュコフ(90年)などから出始め、ゲルギエフ(CD-R/93年、フィリップス/94年、CD-R/95年)で一応の完成を見たと結論付けたとしても、あながち大きくははずれていないだろう。しかし、ザンデルリンクこの演奏は、根底においてはそういった流れに否定的であるように見える。
とうのも、ザンデルリンクの演奏には、すべての精密さは外に向かって説明と高価の声を発するものではなくて、終始内に向かって作曲者の声を聴こうとしているように感じられるからである。
第3楽章
冒頭、1小節ほどアンサンブルが乱れているが、すぐに持ち直す。ザンデルリンクの指揮が見難かったのだろうか。それはともかく、丁寧でそつなくまろやかで落ち着いた表現の中に、充実した躍動感が吹き上げながら、それらを統括して一つの見事な完結感を構築しているのが見事だ。それでいてデュナーミクは完璧に指揮者の統率の元に制御されている。
オーケストラのバランスはあくまで弦が中心で、全体的に弦楽器の音がたっぷりと聴こえる。Dレンジはそれほど広くなく、BBCレジェンズでいえば60年代後半から70年代中頃くらいのレヴェルだが、恐らくザンデルリンク自身、そういうところでは勝負していないのではないだろうか。従って、不思議と音響的に物足りなさを感じない。
第4楽章へのブリッジは凄まじいまでの大音響で迫力充分。しかし、多くの指揮者のように、ショッキングな効果を出すためだけの大見得ではなく、充実した響きを聴かせる。引退――それも高齢を理由として――の3年前の演奏であるが、見事なバランス感覚を示していると思う。
第4楽章
この楽章で聴き手を驚かすのは、ザンデルリンクの技巧の細やかさではなくて、むしろ多様な感情を広く包括し、それを開陳し続けてゆく内的なたくましさである。明暗濃淡の起伏を強く結び合わせて太い持続感を保持している。どのよに抑制を効かせても表情が鈍くなるということはなく、しなやかな光で細部を輝かせながら、ハーモニーまでが歌いぬく。
繰り返しになるが、87歳の指揮者が、これほどまでに厳しく、内的洗練度の高い演奏が出来るものなのだろうか。聴いていて空恐ろしくなる演奏だ。もちろん、それは、ショスタコーヴィチのこの交響曲がいかに素晴らしいものであるかの実証でもある。今筆者は、ショスタコーヴィチがこの曲を作曲したのと同じ年齢だが、このような音楽を創造できるのは、天才以外の誰が成せるのかと思う。この演奏は、そのことを改めて実感させてくれた。
第5楽章
特に前半部は、少しも力まず、きわめて洗練された軽妙な表現が聴かれる。響きは徹底的に計算しつくされ鮮明だが潤いがあって決して固くなく、上品なセンスが隅々にまで溢れている。とはいえ、内容主義で極めて濃密なショスタコーヴィチである。
対して、中間部では壮大なクライマックスが描かれる。リミッターがかかっているのか、最強奏部でDレンジが頭打ちになるのは残念だが、びっしり目の詰んだ精巧な演奏であることは確かに伝わってくる。劇性と緊張感が終始一貫持続した表現が強く印象的だ。
後半部は、第1楽章同様に内容主義的で、精緻な仕上げの美しさも見事というほかない。音楽は堂々と確信に満ち、各部全ての要素が有機的に密着して、冴えた響きと一体になって重厚に広がっていく。このようなショスタコーヴィチは、製品盤でも滅多に聴けるものではないと思う。
ただし、最終音の直後にプロムスのようにいきなりホールに響き渡る、取ってつけたような拍手は甚だしく興ざめである。CD-Rなので仕方ないが、これが製品盤だったら返品に値しよう。そういった不具合も含めてのCD-Rなのだ。本盤のような素晴らしい演奏を紹介してくれただけで善しとしよう。
2007-12-25 ザンデルリンクの「革命」

ザンデルリンクがバイエルン放送響とやった76年5月の演奏がCD−Rででました。
レーベルは、バーンスタインとフランス国立管が同じ年に演奏したショスタコーヴィチの「革命」の録音も出しているカペルマイスターで、品番はKMS-162。
録音は、弱音部での低周波が目立つのと、不自然な乾いた響きが耳につくのが難点だけど、バランスと音場感は悪くない。
ザンデルリンクの「革命」の聴き比べと正式なレビューはいずれやろうと思うが、終楽章が圧巻。冒頭、バーンスタイン並の快速でぶっ飛ばすのに、12分05秒もかかっている。CDバックインレイのクレジットは12分55秒だけど、これは拍手を含めての数字。冒頭が普通のテンポならそれくらい裕にいったと思うけど、流石に12分55秒はないわな……。
