江須かるごの書庫

2011-11-13

新暦224年1月7日 PM1:30 レオナルド・T・バンスタイン

 俺は研究室に呼び出され、ワトソン大佐と二人きりになった。恐らく、「大尉とムツキの親睦を深めさせる」というのはただの名目で、人払いが本来の目的だろう。それは大尉やナオミ、そしてムツキ自身に聞かれては困る話をこれからするということを示していた。
「バンスタイン少尉。君はどう思う?」
「何がでしょう?」
「フジワラ・ムツキだよ。君の論文を読んだが、CB因子の持ち主は須らく”神隠し”を起こす可能性があるという。しかし君の論文では神隠しによって対象がテレポートする先については述べられていない。量子論専門家として、フジワラ・ムツキは、どの程度のテレポーテーションが可能だと思うのかを聞きたくてね」
 予想通りの質問だった。軍がCB因子保持者に関する研究…すなわち、ムツキを見つけ出す活動をサポートして来たのは、恐らくその軍事利用(もしかすると、もっと別の目的があるのかも知れない)を狙ってのことだろうからして、この質問は当然だった。
「正確なお答えは出来かねます。データが不足していますからね。理論的には、同じ三次元上の認識可能な範囲であれば、確実でしょうが」
「そうだな。だが、神隠しという現象自体が、それ以上のテレポートが可能であることを示している」
タイムトラベルが出来るかどうか、ということですか?」
「そういうことになる」
「それは――イエスとも言えますし、ノーとも言えます」
「どういう意味かな?」
「そのままの意味です。テレポートする先の時空座標を認識可能であれば、おそらく過去や未来へのタイムトラベルは可能でしょう。ただし、エヴェレットの多世界解釈に従えば、「フジワラ・ムツキが未来からテレポートして来た」という事実の加わった並列世界が新たに生まれ、この世界には「フジワラ・ムツキが消えた」という事実だけが残る」
「出来たとしても無価値であるという点で、君はノーだと考える?」
「その通りです。加えて、我々は未だに、間接的な方法でしか時間を測る術を持たない」
 俺は肩を竦め、ワトソン大佐の表情を伺った。穏やかな笑みに変化はない。それが逆に、空寒いものを感じさせる。
「だが現実として、フジワラ・ムツキは同じ三次元上に移動するのではなく、この世界から”消えた”。君はこれをどう考えている?そもそも、君は”どこから”、フジワラ・ムツキを探しだした?」
「大佐は、ホワイトノイズというものをご存知ですか」
「サー、というあれかい?」
「そうです。全ての周波数が同じ強度となるノイズ
「それがどうかしたのかね」
「何かお飲みになりますか?」
 口の中が乾いてきた。俺は移動して、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。コーヒー香ばしい匂いが立ち上り、プラスチック製のカップにコーヒーが注がれる。
「いや、結構だ。説明を続けてくれ」
量子論においては」俺はコーヒーを啜り、口の中を湿らしてから話を続けた。「宇宙というのは重なり合いの不確定な状態で成り立っており、観測されることによって確定されると定義されています。宇宙の本質は零であり無限。ありとあらゆる可能性とありとあらゆる存在が渾然一体となったものです。生きている猫と死んだ猫は、箱の中に同時に存在する」
シュレディンガーの猫、か。それとホワイトノイズにどのような関わりがある?」
「ホワイトノイズに耳を傾けていると、あらゆる音を聞き取ることができます。現実にはそれは錯覚ですが、「観測」であることに変わりはありません」
「つまり君は、「ホワイトノイズ」から「フジワラ・ムツキ」を観測したと?」
「肯定です。まあ、10年もかかりましたが」
 俺はもう一度、肩を竦めた。奇妙な沈黙が訪れる。
「結局のところ、フジワラ・ムツキはどこに移動した?」
「さあ。それは私にもわかりません。並列世界に移動したのかもしれない、遠い過去や未来に移動したのかもしれない、あるいは」
「あるいは?」
「宇宙の中核。重なり合いの世界。シュレディンガーの箱の中」
 突拍子もない話だが、実際のところ、俺はその可能性が一番高いと考えていた。”あの日”のムツキが、過去や未来に移動したいと思う精神状態であったとは考えにくい。
 俺はもう一度コーヒーを啜る。この男と対面していると、奇妙なプレッシャーを感じる。この男は、不気味だ。どこか、空虚なのだ。深く関わるのは危険だと、直観が告げている。
「もしそうだとして、シュレディンガーの箱の中で、彼は何を”見た”のだろうな?」
「それは彼にしか分からないでしょう。ことによっては、彼自身にも分からないかもしれない」
「どういう意味かな?」
「今この世界にいるフジワラ・ムツキは、あくまでこの世界で”観測”されて来たフジワラ・ムツキだからです。彼自身の認識も含めて」
「箱の中で何かを”見た”フジワラ・ムツキとは別個の存在であると?」
「肯定です」
「だが、それもあくまで可能性の範疇なのだろう?」
「肯定です。ムツキ自身が話さない限り、それを確かめることは出来ないでしょう。そして、それが本当に”箱の中”の出来事であるかを確認する術を、我々は持たない」
「つまり?」
「聞くだけ無駄と言うことです」
 ふむ、と大佐は腕を組んで考える仕草をした。ああ、そろそろプラスチック製のカップが空になる。
「しかし、10年か。何が君をそこまでフジワラ・ムツキを執着させる?」
「それについては」俺は、コーヒーの最後の一口を飲み下す。「お答えしかねます」
「何故?」
「プライベートな事柄なので」
「君は、ゲイなのかい?」
「まさか」
 笑って否定する。俺がムツキに執着していることは否定しないが、それは恋愛感情ではない。ムツキの裸など何度も見ているが、少なくとも劣情を催したことは一度もなかった。
「私は実に興味があるんだがね。君自身はもちろんだが、君ほどの人間を、そこまで惹きつけるフジワラ・ムツキという人間に」
 微笑と共に向けられたその言葉に俺は沈黙を返す。カップは、既に空になっていた。

