一章

第一章

 どこだ、ここは。
 渡来亮は見たこともない光景にキョロキョロと辺りを見回した。いや、もしかしたら見たことはあるのかもしれない。しかし仮にそうだったとしてもそれがわかる人間はそうは居ないだろう。そこはそれほど深い森か林の只中で、冷たい風に吹かれて立つ針葉樹の闇へと続く連なり以外に見えるのは、頭上に広がる澄み切った夜空だけだった。
 そもそも俺はなんでこんなところに倒れているんだ?
 僅かに湿った土の上から立ち上がって――そもそもなんで座り込んでいたのかさえわからないのだが――コールテンのズボンに付いた土を払い落とす。見たところ本当にこの辺りには常緑樹しかないらしく、落ち葉らしい物はまるで見受けられなかった。
 ……少なくとも今朝、家を出たところまでは何の問題もなかった。いつも通りだ。
 何をすれば良いのかも分からず、とりあえず適当な木の幹にもたれかかって記憶をたどる。
 週に一度の休日。両親は朝から出掛け、弟の淳は前の日から友達の家に泊まりで遊びに行っている。それで一人で家にいたけれど暇を持て余し、適当に散歩に出た。そう、そうだ。そこまでは確か。その後さらに進んだ所で電話を……。
 電話?
 妙にその単語が引っかかって思考が止まる。
 そうだ。だれか暇なやつがいないかと思って電話ボックスに入ったんだ……、携帯の電池が切れていたから。そういえば見慣れない電話ボックスだったな。変わったデザインっていうか……。それで……あれ?
 思い出せない。亮は頭に手を当ててより深く記憶の底へ潜ろうと試みた。
 ドアを開けて、受話器を手に取って、カードを入れてダイヤルした。それで受話器を……、いや受話器を耳に当てた記憶がまるでない。
 ……てことはなにか?俺は電話ボックスの中で電話をしようとしたら突然こんな森の中に飛んできた、ってことか?そんな馬鹿な。俺はただの高校一年生で、そう、間違ってもどこぞの救世主とかじゃあないんだぞ?
 ふう、と強く息を吐いて木の幹から離れる。しかしどんなに思案をめぐらせ、理屈をこねくり回したところで亮が今どこかの森の中に放り出されてしまっているという事実は変わらないわけで。
「……とりあえずこの現状を打開しないとまずい、か」
 一人、静かにそうつぶやくと、亮は大したあてもなしに、木々の間に出来た、やや広い獣道まがいの間を進んでいった。
――
「本当にどこまで続くんだよ……」
 いつまでたっても途切れる様子のない木々に囲まれ、亮は立ち止まってつぶやいた。前を見ても、右も左も、後ろでさえも目に入るのは不気味にその姿を連ねる木の幹のみ。歩いてきた道に沿って地面に残してきた目印だけが、辛うじて亮にいくらかの安心感を与えていた。
 そもそもここはどこなのだろう。
 考えたところでどうにもならないのは百も承知だが、何もない暗闇を黙々と歩き続けるというのも心もとないので思考を巡らせる。とりあえずここは林か森の中。それは間違いない。問題なのは、亮が電話ボックスの中から突然ここにやってきたということだ。
 正直なところ、亮は混乱していた。自分は夢でも見ているのだろうかとも思ったが、体の芯までしみこんでくる寒気がこれは現実であると告げていた。
 こういう場合、普通だったら下手に動き回らず救助を待つのが最善策なのだろう。だが、あいにく今の亮にはじっとしていながら寒さに耐えるだけの装備がない。身に着けているのはコールテンの長ズボンと前開きのパーカーにラガーシャツ。無地の黄色い靴下の上から履いたスニーカーはところどころ擦り切れて、ポケットの中には二千円ぴったりの小銭が詰まった財布と電池が切れた携帯電話。ちなみにさっき確かめてみたら携帯の画面はなぜか割れてしまっていた。どこかでぶつけたのだろうか。とにかく、今の亮には歩いて体を冷まさないことだけが現状を乗り切る最善策だったのだ。
 しかしどこまで続くんだ。
 胸の内で悪態をつく。歩けど歩けど目の前にあるのは樹木ばかり。人里どころか明かりらしいものさえ見えない。これではまるで回し車を走り続けるハムスターではないか。空しくてため息が出る。だんだん歩幅も狭まってきた。せめて誰か通りかかってくれれば良いのに……。
 そう考えてもう一度亮がため息をついたときだった。
 パキ……。
 小枝か何かが折れた時の小気味の良い音。
 ふと目を上げた亮の目の前で、何かが正面の木の陰から姿を現した。
 なんだ……?
 輪郭しかつかめないその姿に自然と目を凝らす。わかることは、その姿がとても不気味だということ。耳に聞こえる不愉快な呼吸音もその気味の悪さを強調していた。
 何なのかはよくわからないが、前かがみになって不気味に動くその影は余り友好的とは思えない。何か手のようなものはあるらしいので、狼や山犬ではないだろう。だが辺りの空気をざわめかせる低いうなり声はとても人のものとは思えず、かすかな月明かりの下に光る赤い瞳は野生の獣のそれに近かった。
「なんだってんだ……おい」
 声を潜めて一歩後ずさると影が一歩前に出る。動けない。ひしひしと感じられる威圧感に亮はその場に立ち止まった。今の間合いが目測二、三メートル。これ以上前に出れば勝負を挑むことになる。かといってこれ以上後に退けばむこうが一気に飛びかかってくるだろう。
 どうするか。何の策も浮かばず、辛うじて腰を落としてその場にどっしりと構えると亮は必死で考えた。
 喧嘩であれば多少の自信はある。だがそれはせいぜい絡んでくる同級生の相手をする程度のものだ。こんな人だか獣だかわからない代物と戦って勝てるかと問われれば、否。そんな自信は毛頭無い。それを考えるとやはり、この血の気の多い誰かに勝負を挑むのは無謀というものだ。せめて相手の隙を突いて逃げ切れればいいのだが、彼はそれすらも許してくれそうに無かった。
「どうするよ……」
 と、力のないつぶやきの意味を解したのだろうか、暗闇の中の彼がにいっとほくそ笑んだ。
――
 次の瞬間。亮はひどく後悔した。後悔して、胸の内でひどく自分を罵った。
 そのとき、相手の不気味な笑みに萎縮して、思わず横へ転がってしまったのだ。一度動いてしまった以上立ち止まるわけには行かない。背後で相手が動いた気配を感じ取る。「クソッ!」と漏らしながらもその場から駆け出そうと体勢を立て直し、すかさず起き上がった。いや、起き上がろうとした。
 不幸にも予想通り、不気味な彼はかなりの強者だった。体勢を立て直そうとしている亮の背後に一足飛びに近づくと、片膝をついた亮の背中にめがけてその腕を振り下ろす。
「つっ……!」
 余りに重い痛みに立ち上がりかけた亮の膝が折れて体が再び崩れる。丁度左肺の辺りを背中側から殴られた。幸い大きな怪我は無いようだったが、肺にほぼ直接衝撃が伝わったぶん、亮はひどくむせこんだ。
 浅く、細かく、できるだけ多くの酸素を吸い込もうとして勝手に肩が上下する。息苦しさに涙さえにじんできた。それはおおよそ亮が、ごく当たり前の高校生が感じたことのない感覚。直感で自分ではかなわないとわかるほどの相手に叩きのめされるという予感、恐怖。本能的な、死への恐れと言っても良かったかもしれない。
 ……まだ来るのか?
