誰が一番不幸なのか

久しぶりの日記です。今春、無事大学を卒業しました。
大学に進学された多くの方々が行うあの、学業を行いながら、職場を決めるための、あるいは手に職をつけるための活動、いわゆるシューカツをこなすことができませんでしたので、今は書店にてアルバイトをし、次何しようかなぁと模索しております。今年で25にもなる、典型的な「私立文系」です。
マルチタスクといいますか、同時に複数のプロジェクトを進行することがあらゆる位相で不得手です。
大学生になる際にも、いわゆる「なぜ勉強するのか?」問題に真っ向から立ち向かい(楽しかったです)、一年の浪人生活を要しました。
大学を卒業する際にも、いわゆる「自分」や「幸福」や「時間」について何の時間的制約も設けずに、精神を病んだ兄弟が毎晩壁を殴り続ける中で、淡々と考えたりしておりました(すべて必要のない概念でした)。

この社会を回したくない人がいる。

私はそちらの方の声に寄り添って生きている。

笑うことやごまかすことができない人が、生まれさせれたばかりに毎秒構造的に壊さざる・殺さざるを得ない何かに目を向けざるを得ない、感受性のスイッチが切れない出来損ないの人が、死ぬことを選ぶ人を助けようとする人の横暴に耐えられない人が、隣にいる。

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2010年4月16日18時45分にバックアップされた編集内容を挿入しました。
ここまで書いて、私は生活雑感の言語化をあきらめたらしい。
その後何も考えず(意識的に選ばず)公務員試験を受けて落ち、同じ場所に、より社会的地位の低い状態で戻ってきました。今資格の勉強をしながらシューカツをしています。

そして今日現在、ここで性懲りもなく過去を点検している。
ひさしぶりのネット活動だ。

なぜ今ここでまた不毛なことを書き記そうとしているのか。
間接的には尖閣のニュースや自殺配信ニュースに触れたから。
直接的には明日面接があって「自己分析」をして「志望理由」をひねり出そうとしているから。

精神を病んでいる人が身内にいる。
無差別に攻撃を繰り返す人が隣にいる。

そんな環境で得た教訓めいたものを挙げるとすれば、

「生理的・物理的・脳の状態的に言葉が届かない人間を動かす(私にとって利する方向にしろ損ずる方向にしろ変える)には対象の目に見える行動によってしかない」

ということ。

自分にとって不利益な現実がある。
その現実を変えるには、行動を伴った主張しかない。
具体的には、機密情報のアップロードであったり、自殺配信だったりする。

自分自身としては、ある具体的な行動が、クソな現実を変える手段として効果的かどうかを、あらかじめ見積もりきることはできないと考える。だが、より効果的と判断できる行動は合理的な思考によって選択し得る。しかしそれでも、現実としての対象が思いもつかない利によって駆動するとき、あらゆる合理的手段としての行動の効果は不確実の海に消えることも確かな気がする。

今言っていることは既に言い尽くされていることだ。
だからみんな苦しんでいる。
そして、合理的な思考を放棄したかのように、最終的にはただ自分の快楽の導くままに行動を選択する。
結果として全体のエントロピーは増大し、カオスが拡大する。


いなくなること。
関わりを断つこと。
それは責任の放棄だろう。
政権、自殺した彼。
だが問題解決の手段として無効であるとは限らない。
同じことは形を繰り返してきたきたし、これからも繰り返されるだろう。
人間は学ぶだろうか。
わからない。
でも私は学びたい。

解を出すこと、態度を決めること、選択をすること、決めること、判断すること。欲しい世界を表明すること。
信じられるうちは、積極的に洗脳して、洗脳されて、自己正当化をしまくったほうが良いと判じよう。
正気でいることは何の得にもならないし、狂うことはそれほど損にはならない現実の中で。

