紙幣のない世界の物価と金融政策

想像してみていただきたい。どこに出掛けても、電子マネーやクレジットカードでの支払いを受け付けており、大人数での割り勘すら容易に取り扱える状況を。紙幣は、秋風に吹かれて飛んでいってしまうかもしれないし、誤って洗濯してしまうかもしれない。しかも使い道が記録に残らないので、所有することすら家族に不審がられる状況を。そうなるとき、さほど遠い未来とも思えないが、市中に流通する紙幣の量は、今よりも極端に減るとは思えないだろうか。そうなるとき、物価は上昇するだろうか、下落するだろうか。金融政策は、どのような姿になるだろうか。


直接的に物価に影響を与えると感じられる方は、少ないのではないか。紙幣を使わなくなったところで、我々の財布の中にあった購買力は、例えば銀行預金やプリペイド型の電子マネーのように、おそらく別の形で保持される。突然貧乏になるわけじゃない。ポケットの財布が膨らんだ状態と、画面を覗き込んで初めて数字が確認できる状態とで、気分はいくらか異なるかもしれないが、そのことが消費の形を大きく変えたりはしないだろう。スイカパスモになったからといって、電車には移動したいときに乗る。その機会は、特段増えも減りもしない。


こうしたテクノロジーの進歩は、しかし、国立印刷局*1の仕事を減らすだろう。彼らの敷地は都内の一等地にもあるが、それらを売却し、職員の方々には別の仕事に就いていただくことで、使われる税金は減るはずだ。それは素敵なことにも思われる。それから、もうひとつ大きな変化がある。日銀が金融政策を実行することは、難しくなるだろう。理由は以下の通りだ。


そもそも日銀が職員に給料を払い、国庫に釣りまで返すことができるのは、預貸利鞘があるからだ。つまり日銀は、金を安く借りて高く貸すことで、利益を得ている。「安く借りて」の部分は、要するに紙幣の発行のことで、「高く貸す」の部分は、要するに国債の購入のことだが、ちょっとピンと来ない方も居るかもしれない。紙幣の発行が、なぜ「安く借りて」いることになるのかと。こう考えてみていただきたい。我々が紙幣を持つ代わりに銀行にお金を預けておけば、今はとても小さいが、しかし利息がつく。そのあきらめた利息は、得べかりし利息は、我々が日銀に寄付しているようなものだと。紙幣でしか買い物ができないからといって、あるはずだった利息をあきらめるのは、決して当然のことではない。


一方で金融政策とは、要するに金利を下げることだ。不景気に皆がビビッていると、お金を借りて投資してまで、商売を広げようという気持ちになりにくい。そこで貸し出しを促すために、日銀がエイと強引に、何もせず放っておくよりも、安くお金を貸し出すのだ。お金ならバーゲンセールしますから、是非それで商売を広げて下さいというわけだ。しかしそもそも、なぜ安くお金を貸し出すことができるのだろうか。紙幣を印刷できるからではない。発行している紙幣に利息を払わないからだ。


ここで最初の想像に戻ろう。もはや誰も、紙幣を持ちたいとは思わない状況だ。そうなれば、紙幣を印刷することには意味がない。誰も使わないものは倉庫に眠るだけだ。このとき実は、日銀は貸し出す資金すら持っていない。紙幣を印刷したところで、それを受け取ってくれる相手がいないのだから。ならば市中の銀行に、「日銀の当座預金口座にお金を預けて下さい」と言ってみてはどうだろうか。このとき日銀は、その当座預金に利息をつけることを余儀なくされるだろう。あなたが市中の銀行の担当者なら、より高い利息のつく口座に預け入れなければ、上司にも株主にも怒られてしまうからだ。もちろん日銀は、そうして当座預金につける利息よりも安く、お金を貸し出すことはできない。預貸利鞘がマイナスなら損をしてしまう。すこしまどろっこしい説明になったが、ご納得いただけたろうか。


紙幣のない世界にも、穏やかなデフレや、穏やかなインフレは存在するだろう。物やサービスを売買したことがある者なら、誰でも知っていることだが、高いものが欲しいときも、安いものが欲しいときも、また高いものが売れるときも、安いものが売れるときもある。当然のことだ。一方で、ハイパーインフレは存在しないだろう。誰も紙幣を使わないとき、それが無限に印刷されて信用が失われることは、そもそも不可能だ。


紙幣のない世界では、金融政策を実行することは難しいだろう。つまり金利は、自然に任せることになるだろう。日銀が、その水準を意図的に引き下げることは困難だ。なぜなら原資がない。このように考えるとき、現在の歪みが見えてこないだろうか。金融緩和の源泉は、我々が受け取れなかった利息にある。あらゆる景気対策は、右から左へと移転しているに過ぎない。打ち出の小槌など、最初から存在していない。