 背後で聞こえた土を踏む乾いた音に、辛うじて首をひねり後ろを向く。
 いよいよ月明かりにこうこうと照らし出された『彼』の顔は、おおよそ人間と呼べるものではなかった。釣りあがった目に鋭い歯が並んだ口。ゲームに出てくる半漁人に似たその化物は、止めとばかりにその手を高く、ゆっくりと振り上げた。亮が何も出来ずに僅かに後ずさり、目は相手の手の先を凝視したままで生唾を飲み込む。まるでそんな亮を楽しむかのように「彼」の横に大きく裂けた口が不気味にゆがみ、まっすぐに振り上げられていた腕が今まさに振り下ろされた。
「――!」
 その時。何もできず、思わず目を瞑った亮の瞼の向こうで何かすさまじい光が発せられた。まるで太陽を瞼越しに見るかのような感覚に思わず亮は顔を背ける。そういえば下りて来る筈の止めの一撃が未だに届かない。だが、亮は目を開けることはできなかった。瞼の向こうで急激に光が縮んでいくのを感じながら、彼の意識もまた深い闇の底へと落ちていった。
――
 何だろう。
 何か心地よい響きが亮の耳を撫でていく。ゆったりと、語りかけるような調べ。誰かがどこかで歌っているらしい。声からするに女。透き通ったその声はどこまでも清らかでいて優しく、覚醒しきらない亮の意識をゆっくりと眠りの泥沼の底から引き上げていくようであった。
「……」
 無言で、目を閉じたまま吸い込んだ空気はまだ冷たい。まるで何かにそっと促されるかのようにすっと亮は目を開けた。
「……」
 念のため、もう一度目を閉じて顔を左右にブルブルと振るった後で再び目を開ける。しかし、やはりそこは亮にはこれっぽっちも見覚えのない場所だった。左右に梁が交差して、やたらと高い天井。壁も床も全部木で出来ていて、僅かにあいた障子張りの襖の隙間からは弱い日の光に照らされて輝く石灯籠が一つ見えていた。
「どこだ、ここ……」
 静かにつぶやいて、体にかかっていた白い掛け布団を除けると亮は体を起こす。自分は確かに夜中、森の中で迷って妙な化物に襲われ、絶体絶命というところまで追い詰められたはずだ。たしかその後何かが起こって命拾いして、そのまま倒れてしまったのだ。
 しかし今。ここはどう見ても森の中などではない。襖の隙間から吹き込む風は冷たいが、掃除の行き届いた部屋の中でご丁寧に布団までかぶって亮は眠っていた。
 あの後誰かがここまで運んでくれたのだろうか。しかしそうだとすれば誰が?日の光の様子はどう見てもまだ明け方。あんな夜中に自分以外にもあの森をさまよっていた人間がいたのだろうか?
 どんなに辺りを見回してみたところで亮の質問に答える者は見当たらない。そういえばいつの間にかどこかから聞こえていた歌声も止んでいる。すこし躊躇したが亮は布団から這い出して立ち上がった。なんで自分がこんなところにいるのかはわからないが、この状況でいつまでもぬくぬくと布団に包まっているのは気分が悪い。亮は吹き込んでくる冷たい風に身震いしながら、部屋の二辺を覆う襖の片方に手をかけた。
「あら、お目覚めですか?」
「……っ!」
 心臓が止まるかと思った。まるで風が流れていくかのような穏やかな声。襖を開けた亮の目の前、ちょっと下を向けば頭をぶつけてしまいそうな距離に、すっと整った目、深く黒い瞳で亮の目をじっと見つめて立つ、着物姿の女の子がいた。真っ白い――寝巻きだろうか――浴衣のような着物の上から群青色の羽織を肩にかけ、その襟元を片手で押さえながら亮のほうにすっと一歩踏み出す。
「あなた、真夜中に森の中に倒れていたのですよ?私が見つけなければどうなっていたことか……」
「え?あ、ありがとう……ございます」
 思わずのけぞる亮に目もくれずに部屋の中に入ってくる少女。背恰好からするに亮とさほど歳は変わらないだろう。もしかしたら同い年かもしれない。長く腰の辺りまで伸びた艶やかな黒髪は胸の後ろ辺りで白い紐で束ねられ、羽織の襟からのぞく、細く、頼りなさ気な首筋は、雪を思わせる白さの中にほんのりと血色を宿らせていた。
「着替え終わったら朝食にします。それが終わったら帰ってくださいね。あなたの居場所はここではないでしょう?」
「え?……ああ、はい」
 素直にうなずくと、はらりと羽織を脱いで白い浴衣のような寝巻き姿になる彼女をよそに部屋の外に出る。何か言わなければならない事があったような気がしたが、吸い込まれるような彼女の瞳を見ているうちに忘れてしまっていた。
――
 神社……みたいな所なのか?
 後ろ手に閉めた襖を背中に、自分が今まで寝ていた部屋の周りを囲う庭を見渡す。石畳で出来た通路に沿って立つ石灯籠と、随分古めかしい並木。石畳の周りには砂利が散らされ、恐らくこの建物全体の外壁に当たるのだろう、並木の向こうには白塗りに青い瓦をかぶせた壁が横に長く伸びていた。
「お待たせしました」
 音も無く亮の背中で襖が開き、着替えを終えた彼女が声をかける。亮は立ち上がると声のした方へ振り向いた。
「ついて来て下さい」
「え、ああ」
 亮は何か言う暇も無く、ただ彼女に促されるがままに従った。
 少し前を歩く彼女の髪は、ようやく輝きだした朝日に照らされて輝き、時々風に揺られてその首筋が見え隠れする。真っ白い着物と紅色の袴に身を包んで歩くその様は、何か触れてはならない物が降り立ったかのようにさえ感じた。
「こちらです」
 そう言って襖を開け、先を行く彼女に続いて、亮も敷居をまたぐ。途端に、煮物だろうか、食欲をそそる柔らかな香りがして、亮は思わず唾を飲み込んだ。
 ちゃぶ台のような低く小さな机の上には、味噌汁と野菜の煮物と白いご飯に箸が一膳。絵に描いたような和風朝食だ。もしかして本当にここは神社なのだろうかと、そんなことを考えながらちゃぶ台の前にあぐらをかく。着物姿の彼女もまた亮の向かい側に座ると、何も言わずに手を合わせ、亮がそうするのも待たずに味噌汁の器を手にとって口元にはこんだ。
「……いただきます」
 あまりに淡々としたその様子に亮は少したじろいだが、気を取り直して静かにそう口にすると彼女にならって味噌汁に口をつけた。そして、
「……おいしいな」
 自分でも予想だにしなかった言葉が口から勝手に飛び出した。
 口の中に柔らかく広がる風味。濃すぎず、薄すぎないさじ加減といい、並大抵のものではない。驚いたのだろうか、無表情のままではあったが、手元の皿を見つめていた彼女の目線が上がる。
「これ、君が作ったの?」
「……はい」
「へえ、そりゃすごい。本当に……おいしいよ、これ」
 まるで探るかのように表情を崩さないままで答える彼女。亮はそんな事などまるで気にせずに、感想をあふれるがままに口にしながら、一気に味噌汁を飲み干した。
「ごめん。おかわり、もらえるかな」
 口の中に残っていたものを全て飲み込むと、箸を手にしたままでお碗を彼女の方へ差し出す。彼女は無言で箸を置くと、亮の手からそっと器を受け取った。
「ごめんね」
 クルリと踵を返す彼女の背中にもう一度声をかけて煮物に箸を伸ばす。とその時、彼女が急に立ち止まって口を開いた。
「あなた……ね?」
「え?何?」
 風にとけていくような声。うまく聞き取れずに亮は聞き返した。
「あなた、流れ人ですね。」
「……流れ人?」
「知らぬふりをしても無駄ですよ。ここの人間は私に対してそんな口はききません。どこから来たのですか?」
 背を向けたままそういう彼女の口調は丁寧であったが雰囲気はまるで別人であるかのように穏やかでない。張り詰めた空気の中で、何かに促されるようにそっと亮も箸を置いた。
「……どういう意味だよ」
「聞いたとおりです。正直に話したほうが身のためですよ?さもないと……。」