新暦224年1月7日 PM1:30 ナオミ・フィリ

 部屋には気まずい沈黙が降りている。
 ワトソン大佐曰く「親睦を深めろ」とのことだが、ムツキはいきなり上官になった相手にどう口を聞いていいか分からないようだ。大尉は女性にしては背が高く、170cm以上あるように見える。長く伸ばした金髪は丁寧に手入れされていて、艶やかな輝きを放っている。アングロサクソン系らしい青い瞳はまっすぐに澄んでいて、誠実な性格を如実に表しているように見えた。そのリンベル大尉も随分困惑している様子だ。彼くらいの年頃の少年とは口を聞いたことすらないのかも知れないし、そもそもあまり会話が得意そうなタイプにも見えない。
 対するムツキはいかにも少年らしい奔放さを感じさせる。丸い瞳に黒い髪。東洋人らしい小さな鼻。美少年という雰囲気ではないが、整った部類に入るだろう、幼い顔立ち。ネコ科の肉食獣を思わせる、細くてしなやかな体つき。その瞳には初対面の大人に対する警戒心と、唐突な出来事への戸惑いがある一方、初めて目にする女性パイロットに対する好奇心が見え隠れしている。
 先ほどからリンベル大尉をチラチラと観察しているのはそのためだろう。新しい飼い主に引き合わされた子猫のようだ。上官と部下という関係でなければ矢継ぎ早に質問をしていたかも知れない。そんな屈託のなさを感じさせる。そうしないのは、父親が軍でそれなりの地位にいたという育ちの良さからか。
 とはいえ、リンベル大尉は確かに興味深い人物だ。取り立てて優秀な人材ではない。秀でているのは容姿と家柄くらいか。経歴と立ち居振る舞いからは、真面目だけが取り柄、そんな人物像が見え隠れする。女性でパイロット志望ということであれば、訓練について行くだけでも精一杯だったろうに、何故その道を選んだのか。家柄を考えれば、他にいくらでも道はあったはずだ。
 リンベル大尉の顔をちらりと見ると、助けを求めるような視線を向けてきた。どうやら本当に口下手らしい。私は口を挟むような立場ではないと思うのだが、ここはまあ、仕方ないか。
「大尉。まずは伍長に軍人の心得などを話されてはどうでしょう」
「あ…え、ええ、そうですね、では…フジワラ伍長」
「あ、えっと…はい」
 ベッドから降りて、見よう見真似で敬礼をして見せる。その立ち姿は年齢や人種を考えてもかなり小柄だ。これで本当にパイロットが務まるのだろうか、少し心配になって来た。
「我々ラピュタ空軍は大戦の負の遺産である3Aの監視、及びその攻撃への対処のため組織されました。我々軍人の責務は命を賭して善良な市民を守ることです。そして社会的意義の大きな職業として、我々には節度ある行動が義務付けられます。命を賭けているからと、横柄な振る舞いをする輩もいるようですが、本来許されざることです。軍規の遵守を心がけるように」
「はい」
 予想通り、教科書に記されたような答えだ。言うまでもなく、ムツキ少年の顔には軍規って具体的には何だろう、と書いてあるが。
「…とは言ったものの、私は部下の命を失うことを快くは思えません。それがあなたのような年端もいかない少年であれば、尚更のことです。命を賭して、などという言葉が好ましいとは思いません。生き残ることを最優先して下さい」
「…はい」
 二人の身長差は20cm以上ある。自然と、ムツキ少年はリンベル大尉に対して上目使いになる。