2007-12-23 バルトークとルトスラフスキの《オケ・コン》雑誌付録

イギリスで発行されている音楽専門誌『BBC MUSIC MAGAGINE』には、付録としてBBC系のオーケストラのライヴ演奏を録音したCDが付く。ショスタコーヴィチはイギリスでの人気が高いので、何気に物凄いCDが付く場合がある。私がこの雑誌を買い始めたのも、ショスタコーヴィチ目当てだった。他にも、付録のCD目当てでこの雑誌を購入している向きも多いだろう。
先月号は、クリスマス特集でクリスマス・キャロルか何かの音楽だったので大したことはなかったが、今月は大物。収録内容は以下の通り。
- ルトスラフスキ:管弦楽のための協奏曲
尾高がBBCNOWの音楽監督に就任したのは今から二十年前の1987年。1996年には桂冠指揮者となっている。彼は、小澤やその他の若手と比べてあまり個性の強い指揮者ではないが、構成力は抜群で、品の良い知性的な表現が魅力である。
このバルトークも、それぞれの楽章の性格が的確に描き分けていおり、そうした彼の真価がハッキリと示された秀演だと思う。第1楽章は、端正な表現の中に、哀愁の気分がそこはかとなく漂っていて、造形もしっかりしている。
第2楽章は各部のニュアンスが非常に豊かだ。極めて丁寧に仕上げられているのはもちろん、一つひとつの要素の持ち味を的確に掴み、それぞれ趣を異にする曲想を鮮やかに浮き彫りにしている。尾高が振った日本のオーケストラの演奏では、こういった音楽の聴かれるケースは殆どというかほぼないが、こういった表現が尾高演奏の本質なのだろうか。
日本のオーケストラは昔に比べて水準は高まったというが、N響にしても、このイギリスの片田舎のオーケストラにもまだまだ届かないレヴェルなのだ。これは、やはり日本の音楽教育の水準の低さを露呈するものだと思う。
第3楽章では表現の起伏を大きくとり、劇性を際立たせている。品のよい精緻な表現は尾高の音楽的感性の鋭さをよく表している。熱っぽく、生気に溢れた第4楽章でも、尾高の優れた音楽的資質が感じ取れる。中間部のロマンティックな第二主題は表情が甘くなりすぎていないが、ショスタコーヴィチの交響曲第7番第1楽章展開部の主題を引用した「舞曲」との見事なコントラストを見せる。
フィナーレは、前の4つの楽章と比べてややクオリティは落ちるが、5つの楽章全体の中でのバランスとしては、決して悪くはない。もちろん、緊張感は少しも緩めずに演奏されている。BBCNOWの発している鋭く輝きのある響きは、地方オケの概念をはるかに越えている。特に弦アンサンブルのソフトなアタックは見事である。
終結部のコーダは、もちろん原稿版の長いほうで演奏されているが、焦点がいささかもボケない、オケの解像度の高さが素晴らしい。張り詰めた緊張と力強い前進性が強く感じられる。曲が終わると、拍手が沸き起こる。そこで初めて、ライヴ録音だったことを知る。しかもCD-Rと同じ未編集のライヴ録音だ。
ルトスラフスキ
作曲者の自作自演盤。もうそれだけで独特のオーラを発しているディスクである。実際、演奏も素晴らしい。20年前の録音なので、音の解像度はそこそこだが、DレンジFレンジともに、水準には達している。低弦はどっしりとしているし、高弦は鮮明で切れがよい。ステレオ空間の音場は広めで残響音は良質だ。
第1楽章は衝撃的かつ堂々とした冒頭部から聴き手を強く引き付ける。以降の展開も、各部隙のない表現であり、精緻な仕上げの演奏は見事というほかない。第2楽章は、終始抑制された響きで、形式を感じさせない自然さで発展・展開するが、クライマックスでのオケの咆哮は凄まじい。
もっとも素晴らしいのは、全曲の半分以上の規模を占める長大な第3楽章。パッサカリアの盛り上がりは極めて劇的。愁揚とした足取りで陰影の濃い音楽を歌わせる。中間部(展開部?)は、さらにゆたかな風格を持った表現である。堂々とした確信に満ち、構築力が強く重厚な表現が形作られていて、豊かに音楽が広がっていく。後半部も、劇的効果を配慮した堅実な表現が展開された一切の曖昧さを見せない優れた演奏で、それぞれの楽想が生気を持って浮かび上がってくる。
いずれも製品盤として発売されてもおかしくない質の録音だ。『BBC MUSIC MAGAGINE』は『Grammophone』と比べて絶対数が少ないので、早めに手に入れたい。
2007-12-18 マクシムのショスタコーヴィチ交響曲全集、編集ミス正誤表

2007-12-12 シューマン交響曲全集〜ユニバーサル・クラシックのバカ野郎!