 突然彼女が振り返ったかと思うと、その場に亮から預かったお碗を半ば落とすようにして置き、思わず身構える亮の方にまるで握手を求めるかのように――もちろんそのような友好的なしるしでないのは明白だったが――右手をふっと差し出した。
「赤白青黒四色の鳥」 
「何を言って……、っ!」
 小声で何事かをつぶやく彼女。半ば馬鹿にしたような気持ちで口を開いた亮は目の前の光景に息をのんだ。
 差し出された彼女の右手。その手を覆うようにして徐々に温かみを増していく光が大きくなる。
「四方より集いてこれを掃え」
 彼女が一言口にするたびに大きくなるその光球はついに彼女の言葉通りに色を分かち、赤、青、白、黒の光が渦を描く。ついにそれが爆ぜ飛ばんばかりに膨らんだ時、それまで完全にその光景に目を奪われていた亮はとっさに横に転がった。
「飛鳥!」
 一瞬送れて轟く彼女の声。と同時に、四色の光がそれぞれ別々に彼女の手を離れ、鳥を模したかのような姿に変わって一直線に飛び出した。
 直後、部屋中を覆う眩い光。立ち込める煙。しばらくして亮が目を開くと、丁度さっきまで彼の足があったところの少し前に直径三十センチはあろうかという穴が机、床板を突き破り、縁の下を見下ろすようにして開いていた。
「言いなさい。さもないと次は当てます」
 言葉をなくしている亮に畳み掛けるように投げかけられる彼女の言葉。亮は即座に口を開いた。
「分かった、言う。言うからとりあえずその手を下ろしてくれ。な?」
 ただでさえ前の晩から訳がわからないというのに、こんなところで殺されたのでは笑い話にもならない。手を突き出してなだめる亮を前に彼女もゆっくりと手を降ろすと、使い物にならなくなった机を無造作に脇によけて亮の向かいに腰を落とした。
――
「つまり、こういうことですか?」
 ようやく事の次第――といっても亮自身がよく理解していないので大した事ではないのだが――を話し終えた亮の前でふう、と短いため息をつきながら彼女が口を開いた。
「お友達に連絡を取ろうとして気が付いたらあの森にいて、次に気が付いた時にはこの社にいた?」
「そうだよ」
 少しいらつきながら答える。しかし亮の目を見つめる彼女の顔は相変わらずどこか疑いの色が見て取れた。
「……なんだよ。信じられないってか?」
「ええ、信じられません。というより信じろというほうが無茶というものです」
 余りにあっさりと肯定するので、さすがに亮もムッとして眉根にしわを寄せる。しかし彼女はそんな亮にかまいもせずに続けた。
「大抵ちょっと考えた流れ人は皆そう言うのです。それでためしに私が全てを説明すると、『自分は神界の人間に違いないからそこに送ってくれ』という。私はそんな手にかかるほど間抜けではありませんよ」
 はっきりとした威圧感をむき出しにして喋る少女。この分だと「神界とは何ぞや?」と聞いたところで答えてはもらえないのだろう。
「ちっ」
 じっとにらみつけてくる彼女に舌を打つと、亮は考えた。
 どうしたものか。
 どうやら目の前の少女は亮の言う事を毛ほども信じていないようである。それどころか弁明の余地すら与えてもらえそうに無い。だが亮が本当に何も知らないのは事実な訳で、「どこから来たのか答えろ」と言われたところでできるのはせいぜい自宅の住所を教えるくらいのことなのだ。もちろん彼女にそれが通じるとも思えないが。
「さあ、早く言いなさい」
 いよいよ少女の口調がただ事ではなくなってくる。何とかしなければ、先程の光の鳥が飛んでくるのも時間の問題だろう。
 どうする。
 亮が本当に焦り始めたそのとき、僅かに空気が波打ったかと思うと次の瞬間、亮の周りの壁までもがビリビリと軋むほどの大きな爆発音が鳴り響いた。
「な、なんだ?」
 浮き腰になりながら口をついて出た言葉は見事に裏声で情けない。まだ小刻みに震えている壁に手をあてながら少女の方を見ると、縁側までかけていった彼女はなにやら真剣な面持ちで空を見上げていた。
「どうやら別の流れ人が来たようです」
「はあ?」
「いいからついて来て」
 訳も分からないまま、彼女に腕を引かれて部屋を出る。
 どこに向かおうというのだろう。
 深刻そうな彼女の後姿、揺れる黒髪を見つめながら木の床に足音を響かせて走っていく。すると程なくして、この社の中庭のような物にあたるのだろうか、一際大きく開けた空間に出た。
「放っておいて好き勝手されても困りますからあなたにもついて来てもらいます」
 キョロキョロと辺りを見回している亮にかまわず早口に言うと、彼女はその場に片膝をついて座り込む。もはや何も言わずに亮が視線をそちらに落とすと、彼女はさっと左手を地にかざした。
「天に座す金色の鳳 ふきすさむ風 舞い踊る風花と共に行け 風鳥!」
 そう叫んだかと思うと、まるで彼女の掌から色が流れ出すかのように、何も無かった空間が金色に染まっていく。水面に落とした絵の具のようにその金色は広がり、五秒としない内にそこには、漫画で見たような巨大な鳥が翼を広げて空中に留まっていた。
「乗ってください、早く!」
 着物と袴という姿であるにも関らず、先にその鳥の背中に器用に飛び乗ると、戸惑っている亮のほうへ手を伸ばす。亮は一度は掴もうとしたその手を無視すると、勢いよく飛び上がって彼女同様鳥の背中にまたがった。
 改めて見てみるとやはりその鳥はとても大きく、亮が少女との間に人一人入れる程度の隙間を空けてなお、亮の後ろにはまだ後二、三人は乗れそうな気がした。
「あの流れ人が暴れ出すと困ります」
 鳥の頭のそばに口をよせ、なにかを話しかけて彼女が言う。
「すこし急ぎますから、しっかりつかまっていて下さいね」
 わざとなのだろうか。亮がその声に答えようとするよりも先に彼女が軽く鳥の背中を叩くと金色の翼は力強く羽ばたき、亮は一瞬で軽く5メートルは上に舞い上がった。
「うおお?」
 思わず素っ頓狂な声を上げて驚く。しかし、対する彼女は非常に落ち着いていた。
「あちらはあなたと違ってはなから交渉や芝居をうとうなどというつもりは無いようです。場合によっては、自分の体は自分で護ってくださいね」
「は?なんだって?」
 強く吹く上空の風に邪魔されて彼女の言葉は亮にはいまいち聞き取りづらい。だがその答えが返ってくることは無く、僅かな沈黙の後で巨鳥の体がぶるるっと震えたかと思うと、体が引き剥がされるではないかというほどのスピードで巨鳥は矢のごとくまっすぐに飛んでいった。
――
「ちょ!早い!早いってば!」
 亮は叫ぶ。耳元で渦巻き、うなる空気。ともすれば体ごと飛ばされそうになる程の突風。必死に口調だけでも震えるまいとしていたが、金色の巨鳥の羽を掴む手はじっとりと汗ばんでいた。
「急ぐと言ったでしょう!」
 そんな亮の耳に、ほとんど風にかき消されながら少女の声が届く。
「のんびりしてはいられないのです!我慢して下さい!」
「いくらなんでもこれじゃあ飛ばし過ぎだ!」
 自棄になり、少し体を起こして叫び返す。と、たなびく少女の髪が顔に当たり、同時、すぐさま風が体をさらっていこうとして、亮はあわてて低く、鳥の背の上に身を伏せた。
「心配要りません、狭い所ですから。もうすぐ付きます」
 全くもって、どうして「心配要らない」事になるのかが分からないんだが、と亮は胸の内で悪態をつくと、何気なく視線を下に落とした。
「うげ……」
 目に飛び込んで来たのははるか下方に小さく見える簡素な家々。落ちればただですまないと直感させるその眺めに、亮はさっさと視線を上げ、情けなくも力強く鳥の羽を握り締めている自分の拳を見つめた。
 この状態でどこに目をやれっていうんだ……!