ミスト

ティーブンキング原作、フランクダラボン脚本・監督の映画ミスト The Mistを見た。
"見終わった後、誰を想い何を思うか"
と問われていたので日記に。

まずわーっと思ったことを書こう。
悲しい。鬱エンドっていうか衝撃のラスト15分の看板に偽りはなかった。
「あの化け物に僕を殺させないで」という一番の約束は確かに守られたけども。
けども、もうちょい待てなかったかね…。せめて餓死寸前まで。いやせめて奴らに殺されるのが確定するまで…。うう。
でもあんなドでかい奴見せられた後じゃ、さすがの主人公の心も折れてたんだろうな。最後の慟哭がズンと来た。
ていうかカルトのおばさんがいなければ…てかなんで無視せーへんねん。日本やったら家族か仲良い友人以外の狂ってる奴ってまともに相手しないで目も合わせず無視→無言のまま腕力とシステムで隔離がデフォやからそう思うんだろう。つっても神という共有概念が潜在的にある文化圏であんな状態になればきっかけ一つであれに似たような原始的な集団心理は働いてしまうのか。あるいは俺が世間知らずなだけでああいう振る舞いは至る所で起ってるんやろか。見えないだけでそうかもしれんな。
カルトのクソばばあが居なかったとして、食料豊富なあの場所でなら耐えてられたんだろうか。最初に出てったおばはんが助かってる当たり、そう遠くない場所まで救助の手は来てたとも考えられるし、なんともやりきれん。
設定のおかしさに突っ込んでもしょうがないのは分かってるけど、突っ込みたくなるほどのめり込んで見れた。創作物に身も蓋もないなんでこうせーへんねん!というつっこみはいくらでも可能なんやけど、すっと世界観に入っていけたということはそのまま舞台設定・演技演出の巧みさで良い映画の醍醐味だ。

一呼吸置いて。
狂った世界で理に頼りたくなるのは現実も変わらん。
そして理に依って動いて最善の結果が出るかは不確実なのも同じ。
理もまた移り変わるし、翻って映画の帰結を良しとすることも不合理ではない。生き残ったのだから、あるいは残った人々は駆逐されているかもしれないから。
行動の正しさを予め見積もり切ることはできない。
だったら理性を捨ててその都度の感情に身を任せて刹那の快楽を味わっていつでも死んでもいいと開き直ることもできる。
だが真に生き死にの切迫した場面でどう振舞うかが想定し得ないからこそ、不安という感情は残り続ける。思ったように生きているつもりでも。
あるがまま世界を見ることは恐ろしいことだ。
ちっぽけな見栄やプライドが如何に大事なものか。

宇宙戦争が起こったら人類は一つにまとまるという。
明確な外敵が存在して初めて一致団結できるんだと。
だけどこの映画を見る限り、それすらも夢想かもと思う。
不可能だけど不可避な約束事の如何に遠いことか。
狂ってしまっている方が誠実なのは皆もう分かってる。
どっちが狂ってるかはもう実感してるけど、この理性ってやつはなかなかどうして手ごわいな。
主人公が狂ってしまわれることに悲しさと少しの嫉妬を覚えた。

発想だけで食っていけるかボケナスが

A:なんで怒られてるか分かる?相手の立場に立って考えてみ?
B:そうだぞ(実際は誰にとっても無理だ)
C:あああああ

A:もしあんたが気に入ってるもの盗まれたり、壊されたりしたら嫌やろ?
B:俺は嫌だなぁ(実際は相手がそうしたかった、その理由が「無い」ことを含めてなんとなく把握できれば何も思いません。)
C:あああああ

A:・・・
B:・・・
C:あああああ

こういう日常

糞な気分

目標を持って生活してないと、ふとした瞬間ドーーーンって壁を殴りたくなりませんか。
もちろん、目標を持って生活をしたことがないので、上の文章の信ぴょう性は薄いです。
独りでいる時間が長くなれば長くなるほど、全部どうでも良くなる。
あくまで気分の話です。

