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昨年の小林秀雄賞は高橋秀実の『ご先祖様はどちら様』(新潮社)が受賞した。小林秀雄賞は新潮社が主催する賞で、受賞作は新潮社の『考える人』誌上にて発表される。選考委員には関川夏央も入っている。『ご先祖様はどちら様』は、『考える人』で連載された。序章に出てくる、高橋秀実を「お前」呼ばわりし、俺とお前は縄文人だから、とよくわからないことを言い出し、『ご先祖様はどちら様』を書かせるきっかけになった人物は関川夏央である。といういちゃもんをつけたいのではない。
『ご先祖様はどちら様』は素晴らしい本である。高橋秀実の素晴らしさは、彼の本を読んでいると、まるで何かが分かるようにならない、ということだ。むしろ、何も分からなくなる。分かっていたことまで分からなくなっていくような、スリリングな心地よさがある。これは、ノンフィクション作家として欠点のように思われるかもしれないが、実に逆なのである。しかも、高橋秀実はノンフィクション作家として、基本に忠実である。分からないことがあるからちゃんと取材する。人に話を聞きにいくし、文献にもきちんと当たる。現場にも足を運ぶ。きちんと取材をするにしたがって、段々と分からなくなっていくのだ。分からないからこそ、取材をして、調べて、そのことについて考える。そしてその考えを言葉で文章に表していくと、よく分からなくなる。このことの魅力を高橋秀実はよく分かっている。『R25』の連載「結論はまた来週」の昨年9月15日号で高橋秀実はこんなことを書いている。
例えば、ある人を批判する文章を書くとしよう。通常、書く前にその人に対するイヤな気持ちを持っており、その気持ちを書こうとする。批判する以上、事実関係に間違いがあると逆にこちらが批判されてしまうので、慎重に正確な言葉を選び、書き進めていく。その人の欠点を挙げ、裁判のように証拠を連ねていくという展開になるのだが、こうして書いていると、途中で欠点だと思っていたことが、実は魅力であることにふと気がついたりする。
(中略)
当初抱いていた印象が、言葉に置き換えているうちに、反転する。その際、当初の考えを曲げずに押し切ろうとすると、文章と自分の間に乖離が生じ、その隙間を埋めるように薀蓄などを入れたくなる。文章はどんどん重たくなり、結果、何かをなぞったようなつまらないものが出来上がる。しかし、ここで当初の考えを捨て、言葉に従っていくと、その先には新たな発見が生まれる。まさに思いもよらぬ展開で、その驚きはネタが古くなっても新鮮なのである。
ここには、高橋秀実の文章作法の基本が詰まっている。自分がこうだと思っている、こういうふうに分かっているという対象を調べ、文章にしていくと、さっきと考えが違っていってしまう。さっき分かっていたことがはっきりしなくなる。さっき分かりきっていたと思っていたことが、段々と分からなくなっていく。この思考のダイナミズムが、高橋秀実の文章にはあふれている。
『ご先祖様はどちら様』は、自分たちは「俺たち縄文人」と関川夏央に言われたことで、自らのルーツは何なんだろうと気になり始めた高橋秀実が、様々な人々に「先祖探し」を聞いて回る物語である。自分の父母、戸籍を調べようと市役所の係員、日本人の原点は『古事記』だろうということで、神話の世界のスサノオノミコトの末裔である宮司、曽祖父の高橋準一郎が住んでいた宮城県大和町の人、そもそも高橋という名字を持つ人はみんな同じ一族なのかと、「全国鈴木サミット」を開催する「藤白鈴木会」会長の鈴木さん、前世カウンセラー、母の母の母の母の本籍である静岡県小島村の人、家紋で先祖が分かるかもと日本家紋研究会副会長、どうやら武田家と関わっているらしいといことで、山梨県市川大門から流れてきた同族の市川さん、源氏ならば清和天皇とつながっているではないかということで、清和天皇陵の近くの人。
まあいろんなところに実際に足を運んで、いろんな人に話を聞く。そうしていろんなことを学びながら、結局はよく分かりませんでした。それでいいのだ。高橋秀実の文章を読んで、「そうか、そういうことか!」という何かが理解できる、というのはおかしい。確かに、様々な新しい知識は手に入る。しかし、高橋秀実は、そういうこととは関係なく、考えれば考えるほど分からなくなることはたくさんあって、それでいいんではないか、ということを伝えてくる。これが、高橋秀実の文章の面白さなのだ。
ちなみに、2010年に刊行された『おすもうさん』(草思社)も、高橋秀実の魅力が存分に詰まった素晴らしい作品である。これも相撲とはいったい何なのか、よく分からない高橋秀実が、相撲を理解しようと力士や親方や行司、様々な相撲関係者に取材し、文献も調べ、歴史を調べ、自分で土俵に立ってみたりしながら取材を続け、結局よく分からなくなる過程を描いた物語である。高橋秀実自身も、あとがきでこう書いている。
「早い話、相撲とはそもそも何なのか? と問いを立て、その答えを探ろうとしたのです。ところが実際、探り始めると、そもそも「国技とは何か?」そもそも「伝統とは何か?」「神事とは何か?」「神とは何か?」と疑問は次々と広がり、終いにはそもそも「何かとは何か?」ということまで考え込んでしまいました」
分かっていたと思っていたことまで、分からなくなる。文章を読んだことで、自分が分かっていたことが少なくなってしまう。読む前と読んだ後で、分かることを増やすのが普通の読書だろう。高橋秀実の文章は、そんな普通の読書とはまるで逆の体験を味あわせてくれるのだ。