 頭を撫でていく風に肝を冷やして、心の中で叫ぶ。とそのとき、それまでアクション映画よろしく全速力で飛んでいた鳥が急にスピードを緩め、吹きつける風も途端に弱くなった。
「着いた、のか?」
 恐る恐る顔を上げて尋ねながら辺りを見渡す。と、小川のほとりの道端で、人ごみに囲まれてなにやらわめいている男の姿が目に入った。
 みずぼらしく汚れた着衣をまとった野次馬達の中、一人だけ漆黒のマントを羽織ったその男。それが異質のものであることは亮にもわかった。
「……行きましょう」
 その言葉に従うかのように、巨鳥が首を人ごみの方に向け、ゆっくりと羽ばたきながら下りていく。程なくして、その羽音に気付いたのだろう、辺りの者たちが皆それぞれに空を見上げ、ある者は二人の方を指差し、ある者は口々に言葉を交わした。
「巫女様だ」
「暁の巫女だ」
「でも後ろにもう一人いるぞ」
「なんだあいつは。巫女様と一緒に天の巨鳥に騎乗するとは図々しい」
 俺のせいじゃねえよ。
 さも「許しがたし」といった様子で言う男性の声に胸の内でで答え、彼らの様子にざっと目を走らせる。
 小川に田畑。歴史の教科書にでも挿絵で載っていそうな農村のような風景とは裏腹に、野次馬達の恰好は薄汚れた半袖のTシャツのようなものに短パンやスカート。お世辞にも立派な服装とは呼びがたい物があったが、景色との微妙なギャップが奇妙な雰囲気を作り出していた。
 巨鳥が最後に一度、大きく羽ばたいて地上に降り立つと、いよいよ野次馬達の声が熱を帯びてきた。老若男女皆口々に「巫女様、巫女様」といいながら、亮と並んで鳥の背中から飛び降りた少女の周りに集まってくる。あまりにその勢いがすさまじいので、亮は押し潰されるのではないかと僅かな恐怖すら抱いた。
 だが少女はそんな野次馬達に取り合いもせず、巨鳥の大きな目を見つめて小声で「ありがとう」とささやいた。巨鳥は、じっと見つめていると不気味にも思えるその大きな目を満足げに閉じると天を見上げ、大きく羽ばたいて砂埃を巻き上げながら空へ舞い上がっていった。
 その姿が見えなくなったころ、ようやく彼女は振り返ると、自分の周りを取り巻いている野次馬達を見渡す。さすがに彼らもいい加減口をつぐんでいたが、彼女を見つめる眼差しは彼女への敬い、憧れ、というよりはなにか指示を待っているかのようで、気味の悪い恐怖を覚えた亮は目を合わすまいと野次馬達の後ろ、先程まで彼らが取り囲んでいた男を見ようと人ごみの中に目を凝らした。が、どうにもその場からでは何も見ることは出来なかった。
 一方、巫女と呼ばれた少女はといえば、ゆっくりと、何のために急いでここまで来たのかがわからないほどにゆっくりと野次馬達の顔をぐるりと見渡す。それはなにか品定めでもするかのように、まじまじと。その目が群集の端まで届くと、不意に強い口調で言った。
「村の方達は直ちにお帰りなさい。ここはあなた達のいるべきところではありません」
 たった一言。まさに命令そのもの。さすがにそれは無茶というものだろうと亮が思った矢先の事。
 彼女にそう命じられた野次馬達はすぐさま踵を返し、皆散り散りにその場を去っていった。その光景はまるで今まで辺りに立ち込めていた霧が晴れていくかのようで、彼らがいなくなった後の小道はそれまでと比べて随分広がったように見えた。
 なんだありゃ?
 こちらに背を向け去っていく男の姿を見送りながら亮は思った。
 いくらなんでも素直すぎる。彼女に従うことはまだいいとして、無言で、すぐさま、というのはどういうわけだろう。あれではまるで人形か何かではないか、と。
 そんな事を考えて少女の方に視線を流してみても彼女がそれに答えてくれるわけではない。むしろ彼女の表情はどこか険しく、目の前の一点をじっと見つめていた。
「いい加減出てきたらどうですか?」
 誰もいないはずの場所を見ながら言う。亮が眉をひそめて彼女の視線の先をたどると、川のほとりに生えた草を踏み分ける小さな音が聞こえ、土手を登って一人の、どこまでも黒いマントを羽織った男が現れた。
「いや、いつまでもあの野次馬連中の相手をしているものだから待ちくたびれてしまってね」
「この距離まで近づけばあとは逃げ出そうとしてもどうにでもなります。本当はあなたがこっそり川の方に下りたときから、すこしでもおかしな動きを見せれば一気に近付いて捕らえるつもりでいました」
 やや筋肉質な長身に黒髪。時々吹くそよ風にマントをたなびかせ、片手を長ズボンのポケットに突っ込んだ男。親しげな口調で、しかしその顔にはどこかこちらをからかうような笑みを浮かべる彼に、少女は顔色一つ変えずに毅然として返した。
「出来る事なら戦いたくはありません。素直に帰る気はありませんか?」
「つれないねえ。そう言わずに開けて頂戴よ、神門」
 穏やかな口調に十分すぎるほどに嫌味ったらしい響きを込めていう男に少女は小さな溜め息で答える。一気に張り詰める辺りの空気の中、亮だけが一人取り残されていた。
 神門?