 ムツキは、何か物言いたげにリンベル大尉の顔をのぞき込んでいる。疑問をすぐに口に出さないのは警戒心の表れだろうか。リンベル大尉の硬い口調から、「厳しくて怖い大人」を感じ取ったのかも知れない。
「…何か?」
「あ、その、ええと。大尉は何故パイロットに?」
 警戒心と好奇心の入り混じった仕草は、大人の持つ庇護欲を掻き立てる。無意識にやっているのだろう。
「そうですね……。意地でしょうか」
「意地?」
「ええ。私は貴族の子女として生まれ、教育を受けて来ました。いずれ親の決めた相手と結婚することを義務付けられています。それが不満…というわけではありません。ただ、漫然と与えられた椅子に座っているのが嫌だったのです。だから軍に入って…パイロットを選んだのは、『女には無理だ』と言われたのが悔しかっただけです」
 リンベル大尉は苦笑して見せ、少年の頭をくしゃ、と撫でた。触れられる瞬間、ムツキが一瞬身を竦めた気がするが、無意識の仕草だろう。リンベル大尉もムツキ自身も気づいてはいないようだ。
 まあ、これは「落ちた」、と言ったところか。リンベル大尉の態度から、硬さが薄れた。
「…しかし、細いですね。バンスタイン少尉によると運動能力に問題はないとのことでしたが、何かスポーツでもやっていたのですか?」
「ハイスクールでサッカーと…とうさ…父から簡単な護身術を教わっていました」
「なるほど…そうですか。食事はちゃんととっていますか?」
 リンベル大尉はじっと少年の体を観察している。ムツキは確かに細いが、極端に痩せているというわけでもない。無駄な脂肪や筋肉がほとんどついていないのだ。
「え、ええと、その、俺、すぐ腹いっぱいになるから…」
 …この年頃の少年なら食欲旺盛なのが普通だが、彼の場合はそうでもないようだ。そういえば、目覚めてから大分時間が経っているのに食事を要求する様子もない。先ほどのハンドシャイといい、姉のことに全く触れていない点といい、彼はメンタル面で問題を抱えている可能性がある。
 レオンなら何か知っているだろうか。しかし、聞いたところで口を開くか怪しい。普段の軽薄な振る舞いに反して、彼は意外とプライベートな事柄について口が重い。彼が赴任して以来一緒に仕事をしているが、仕事帰りに飲みに行く以上の付き合いはないし、実を言うと私は彼のことをほとんど知らない。同じように彼が踏み込んでくることもない。どうにもつかみ所のない男である。だが、少なくとも恐らく、あの軽薄さはポーズだろう。でなければ、一人の少年を救い出すためだけに軍に入ってまで研究を続けたりはするまい。
「あ、いえ、責めているわけではありません。ただ少し、心配に思っただけです」
「一応、ちゃんと三食は、食べてます。その、量は少ないと思うけど」
 ムツキはバツが悪そうにそう答えた。確かにこの体格では胃袋も小さいのかも知れない。
「今日は食事は?」
「あ、まだです」
 言われて初めて思い出した、という風にムツキが答えた。
「体調管理も職務の内と考えて下さい。フィリ少尉はもう食事はされましたか?」
「いえ、まだです」
「では、食事を用意させて下さい。食べながら話しましょう」
 私は大尉の言葉に従い手元のデバイスで食事の用意を指示した。しばらくするとオートメーションで動くロボットが給仕に来た。

