知性が大事36

その日、滞在先に家に戻り、夕食後、庭においてある椅子に座っていたとき、曲が近づいてきて、もうひとつの椅子に腰掛けた。
そして、今日のクラスでの議論について話しはじめた。
「あのさ、今日のクラスでの議論のことでさ、議論のときにも出ていたけど、日本は現在、十分に豊かな国だよね。戦後直ぐの食糧難の時代と違って、クジラ類が重要な蛋白源などということはないだろう?
それなのに、多くの国の反感を買ってまで,捕鯨を続けるってなぜなのかぜんぜん分からない。その点はどうなの」
たとえ、他の国の反発があっても、伝統的食文化ということで、日本はこれを死守しなければならないということなのだろうが,この伝統食文化というのは,はなはだ疑わしい。
日本の捕鯨は、古くから特定の地域で伝統的に行われていたのだろう。またその地域では、これを食料とすることがあったに違いない。
しかし、これはあくまで、ごく限られた地方文化にでしかない。
クジラを食材とすることが、全国区になったのは,なんと言っても戦後のこと。食料,特に蛋白源が十分になかった頃,アメリカが自分の国では要らなくなった南氷洋での大掛かりな捕鯨用具を、日本での捕鯨を復興させるべく、日本に供給したことに端を発する。
畜産業がほとんど育っていなかった日本において,肉牛を急速に普及させることは無理であったし,肉牛を食するということ自体、人口に膾炙した食文化ではなかった。
一方、鯨肉は一部とはいえ,これを食する文化が、すでにあったので,たんぱく質不足の日本人には,大量捕鯨よる鯨肉を食材とすることが良いと当時のGHQが判断したのだろう。
こうして、大型捕鯨船団を仕立て、南氷洋にまで出かけてのシロナガスクジラマッコウクジラなどを捕獲し、以前は輸出用の鯨油採るためだけであったものを食材として利用する習慣を日本人は持つようになり、その漁獲量はどんどんと増大した。
国内における鯨肉の流通路も固まっていき,鯨肉の竜田揚げなどが学校給食にも取り入れられ、鯨肉を食べることが一般に広まったのだ。
大掛かりな捕鯨産業の復興に力を貸したアメリカには、いずれは日本をアメリカのような食肉消費国に仕立て,アメリカでの畜産業を下支えする思惑があったに違いない。
同様のことは、戦後に大量にもたらされた小麦にも言える。食糧難を救うという名目で、日本ではわずかな流通量しかなかった日本で、アメリカで余剰となった小麦および,小麦粉を使ったパンを大量に日本で作って,これを学校給食に採用させた。
これによって、日本人の舌をパン食になじませようという戦略をとった。
この日本におけるGHQの戦後統治の戦略は功を奏し,現在の日本人は大量の食肉,小麦粉製品の消費国となった。
予定外だったのは、食肉への橋渡しとして,鯨肉を食べることを推奨したに過ぎなかったのに、日本人が食肉文化が定着してからも,鯨肉を食べることを止めようとしなかったことだ。
戦後直ぐのころには、欧米でもクジラ類を特別扱いする思想は全くなかった。
しかし、60年代後半から70年代初めにかけて、欧米では、クジラ類を他の動物とは全く違う、知性ある動物として保護しようという気運が高まってきた。
日本人の与(あずか)り知らないところで、クジラ類に関する考え方は大きく異なっていった。