 いまだ口元に微笑を浮かべている男と、髪を風になびくがままにしてじっと男の顔を見つめている少女とを見比べながら混乱する頭で考える。『流れ人』に『神門』。帰るだとか戦うだとか、分からない事だらけだ。そもそも亮はここがどこなのかさえ、まだろくに理解していないのだ。そこに立て続けに訳の分からない単語が飛び込んで来て、いよいよ亮の頭は考えることをやめようとし始めていた。
「そこのあなた」
「え、へ?あい」
 そんなときに突然呼びかけられたので、返事までもがどこか間抜けになる。慌てて顔を上げると、それまでずっとポケットに片手を突っ込んだままでいた男がいつの間にかマントを放り投げ、両の拳を握って構えていた。
「先程も言いましたが、自分の身は自分で護ってくださいね」
「え……て、おい!お前そのままでやるつもりかよ?」
 戸惑いながらも二人を見比べ、あわてて止める。一方は体格のいい男に対してもう一方は若干小柄にも思える少女。恰好だってかたや着物に袴、かたやズボンにシャツだ。どちらが有利かなど日を見るより明らか。まして男の方は構えを取っていつでも準備を整えているというのに、少女はそれでも相変わらず両手を体の脇に下ろし、髪を風になびかせながら立っているのだ。亮には、男が大きく一歩踏み込めば彼女を殴り倒すことなどわけもないように思えた。
 だが、少女は恐怖というものがないのだろうか、あわてる亮に見向きもせず、かといって自分が慌てるわけでもなしに、相変わらず正面から男の顔を見据えていた。
「さて。それじゃあ、おっぱじめますかねえ……」
 一陣の風が走り去るのにあわせるように男がつぶやく。それまで以上に大きくなびいた少女の髪が、風が止むのと同時に落ち、その動きを止めた瞬間、男は強く地面を蹴って前に飛び出した。
 思わず息をのむ亮の不安などよそに少女は巫女装束を翻し、さっと半身開いてそれをかわす。それを追って大きく横薙ぎに繰り出された裏拳も後ろに下がってぎりぎりの所でかわし間合いを取る。足払いのつもりだったのだろうか、低くしゃがみこんだ男の右足が地面をこすって、砂が舞い上がった。
「……へえ、伊達にここを一人で支えてるわけじゃないってことか」
 立ち上がり、構えなおした男が感心したように言う。傍で見ていた亮も正直、なかなか大した物だと感心していた。
 なんだ、心配なんて要らないじゃん。
 そう考えると状況も飲み込めずに一人で慌てていた自分が随分間抜けに思えた。
 さすがに男も少しも体勢を崩さずに全ての攻撃を避けきった少女にこれ以上まっすぐ突っ込んで行く事に多少の危険を感じたのか、今度は用心深く彼女の様子を伺っている。と突然その視線が横に流れ、何も出来ずに立ち尽くしている亮をとらえた。
「おい、お前」
「……え?はい!」
 やはり突然のことにあわてて答える。男の目がいらだたしげに細められた。
「お前も流れ人だろ?なんでそんなところに突っ立ってる?」
「え?」
 いまいち彼の言う意味が理解できずに聞き返す。その様子にいよいよ頭に来たのか、男は拳を下に落とすと小さくため息をつき、亮の方に向き直って少女を指差した。
「鈍い奴だな!なんでお前はアイツに攻撃しないんだ、って訊いてるんだ!」
「攻撃?」
「そうだよ。お前も神門目当てだろ?協力して巫女様黙らせて、おとなしく神門あけてもらおうぜ?」
 状況を飲み込めない亮に何を感じたのか、男が片頬を上げて笑みを浮かべながら言う。横目で亮が少女の方を見ると、彼女は何をするでもなく、じっと男の方を見据えたままで静かに言った。
「別に、あなたの好きにしてください。払う羽虫が一でも二でもさしたる差はありませんし、今この場で一挙をもって終わるのならばこちらもその方が良い」
「ほらな?あいつもああ言ってるじゃないか」
 そう言って男が片手を差し出しながら近寄ってくる。亮は目の前に差し出された男の手を見てつばを飲み込んだ。
「ほら、どうした」
 男が上から亮を見下ろす。笑顔の中に潜む、普段喧嘩している同級生などとは比べ物にならない、昨夜の化物にも似た威圧感。胃袋が押しつぶされて、肺が締め付けられるような、それ。亮はしかしそれを嫌というほど感じながらも、重い頭を上げて彼の顔を正面から見据えた。
「すいませんが……お断りします」
 途端に男の笑みがゆっくりと消え、真顔になる。
「何分僕はまだここがどこなのかすらよく分かってない身なんで。彼女と戦う理由はありませんから」
 仮に話に乗ったところで向かう相手は亮の遠く及ばない者。眼前の男の案に乗っても亮にできることはないし、この男が亮を見捨てないとも限らない。そう、後付けの理由でとりあえず納得。今は、それでいい。実は行動の起因は直感でも、そこに理由が通れば悩まずにすむ。もちろん、恐怖はある。まるで胸に穴が開いたような虚無感と不安。脚に力は入らず。しかしそれでも喧嘩には勢いがなければどうにもならない。そう、たとえ虚勢でも、内心の怯えを表に出してはならない。
「……なるほど」
 と、返ってきたのは妙に落ち着いた男の声。悟られぬよう、ひっそりと亮は固唾を呑む。
 ヤバイ。
 あの化物の時と同じだ。何か途轍もなく大きな物が目の前にいるという実感。逃げようと思っても錘がついたかのように重い足。そこらの喧嘩では味わい得ない、恐怖。ゆっくりと深呼吸して、亮は男の挙動に集中する。
「とりあえず協力しないって言うならいいや」
 亮が動けないのを知っての事か、男が右の拳を大きく引き絞る。そして、
「目障りだから、先に消えてくれ」
 次の瞬間、亮はしばらく何が起こったのかわからなかった。自分は、ただの拳なら、と男の右腕が繰り出される直前に横に転がった。それだけ。だが男はさっきまで立っていたところから二歩分は下がったところで片膝をついて少女の方を見ている。少女はといえば、ちょうど社で亮にそうした時のように、男が立っていた辺りにむけて右手を差し出して立っていた。
「お話中ではありましたけど、ここでどちらに死なれてしまっても世の理が崩れてしまいますから。私としては、それは許しがたいものがありますので」
 失礼しました、といって男の方に向き直る。どうやら、丁度立ち上がった亮は彼女の眼中にないらしかった。
「いや、いいよ」
 男も立ち上がると彼女を見据える。彼は逆に亮のことも敵とみなしたらしく、見に沁みる殺気に亮もなんとか身構える。
「なんか邪魔なのも一緒にいるみたいだし、さっさと痛めつけて開いてもらう事にしたから」
 そう言う男の顔が不気味に歪む。いかにも悪人のそれたる笑みに、亮は思わず身震いした。
「行くかぁ……『黒衣の堕天使』」
 亮は、本気で我が目を疑った。まるで男の体から抜け出るかのように男の背後に現れるそれ。男が着ていたのと同じような真っ黒いマントを身にまとい、フードの下から紅い目のようなものがのぞいている。巨大な鎌まで持ち、ただでさえ背の高い男よりもさらに五十センチは大きいその姿はまさに『死神』と呼ぶに相応しかった。
「さて、じゃあまずは……」
 ふわふわと宙に浮いているそれにそっと手を触れながら男がつぶやく。亮はもう一度唾を飲み込むと、じっと男の目を見つめた。
「邪魔なお前から片付けるとしよう!」
 その声を合図に『死神』が亮めがけて飛び出した。風を切り、音もなく近寄って来るそれ。その鎌が振り上げられた瞬間に辛うじて転がって黒いマントの下を潜り抜けると、亮は出来るだけそれと間合いを取って振り返った。そのつもりだった。
「な……!」
 振り返った視界に飛び込んでくる黒。天高く振り上げられ、不気味に輝く大鎌。一瞬固まった亮の体に、それは容赦なく振り下ろされた。
「飛鳥!」
 その時、亮の耳に澄み切った声が飛び込んできた。続いて左の方から亮のすぐ前を目にも止まらぬ速さで飛んでいく青い何か。立て続けに鎌に赤いものが、『死神』の体に白い物と黒い物がぶつかり、『死神』は大鎌もろとも大きく横に吹き飛んだ。
「何をやっているのです!わざわざ怒らせた挙句、自分の能力を使いもせずに他人の能力にぶつかっていくだなんて……」
 駆け寄ってきた少女がかがみこみ、亮の方に手を差し出しながら言う。亮はその手のほうに伸ばした腕を引っ込め、再び浮き上がった『死神』を注意深く見据えて立ち上がった。
「あなたが命を捨てるのは勝手ですが、それならよそでやってください。ここであなたに死なれるのも、彼に死なれるのも、私にとっては等しく迷惑なのです」
「んなこと言われたって知るかよ。だいたい能力って何のことだ」
 ちっ、まだ来るか……。
 眉をひそめ、ふわふわと空中で揺れながらゆっくりと近づいて来る『死神』に胸の内で舌を打つ。だが、そんな状況にも関らずなぜか、早々に男の方に向けた視線を亮の方に戻してじっと見つめ続けている少女の視線が気になって、再び彼女の方に顔を向けた。
「何か?」
「まさか……まさか本当に何も知らないのですか?」
 信じられない、といった顔でほとんど呟くように尋ねる彼女。早くも間合い五メートルほどにまで近寄った『死神』から僅かに後ずさりながら亮は答えた。
「だから、最初から言ってるだろうが……!」
 そのとき、急激に『死神』が二人との間合いを詰めた。はっとして身構える二人めがけて大鎌を振り上げる。瞬間聞こえた足音に振り返れば、男の方も拳を握り締めて二人の方へと走ってきている。
 くそっ……!