メンドクサイが合言葉のクズ人間業界ですが、みんな死なずにいる。
とにかく「今・ここ」最優先。
そうとしか思えない。ふつうの時間観との齟齬を感じる。
とりあえず死=無・終わりの世界には生きていない。
明日の自分(1分後でも1時間後でもよく、とにかく今以降の自分)が行うことを「今」の自分が決める、ということをしていない。ふつうの人から見たらそれはダメダメなことで、明日の予定も分からないヒトと仕事はできないので社会生活に適合できないわけだからめでたく病気扱いになるはず。
でも「それなんとかって病気だよ」と言われてもキョトンとした表情で「だからなに?」と言う。
大体、物体のある傾向に名前を付けて説明されても「そうですか」という反応しか返ってこない。
病気(あるいは異常)という自分があずかり知らない場所でできた造語の意味をうまく掴んでいない。
というかあらゆる言葉に意味を求めていないのかな。
発せられたまとまった音声情報をマイナスの意味にもプラスの意味にも取らない。
自分の、誰かの、特定の状態を特別視しない。当然「ちゃんと」「普通に」にも価値を見いだせない。まとまったり、単純化したり、あるいは複雑化できない。
世界を丸ごと受け入れている。無理やり言えばそんな感じ。
どんなに環境が変わっても、コップに入れられた水のように、それがあたりまえかのように変化する。
観て取る場面により、こだわりがないように見えるし、どこかに向かっているようにも見える。
あらゆることを言語化しない。意味も、理由も、動機も語らない。求められても「分からない」としか言わない。
5年間バカみたいに飯を食いながらほとんど部屋からでなかったと思えば、2年間行方不明になり、3年間で億万長者になったと思ったら、4年間ろくに飯も食わず引きこもる。それぞれの期間、5か月間(5日間)バカみたいに飯を食いながらほとんど部屋からでなかったと思えば、2か月(2日間)行方不明になり、3か月(3日間)で億万長者になったと思ったら、4か月(4日間)ろくに飯も食わず引きこもる。それぞれの日、5時間(5分間)バカみたいに飯を食いながらほとんど部屋からでなかったと思えば、2時間(2分間)行方不明になり、3時間(2分間)で億万長者になったと思ったら、4時間(4分間)ろくに飯も食わず引きこもる。
みたいなノリだ。
「いつ死んでもいいの?」と問えば、
分からない、知らないと言う。
ただ、その疑問がクダラナイとも一切言わない。
価値判断をしない。自らの感情を自ら決めないor決められない。
結局、一見「ふつう」に飄々と社会生活を送っているので、実際には病気扱いされていない。
もちろん、生きていくために最低限必要な動作は徹底して体に染み込まされている。
なぜか「何をしようかな?」という疑問が徹底的に排除されている。
どこまでも動物的であり、観ていて美しいと私は思う。
そして出力されるシゴトは創造的だと認められることも多い。
このあり方はどうやって作られた、作ったんだろう。
どこまでが意識的で、どこまでが無意識なのかなど本人にも分からないし、どうでもいいようだ。

確信するなら盲信か妄信以外ない

確信できることは一つもない。
ああしたらこうなる。こうだからああなる。
因果論が信用できないのは、繰り返すあのポリリズム的・歴史的・経験的事実からというよりも、論理の出発点はそもそも決められないから。
なぜ?と問うことはできる。いつでもできる。ずっとできる。
せやけど答えの理由や根拠に対して「より論理的か」の指摘はできるけど、絶対はない。
そこで普遍を志向しないのが普通。
そこでバイアスのかかった主観で仮決定を繰り返すのが吉。
でも思考停止を避難する気はない。一ミリもない。
むしろ何かも全部忘れて毎日酒に溺れてしまえれば一番いい。
あほか、人間は動物じゃないぞ。
いや、人間は動物じゃないの。
偉い人が全体がラクになるために(個人的興味のためだけに)新しいアイディアから創造といのべーしょんを繰り返すのは問題のマッチポンプを楽しんでるんだと言えないこともないから。
論考できないヒトを人間じゃないと言い切れる弱さも強さもないから。
でもやっぱり、世界や結節点・属性の束としての自己がどうなってもいいかを決めるのは自分だけじゃないからどっかで確信を受け入れるしかない。確信しろ。
結局、近代人っぽく物語を紡いで情熱的にやらかしてもいい。
流行にのって可能な限り仕組化してシンプルスマートスマートサーフィンしてもいい。
何も考えずうんこやおしっこを漏らしててもいい。
そのどれかを選ばないでもいい。明日の私は他人の臭いでもいい。
って話になる。
複雑系モテカワ不確実な現実をMARUGOTO受け入れてもいい。
MARUGOTOは受け入れなくてもいい。
ネタでもマジでもどっちでもいい。笑って誤魔化せればいい。
わーっと外部化されたものを、前とは違うやり方で、じっくり内部化する的な方向性だけ決めてもいい。
私と貴方がどこを虚構するかを味わう時間=人生が終わるまでの我慢大会。
しこって寝よ。