シャイーの指揮で、マーラーがスコアに手を加えたシューマンの交響曲全集が完結の運びとなりました。最初に発売された第1番と第4番のCD、ものすごく良かったですよね。しかし、今回は第2番と第3番のカップリングではなく、いきなり4曲収めた2枚組み構成での発売です。
「え〜!!!もう1枚持ってるんですが!」と突っ込みを入れようとしたところ、1枚の値段が付けられていることが判明。恐らく都内の量販店では、1800円台で売られることでしょう。前に買ったのは無駄になりますが、まあ、1年も経つ(いつ出たんだっけ?)んですから、減価償却済みということで。
しかーし。話はここでは終わらない。
日本盤は、な、何と、3,600円なんですってよ!奥さん(笑) ユニバーサル・クラシックは、まるまる2枚分のお足をお取りになる心積もりでいるらしい。CD2枚組みだから2枚分の価格ってか?
でもねぇ、それで納得できるのは輸入盤の値段を知らない人だけでしょ。今や、日本盤のCDだって、2枚組み1,000円台で当たり前に売ってる時代。制作費云々言うつもりなら、ハッキリ言って理由になりませんよね。しかもこういうのって、ユニバーサル・クラシックが録音しているわけでなく、ライセンス販売してるだけでしょ(「だけ」ってのは御幣があるかもしれないけど)?
製作者側が1枚の価格で売れるのに、ライセンス販売しているところがまるまる2枚分の価格を設定するなんて、ねじれもいいとこじゃないですか。正直、消費者をバカにしてるとしかいいようがない。ユニバーサル本社から、相当額のライセンス料請求されてるんでしょーかね? それとも、CDが一番売れてる日本盤の売り上げからのマージンを当て込んで輸入盤の価格は設定されてるのでしょーか(そんな面倒なことするとは到底思えませんけど)。
思えば、ユニバーサル・クラシックって、ゲルギエフのショスタコーヴィチの交響曲選集*1や、プロコフィエフの交響曲全集*2でも消費者を舐め切った製品を出していましたねぇ。レコ芸も音友もCDジャーナルも、どこもそこを指摘して批判しなかったのをみて、日本の音楽ジャーナリズムって相変わらず日和ってんなぁとムカっ腹立てたけど、これなんかも、当然批判されてしかるべきでしょう(どこもやらないと思うけどね)。輸入盤の値段知らずに買った消費者に対して、どう落とし前付けてくれるのかと。知らなかったのがいけなかったんですか? それとも、「あなたがその価格で納得して買ったんだから、文句言うのはおかしいんじゃないですか?」とお仕着せ通りの論理を振りかざして、いつものように開き直っちゃうのかしら?
敢えて言おう。輸入盤の2倍の価格が設定されている日本盤など、誰が買うのかと!
少なくとも、ユニバーサル・クラシックには、輸入盤の2倍の価格を付けている根拠を消費者に示す義務、あるんじゃねーの? こんなことやってるから売れなくなるんだよ、CD!
このCD、来年2月の来日記念盤なんだそうです。ホールで会場売りされること必至でしょうが、会場で買うような人は輸入盤の値段を知らない層ですよね。そういう意味では、頭良いといえるかも知れません。もちろん、悪知恵ですけどね(笑)
P.S.2
タイトル変えて、ちょっとパロディックにしてみました。RSSやニュース・サイト経由で来られた方、すみません。
P.S.3
ショスタコーヴィチの交響曲第4番〜第9番までを収録。5枚組み。
輸入盤約5,500円に対し、国内盤10,000円というのは、まあ良しとしましょう。
また、輸入盤はジュエルケースに入っているのに対し、日本盤はちゃっちい箱に、紙のシートに入ったCDが5枚ポコッと入ってるだけという、「見本」みたいな仕様。「こちらは見本ですので、レジで必ず商品をお受け取りください」ってやつ。思わず、店員に「これ、中身入ってんの?」って訊きたくなってしまう。まあ、それも良しとしましょう。
大前提として、これは、最初、1枚ずつバラで出たCDが、その後box化されたものです。
なので、既に5枚持っている人は、買う必要はありません。もう、その時点で、10,000円以上投資しているわけですから。
しかーし!