 思わず奥歯を食いしばる。他に手はない。もう一度横転して難を逃れようとしたその時、何かひやりとしたものが亮の瞼に当てられて、彼の視界は奪われた。
「お、おい!」
「飛鳥!」
 慌てる亮の耳元を通り抜けていく熱。おそらく『死神』のいた辺りから聞こえる金属音と何かが弾け飛ぶ衝撃音。そして、
新月の夜闇 音無の風 光の射手は天を駆ける 白光!」
 注意深く聞かなければ聞き取れないのではと思えるほどの早口。彼女がそれを言い切った次の瞬間、亮は背中の方で何かすさまじい光が起こったのを感じた。
 何だ……?
 気にはなるが振り返らない。それはなにか本能じみたものが振り返ってはならないと告げていたからでもあり、瞼に当てられた少女の手がそうさせまいと亮の頭を抱き寄せて固定してしまっているからでもあった。
「……」
 しばらくして何も言わずに視界が解放され、ようやく亮はゆっくりと目を開く。と、すぐ目の前にいたはずの『死神』がいつの間にかいなくなっていた。
 どこに……
「こちらです」
 状況が飲み込めずに呆然としている亮に、背後から声がかけられる。振り向いた所には、なぜか目を押さえて転がっている男とそれを見下ろしている少女の姿。
「先程のものでこの男は今、一時的とはいえ視力を完全に失くしています。能力の使用は得てしてそれ相応の集中力が必要ですから」
 つまり、突然の緊急事態に陥って能力とやらを使えなくなった、という事か。そして彼女は同時に「あの光は一時的に視力を完全に失くしてしまう程に強力なものだった」とも言った。亮は心の底から、あの時少女の手の中で瞼を開けなくて良かったと思った。下手に好奇心に負けていようものなら今頃どうなっていたか分かったものではない。そう考えると今更背中を何かが駆け上がっていくような感覚がして身震いした。
「で?改めて聞くけどさ、その能力だとか流れ人だとかって何の事なのよ?」
 目を押さえ、地面を無様に転げまわっている男から目をそらし、先程までここであまりに現実離れした戦いがあったというのが嘘のように、少しはなれた道を笑いながら走っていく子供達を見る。実際、村人たちはこの騒ぎを何とも思っていないようだった。少女がそう命じたからなのだろうか、誰一人として三人のいる辺りには近付こうとしなければ、遠巻きに様子を伺っているわけでもない。これだけの大騒ぎに誰も見向きもせずにいる、というのは余りに不自然で、どこか居心地が悪かった。
「少し待って下さいね」
 そんな亮の胸の内を知ってか否か、少女はそう言うと男の脇にかがみこむ。その声に亮が振り向く直前、かすかに鈍い音がして、亮の目がそちらに向いた時には、いつの間にか男が脱力しきって伸びていた。
「何してんの?」
「この流れ人がどこの方なのか調べないと。ちゃんとあるべきところに送り返さないといけませんから」
「ふうん」
 もちろん彼女の言うことの半分も理解できてはいないが、どうやら説明はすべて後で、ということらしいのでおとなしく聞き流した。
 少女はそんな亮をよそに男のマントやらズボンのポケットをあさっていたかと思うと程なくして何か見つけたらしく、男のマントのポケットの一つからコンパクトのような機械を取り出すと、小声で何かつぶやいて立ち上がった。
「分かったのか?」
「ええ」
 短く答えると右腕を前に突き出して掌を広げる。何かに触れるかのごとくそっと指先を曲げこみ、瞼を閉じ、静かに息を吸い込むと口を開いた。
「散在する世界の守人共よ 今こそ集いてこれを聴け この罪深き旅人を あるべきところへ導きたまえ 龍門」
 いくら僅か数時間の間に立て続けに似たような物を見せられているからといって、これはそう簡単に慣れるものではない。今度もこれまで同様亮は目を見開き、眼前の光景にただ目を奪われていた。
 確かに何も無かった空間に突然赤い裂け目が縦に大きく入ったかと思うと、それが何かにこじ開けられるかのように広がる。やがて大人一人が余裕で通り抜けられるであろう程に大きく広がったそれの向こう側には赤紫色一色の不気味な空間が広がっていて、妖しい光を放ちながら渦を巻いていた。
 それを見届けると少女は再び男の脇にかがみこんだ。無言のうちに片腕を男の背中に、片腕をひざの裏に回すと立ち上がる。小柄な少女が大の大人を悠々と持ち上げている。これもまた随分と異様な光景であったがどういうわけか少女は平然と立っていて、亮はただぽかん、とそれを眺めていることしかできなかった。
「これに懲りて、二度と馬鹿なことは考えない事です」
 最後に諭すかのように男にそう呟くと、ぐったりと腕を垂らしている男の体をその赤の空間に放り込む。見る見るうちに男の体はその不気味な空間に飲み込まれていき、程なくして空間の裂け目ももとどおりになった。
「さて、後は小修理をすればおしまいですか」
 あっけにとられている亮などどこ吹く風。まるで気にも留めずにその横をすり抜けると、今度は少女はその場にかが見込み、地面にあいた穴――丁度『死神』が倒れたあたりだ――に手をかざす。
「地の果てに眠る猛き獣 星を仰ぎ 空に咆え 再生の歌を奏でるがよい 息吹」
 彼女の呼びかけに応えるかの如く地面が僅かに震えた。途端に地表の穴は埋まり、踏み潰された青草は再び天を目指して凛と立ち、辺りを一陣の風が優しく吹き抜けた。
 何なんだよ、一体……。
 意味あり気な言霊と共に不思議な能力を操る少女。彼女に倒された男の方も十分驚嘆に値したが、その何倍も彼女の能力は亮を驚かせた。
「さあ、それでは帰りましょうか?」
「あ、ああ……」
 唖然として立ち尽くしている亮の方を振り返ると、小首を傾げて少女が言う。はっとしてそれに答えると、いつのまに呼び出したのだろう、宙にとどまって羽ばたいている黄金の巨鳥の上に飛び乗った。
――――
「本堂に戻る前に、大鳥居に寄りましょう」
 前方、山の上、雲の奥に社を、右手はるか下にうっそうと木々の茂る森を見ながら少女が言った。鳳の翼が羽ばたくたびに風のうなる音が聞こえる。
「なんだ?その本堂とか大鳥居って」
「本堂は私の住まう屋敷のこと。大鳥居は社の入り口です」
 そう言って「ほら、あそこ」と下の方を指差す。見下ろしてみると、そこには確かに真っ赤な鳥居が堂々と立っていて、長く急な石段がまだ前方に見える社の屋敷とをつないでいた。お世辞抜きに素晴しいといえるその光景を足元に、しかし亮は眉を顰めた。
「あれが?社の入り口か?」
「そうです」
「……まさか」
 信じられないという気持ちを前面に出して言った亮の声に、鳳の嘴を鳥居の方に向けて少女が振り返る。
「だって入り口って言うことは社に来る人間はそこから入ってくるんだろ?そんなことしたら、あのとてつもなく長い石段を登っていくことになるじゃないか」
 違うか?と言って、急降下する鳳の羽に必死でしがみつきながら尋ねる。だが少女は一瞬だけ驚いたような顔を見せただけ。すぐに「そんなことか」といわんばかりの表情でため息をつくと前を向いてしまった。
「村人達は本堂まで登ってきたりしませんよ。本堂はただそこにあるもの。彼らが登ってくることに意味がありませんから」
「……それは社って言うのか?」
「ここでは、言います」
「さいでっか……」
 普通神社とかって、人が来てなんぼじゃないのか?