2011-10-21

新暦224年1月7日 PM1:00 フジワラ・ムツキ

 泣くだけ泣いたらすっきりしてしまった。状況全てに納得が行ったわけではないが、とりあえず泣いていても仕方ない状況であることは理解出来た。
 頭がぼんやりする。何もする気にもならないし、何か考える気にもならない。
 …外から人の気配がする。というか、何か視線を感じる気がするのだ。気のせいだろうか。
 ぼんやりそんなことを考えていると、ドアが開いた。入ってきたのはレオン(仮)とフィリ少尉、後は二人の男と一人の女だ。3人共軍人に見える。その内一人には見覚えがあった。
 2年前…いや、10年間が空いてるから12年前か? 父さんに連れられていったワトソン家のパーティ会場で出会った顔だ。
「アラン…さん…?」
「おや、覚えていてくれたとは光栄だね。フジワラ・ムツキ君」
 アラン・P・ワトソン。相変わらずの美男子ぶりだ。この人の方が数えきれないほどの人間に会っているだろうに、なんで俺のことを覚えてるんだ?
「…以前にお会いになったことが?」
 後ろにいる不思議そうに女性が問いかける。この人も軍人だろうか。階級章を見るに大尉のようだが、立ち居振る舞いから察するに貴族っぽい。生真面目なお嬢様って雰囲気だ。
「12年前に一度だけだが。フジワラ・コウタロウ大佐に連れられてパーティ会場に来ていた。カタリナが随分懐いていたもので印象に残っていたんだよ」
 カタリナ…ああ、あの小さい女の子のことか。確かワトソン家の令嬢で、この人の妹だ。一人で寂しそうにしてたからキサと一緒に声をかけたらえらく懐かれてしまったのを覚えている。それきり会っていないが、どんな大人になっているんだろうか?
「で、ええと、その。ワトソン家の人がおれ…僕に何の用ですか?」
「いや、何。”神隠し”の研究は軍でも推進していてね。その帰還者が顔見知りと知れば、会ってみたくなるのも無理はないだろう?」
 アランさんは柔和そうに微笑んで言った。レオン(仮)もそうだけど、この人の微笑は何か胡散臭い。
「はぁ…。俺を見ても特に珍しいものはないと思いますけど」
 俺が言うとアランさんは面白そうに笑った。
「まあ、ただの物見遊山で来たわけではないよ。大佐なんて肩書きがあるからね。軍の高官としての仕事でもある」
 彼の顔から笑みが消える。フィリ少尉は相変わらず冷静で、レオン(仮)はそわそわした様子だ。もう一人の女性は困惑したような顔で俺を見ている。アランさんの従者(前に見た時とは違う人だ)はまったくの無表情だ。なんか気味の悪い人だな。
「フジワラ・ムツキ。本日より貴殿をラピュタ空軍伍長に任じる。配置については後日正式に通達があるが、新造強襲艦『サンダーバード』のEA隊所属のパイロットになってもらうことになる。
 彼女はリンベル大尉。同艦のEA隊隊長だ。貴官の直属の上司ということになる」
「ヨアンナ・ランスロット・リンベル大尉です。フジワラ伍長、よろしくお願い致します」
 女性パイロットとは珍しい……。いや、そんなことを考えている場合じゃない。
「ご、伍長って言われても…オレはまだ14歳で」
「いや、戸籍上お前は23歳だから問題ない。パイロットの階級は最低でも伍長だからな。順当なところだろう。ちなみに、俺がお前のパートナー・オペレーターをやることになっている。何があっても守ってやるから安心しろ」
レオンはそんなこと言わない…」
 オレの知っているレオンからは絶対考えられないセリフだ。オレはそっぽを向いてつぶやいてしまった。
「振られたな、バンスタイン少尉」
「10年の壁は大きいですね、やはり」
 アラン大佐にからかうように言われて、レオンは苦笑いした。10年も経てばそりゃ人も変わるだろうが…変わり過ぎだろう。オレはレオンに起きた変化を受け止められずにいた。
「ともかく、明日以降、君にはパイロットとしての訓練を受けてもらう。心配はいらない。君ほどの素養があればすぐに一人前のパイロットになれる。バンスタイン少尉、君には話がある。研究室に行こう。アニー、君は今のうちに彼と親睦を深めておきなさい。…大佐はご子息を溺愛してらしたからな。お話が概ね事実であるとすれば、いい子のはずだよ」
 アラン大佐はそう言って笑うと、レオンと従者を引き連れて部屋から出て行ってしまった。
 残されたのは、リンベル大尉とフィリ少尉、そしていきなり伍長になってしまったオレだけ。
 フィリ少尉は自分から口を開く気がなさそうだし、リンベル大尉は困ったような顔をしている。
 …どうしたものか。