えーと。意味、分かります?
ユニバーサル・クラシックはそれを「売り」にしているのですが、人気沸騰のゲルギエフですから、新譜がリリースされるたびにイチオシでキャンペーンがはられ、興味持ってる人はみんなその時点で買ってると考えていいです。もちろん、後でbox化という予測は立ちますが、早く聴きたい人は「バラで良いや」と思って買ってるわけ。
そこで、「交響曲第6番はこのboxにしか収録されていません!」なんて得意げに語られても、それって熱心に投資していた客に対する裏切り以外の何物でもないと思うんですよね。
だから、ゲルギエフのショスタコーヴィチの交響曲第6番、聴いていない人、たくさんいると思います。
もちろん、海外のユニバーサル本社の施策だからしょうがないとユニバーサル・クラシックは言うでしょう。でもね。だったら日本国内盤だけでも交響曲第6番をバラで出さんかい! もう、その時点で本社と共犯と言えるでしょう。あんた、言い訳する資格ないっスよ(笑)
4枚組みで日本盤6,000円、輸入盤約5,000円。
問題は、日本盤の構成にあります。
プロコフィエフは、交響曲第4番と第7番を改訂し、2つのバージョンを残しています。
交響曲第4番は輸入盤も日本盤も2つのバージョンが収録されていますが、交響曲第7番は、改訂版が収録されているのは国内盤だけ。ボーナストラックなんだそうです。いつもそんなのやらないのに!
値段が高いんだからボリュームが大きいのは当然という向きもあるでしょう。でもね。
輸入盤の方が国内盤よりも早く売られるんですよ!
これは販売店の方が主犯格だと思うんだけど、輸入盤が出た時点でそんなこと誰も、一言も言ってなかったじゃん!
輸入盤が出回ったのが、確か日本盤が出る1ヵ月半くらい前だったかな(2ヶ月はない)。その頃には、販売店には日本盤にボーナストラックが付くことは知らされているはずです。なのに、一言も告知無し。
音楽雑誌の広告も、輸入盤が出た時点ではまだ出ていなかったはず。――って、国内盤の発売は24日じゃないですか。音楽雑誌は20日発売だからね。うまく考えましたね。
知らせると輸入盤が売れないから? でもね、客に不利な情報を持っているにも関わらず故意に知らせないのって、何か罰則ありませんでしたっけ? 販売元も販売店も、客を舐め切ってるとしか思えませんね。顧客満足度? そんなのこの業界には存在しない模様です。
私は店頭で日本盤を見たとき、公取にでも消費者センターにでも、本気で訴えようと思いましたよ。
私、リアルショップでCDを買うのって本当に嫌なんですよね。だからってネットショップが万全なわけじゃないけど、一応、価格や商品構成は比較検討出来るじゃないですか。リアルショップだと、「この情報は伏せておこう」っていう戦略?にまるまるはまっちゃう。それに、ショップ店員の客をバカにしたような言動がありありと感じ取れるんですよ。))
そういうわけで、製品盤って嫌な思い出ばかりなんですよ。その点、CD-Rはいいですよ。「悪くて当たり前」なんで、良いものに出会えたときの感動は、競馬で大穴当てたときの感覚に近いんじゃないでしょうか。



もし場所を変えて新しいブログを作られる事があれば、ぜひ教えて頂きたく。epsonさんの話も十分に興味深いのですが、skripkaさんの方も大好きなので。
ありがとうございます。
映像関連についての発言は、今後、twitterで行うことが主になります。ブログは、更新する間、エントリの内容で頭がいっぱいになり、丸2、3日潰れて体力を消耗してバテバテになるし、後遺症も酷いので。当分の間は何もアクションは起こせないと思います。
その点、twitterなら、思考するのと同時に考えを吐き出せますので、全くストレスがありません。逆に言えば、twitterで毒抜きしてしまえば、ブログに上げる必要性は全くなくなってしまうのです。
アニメ映像の表現論については、skripka以上に優れた評論を書かれる方が多数いらっしゃるので、もうロートルの出る幕はないのではないでしょうか。
twitterのアドレスは
http://twitter.com/Shostakovich
です。