 横を向いてつぶやくと、丁度着陸した巨鳥の背中から、小さな疑問と、軽い足音と共に石畳の上に飛び降りる。正面にそびえる大鳥居にはなかなかの迫力があり、見上げればそのあまりの大きさに押しつぶされてしまうかのような錯覚を覚えた。
「で?こんなところに何の用があるんだ?」
 後から地上に降り立った少女の方を振り向き尋ねる。少女は風に乱された黒髪に手櫛を通し、鳳の嘴を撫でてやりながら辺りを見回す。
「そろそろ村人からの供物が届くころなのです。……ほら、ありました」
 そう言われて、少女の視線を目で追う。言われてみれば確かに、鳥居の脚のそば、石段の脇、ところどころに大小さまざまな木箱が置かれていて、見事に風景と同化していた。
「供物って?」
「主に食物ですけど、時々糸や布が混じることもあります」
 なんとなく尋ねた亮の言葉に淡々と答え、その場でパン、パンと二度手を叩く。
 どうしたことかと亮が怪訝そうに眉をひそめると、どこに潜んでいたのか、二人の前に四人の男が立っていた。
 なんだ、こいつら。
 不信感というよりも好奇心からそう思い、男達を観察する。
 彼らは皆それぞれに体格がよく、顔立ちは良いというわけではなかったがかといって悪い、というわけでもない。よく言えば標準的。悪く言えば中途半端ということになる。やはりこの四人も先の村人達と同じなのか、まるで彼女の指示を仰ぐかのごとく無言で少女の前に立っていて、少女はそんな彼らにまるで感情のこもらない声で言った。
「いつもの通りに」
 たった一言、それだけ。朝方亮と話したときよりも、少し前に野次馬を散らした時よりも、「流れ人」と呼ばれた男と話していたときよりも、冷淡で、まるで彼らを見ていないかのような口調に思わず亮は身震いした。恐怖、とはすこし違うと思うのだが、それに近いのかもしれない。口調のせいもあるのか、どこか冷たげな、そう、完全に人ではなく物を見るような少女の横顔を見た瞬間、何かが背筋を這い上がっていくような感じがした。
 男達はそんな彼女に何も感じないのだろうか、何も言わずにただ頷くと、各々近くの木箱を抱え挙げると鳳の背につんでいく。鳳のほうはその程度の重さなどまるで苦としないらしく、嘴を鳴らして少女に「撫でてくれ」とでも言っているかのようだ。
「おい、いくらなんでもありゃないんじゃないか?」
 恐る恐る少女のそばに近寄って言う。男の一人に話しかけようかとも思ったのだが、その黙々と荷物を運ぶ態度がそれを拒否しているように感じられたのだ。
「一応運んでくれるんだから……」
「別に、必要ありませんよ」
 と、亮の言葉を途中で遮って少女は言う。
「この四人はそのためだけに存在して、ほかの事は何もしないのですから。まだ生活を営んでいる村人達のほうがいくらか敬意を持つ価値があるというものです」
 どこか苛ついたような声でそういうと、踵を返して鳳の横に戻る。そのまま、囀り、と言っていいのだろうか、馬の嘶きに似た声を出す鳳の翼にそっと手を添えると勢いをつけてその上にまたがる。
「そのことも、あとで話します。乗ってください」
 どうやら単調で異様な積み込み作業も終わったらしい。鳳の背が広いせいか、その量からは考えられないほど安定している木箱に触らないように飛び上がり、少女の後ろにまたがる。風に吹かれた彼女の髪が風に当たるのをそっと手で払い、ぐっと身を伏せて羽を掴む。
「行って」
 彼女がそうつぶやくと、再び鳳は空高く舞い上がった。
――
 てっきりこの屋敷は全て木と障子張りの襖で出来ているものと思っていたのだがどうやらそういうわけではないらしい。いくつかの部屋を通り抜けて亮が通されたその部屋は一面に畳が敷かれていて、花の絵が描かれた襖は質素なほかの部屋のそれとは対照的だった。
「お待たせしました」
 と、その鮮やかな襖が開いて、少女が部屋の中に入ってくる。彼女が手にした盆の上には湯飲みが二つ湯気を立てて乗っていて、目の前、畳の上の低い机の上にそれをおくと彼女も亮の向かい側に腰を落とす。
「さっきの荷物はどうするんだ?あのでっかい鳥の上に乗っけたままにしてきちゃったけど」
 差し出された湯飲みを右手で受け取りながら尋ねる。少女もまた自分の湯飲みを両手で持ち上げると静かに、まだ熱い茶をすすりながら答える。
「心配要りません。しかるべき場所に、あの鳥が運んでおいてくれます」
「ふうん」
 つくづく、便利なもんだと思う。人を乗せて空を飛ぶかと思えば荷物の運搬、搬入まで済ませてしまうとは。あの尋常でない大きさにさえ目を瞑れば一家に一羽いてもいいかもしれない。
「さて、それではお話しましょうか」
 ふうと息を吐いて湯飲みを置くと、相変わらずの淡々とした口調で言う。たしかにそれまでと口調が変わったわけではなかったが、今はその声がどこか張り詰めた雰囲気を作り出しているように思えた。
「……まず、一般に世界と称されるものには二種類あります。私は神界と俗界と呼んでいますが」
「『私は』?」
「もともと決まった呼び名が無いので呼び名がいくつもあるのです」
「ふうん……」
 よくはわからないが、とりあえずそういうものなのだろうと納得する。算数の基礎を習っているときに、一足す一がどうして二なの、と訊くようなものだ。世の中には、何も言わずに納得しておかなければいけないこともある。亮がとりあえず黙って最後まで聴くことにして、「続けて?」と言うと、少女は「はい」と頷いて再び口を開いた。
「俗界に属する世界の数は計り知れませんが、一つだけ共通する事があります。それは一つの大きな情報記憶体の中に、俗界の全ての情報、地理的構成から生物の脳の内部に至るまでが保存され、それによって形成されているということ」
 どこかで聞いた事があるな。
 少女の言葉に耳を傾けながら考える。
 確か……唯心論とか言ったっけ。世界は物によってなされるのではなく、心、意識などの情報によってなされる。アカシックレコードだとか無量寿光とか言うものに全ての人間の意識は集約され、その情報によって世界は構成される。たとえば、一万人中の十人が「UFOは実在する」と信じてもUFOは存在しないが、九千九百九十人が「UFOは実在する」と信じればその瞬間からUFOは存在する、ということだ。
 あれ、何で読んだんだっけな……。
 頭の片隅で記憶を探る亮のことなど知らず、少女はさらに続ける。
「そしてその支配にとらわれず、それどころかその情報記憶体を外部から操作することさえ出来てしまう唯一つの世界、それがいまひとつの神界というわけです。ここまではよろしいですか?」
「ん、ああ。大丈夫だ」
 答えて湯飲みを空にする。熱さには耐えられるほうなので特に苦も無い。喉を駆け下りていく熱湯の感覚が引くのを待って、ぼんやりと亮は言葉を紡いだ。
「しかしお前、なんか慣れてるって感じだな。人間と話してるはずなのに、なんか博物館の音声解説でも聞いてるみたいだ」
 すらすらと必要なことを語る彼女の口調はまさしく、決められた説明を読み上げるそれにそっくりで。しかしそれに返ってきた声はまったくそれまでの緊張感の薄れたものだった。
「……なんですか?その博物館だとか音声解説だとかいうものは」
「え?あ、えっとだな……まあ、気にしないでくれ」
 咄嗟に説明しようかと思って口を開きかけてから、やっぱり面倒だと思い直す。
 そうか。
 彼女の話から察するに――もちろんそうでなくてもうすうす感づいてはいたが――ここは亮の知っている世界とはまったく別の空間、場所であるらしい。そうであれば亮にとっての常識が彼女に通用しないのも頷ける。
「まあ、確かに慣れてはいますから」
 少女の方は、まだ「博物館とはなにか」とでも問い詰めたそうにちらっと一瞬亮を見て、そのままその目を湯飲みの中に落として言う。
「え?」
「言ったでしょう?すこし考えた流れ人は皆、何も知らないふりをして私をだまそうとするのです。最近はそういう手合いは無視することにしているのですが、昔はいちいち説明していましたからね」
「昔って……」
 せいぜい俺と同い年だろうが、といいかけて口をつぐむ。まだ本筋の話が終わっていない。この場合興味本位の話は後回しにするべきだと思うし、何より彼女の放つ静かで、何事にも動じぬと見える雰囲気が亮にその問いを許さなかった。
 ふむ……。
 開いた口を閉じ、横を向いて顎に手をやる。言葉に困った時の亮の癖。我ながら年寄り臭いと思ってはいるのだが、その程度で直せないからこその癖。それほど躍起になって直すべき悪癖とも思わないので、最近はむしろ個性と割り切って気にしないようにしていた。
「ん……、そういえば朝言ってたよな?そういう手合いは皆『神界に送ってくれ』って言うって。あれはどういう意味なんだ?」
 ふと思い出して亮が尋ねると、少女は目を閉じ、細く息を吐いてから口を開く。
「本来、世界の中の者は世界の壁を破っての移動は出来ません。そういうふうに作られていますから。ですが、稀に情報記憶体に手を加える能力を持った者だけはその壁を越え、自由に俗界から俗界へと移動する事が出来ます。この能力を持った者たちを『流れ人』と呼んでいます。そしてその中には俗界の中だけでは飽き足らず、自分達の世界を支配しうる神界へ出ようと試みるものがいるのです。絶対的な支配力への渇望は当然の感情ともいえますが、だからと言ってこれを許すわけにはいきません」
「……どうして?」
「当然です。俗界の住人が俗界全てを根本的に覆す力を手にすれば、無数にある俗界の全てのバランスが意図的に崩される危険が生まれます。書き物の中に生きるものは筆に触れてはならないのです」
 あっさりと言ってのける。その表情はなにか当然のことを話すようでありながら同時に諦めに似た色も見て取れた。
「さて、それであなたをどうするか、という話ですが」
 一瞬沈んだ表情をすぐにもとに戻し、それを観察していた亮の瞳を見つめていう。
 それにあわせて声の調子がどこか明るく、澄み切り、その変化があまりに突然だったので亮は思わず改めて座りなおしてしまう。
 どうも彼女のかしこまった調子は他人の心の居住まいをも正してしまう力があるらしい。
 なんとなくそんなことを思いながら声まで改まって「はい」と答えると、彼女は声の調子を変えることなく続けた。
「現状であなたのいた世界やここに来るまでに通ってきた道が特定できない以上、私が調べて探し当てるほかありません」
「できるの?」
「やるしかないでしょう」
 機嫌を損ねてしまったのだろうか。即答した彼女に気圧された亮が口ごもる。
「いくら小さなところとはいえ、私が一つの俗界を治める存在である以上は適当なことは出来ません。この世界からあなたを追い出せば万事解決とはいかないのです」
 もちろん、亮とてそんな解決方法は遠慮願いたい。ここからさらに別の世界に流されて、自力で帰るすべを探せなどといわれても無事に帰宅できる見込みは無いのだ。今は、見たところ亮を返す術を持っていそうな目の前の彼女の力量を信じるしかないだろう。
「とりあえず、私があなたの帰るべき世界を見つけるまでの間、あなたは私の客とし、その面倒は私が見ます」
「いいの?」
「ほかに行くあてでも?」
「……」
 ありません、とつぶやく亮をよそに、二人分の湯飲みを盆にのせて立ち上がる。
「ご心配なく。住まうものが一人増えた程度ではかかる手間もさほどかわりませんから」
「悪いね。……あ」
 部屋を出て行く彼女を見送ろうとしたその時、ふと亮の口をついて言葉が出た。
「何か?」
 半分襖を閉めかかった状態で怪訝そうに尋ねた彼女を見て、亮は立ち上がった。
「そういえばお互い自己紹介がまだだったと思ってさ。俺は渡来亮。お前は?」
「……」
 あくまで気楽に尋ねた亮。しかし少女は亮の顔をじっと見つめたままで黙り込み。亮は内心でたじろいだ。
「な、なんだよ」
 と、戸惑う亮の顔をじっと見つめ、ため息混じりに少女は口を開く。
「あなた、さっきから思っていたのですけど、今朝あったばかりの人間をよくも『お前』呼ばわりできますね?」
「だってそれは……」
「まあ、かまいませんけど」
 あんな事があったら、と亮が不平を垂れる前にそれを封じて背を向ける。どこか穏やかだった少女の雰囲気が急に冷たくなって、奇妙な静けさの中で彼女は言う。
「私は暁の巫女。俗界が一つ、暁の村の主。名は、ありません」
「ありません、って……。無いの?」
「そう言っているでしょう。私のことは、好きにお呼びください」
「好きにって……、おい!」
 亮は、振り向かずにそういって襖を閉じる彼女を前に、言葉に詰まって立ち尽くしていた。その気になれば彼女の肩をつかまえてとめることも出来たけれど、神妙で、淡々とした彼女の口調はそれを許さなかった。
「好きに呼べっていわれてもねえ……」
 首に手をやり、天井を見上げて座り込む。
 その時、空がかすかに歪み、波打ったことに亮は気付きもしなかった。