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2011-10-18

新暦224年1月7日 PM0:30 レオナルド・T・バンスタイン

 アラン・P・ワトソン大佐が視察に来るとの一報が入ったのはつい2時間ほど前のことだ。代々元帥世襲しているワトソン家の令息だが、ただのボンボンではない。相当なキレ者と評判で、周囲の人望も厚い。
 軍の中枢部では彼を中心とした派閥が存在するらしい。俺の研究はその派閥が推し進めているものだから、万が一にもヘソを曲げられてはことだ。
「フィリ少尉。資料の準備は?」
「先ほど完了しました。それにしても随分急ですね。大佐もお忙しいお立場でしょうに」
 ナオミはそう言うと俺の端末にデータを転送して来た。ひと通り目を通すが、ミスは見当たらない。相変わらず完璧な仕事ぶりだ。軍のオペレーター養成所を首席で出ただけのことはある。
「ま、お目当ての『検体』が目を覚ましたんだから、予定を変えてでも見にきたくなるのは無理はないでしょう。予測の範疇だよ…まさか婚約者同伴とは思わなかったが」
「リンベル家の令嬢とのことですが…軍人としては取り立てて目立つ人物ではないようですね」
「ま、女だてらにパイロットを進んでやってるだけでも大したタマでしょうよ」
 俺は苦笑いする。士官学校を出て数年で、目立った功績を挙げられる人物はそれこそ限られているだろう。ちなみに、女性のパイロットは珍しい。大抵は軍属になってもオペレーターや技術士官、従軍看護師になるのが普通だ。どうあっても肉体的な面で不利なのだ。
「パートナーのマーガレット・ヨハンソン少尉は非常に優秀なオペレーターと聞いていますが、今日は来られないようですね」
「まあ、トップシークレットを大勢に見に来られても困りますがね。…コーヒー飲むかい」
「いただくわ」
 俺はコーヒーメーカーで2つのカップに黒い液体を注ぐとナオミにそのまま渡した。彼女はブラックが好みなのだ。俺は糖分を取る意味をあって角砂糖を4つ入れる。
「相変わらずの甘党ね」
「そうかい?こうした方が頭が回るんだが」
 ナオミと俺は普段は硬い口調で話しているが、オフの時は気の置けない間柄だ。彼女は知的で美人、スタイルもいい。出会い頭に口説いたが素気なく断られた。とはいえそれ以来、なんとなく会話することが多くなった。色気のある関係にはならないが、話は合う。一緒に食事に行ったりすることも多い。
 …というより、この研究所はまともな感覚が麻痺している輩が多いから、お互い他の連中と交流する気が起きない、というのが大きい。
「ねえレオン。あの子、このままここに置いておくつもり?」
 不意にカップから顔をあげてナオミが問うた。
「…良心が咎めるかい?」
「当前。それに、親友だったんでしょう?」
「今でも親友のつもりだよ」
「だったら」
「このままここに置いておく気はないよ。何をされるかわかったもんじゃない。…もう手は打ってある」
 ナオミが怪訝そうに俺の顔を見ている。フジワラ・ムツキ。軍のトップシークレット。それをどうやってここから出そうというのか。疑問に思うのも当然だろう。
「それより今夜、開いてるかい?」
「別に予定はないけど」
「そうかい。じゃ、いつものところで。会ってもらいたい人が居てね」
「会ってもらいたい人?」
 ナオミがさらに怪訝そうな顔をする。
「ここじゃ言えないが、きっと君の喜ぶ相手さ…さて、そろそろ大佐のいらっしゃる時間かな」
 ナオミは気持ちをさっさと切り替えたのか、俺の言葉に頷く。目線で合図すると、俺とナオミは研究室を出てエントランスホールまで向かった。
 ここに出入りするのは俺のような研究屋とオペレーター、警備担当の軍人がいくらかだ。出入り出来ないが「いる」のはムツキのような『検体』だ。反吐の出るような呼称だが、ここではそれがまかり通っているのが現状だ。はっきり言って、ムツキを見付け出した以上、ここにいる意味などもうないので、さっさと抜け出したい。ま…しばらくの我慢だが。
 エントランスで警備担当の兵士に敬礼をされる。…忘れがちだが俺は少尉相当の地位だったな。一応オペレーターの資格も持っているし。一応敬礼を返しておこう。
 静かなホールでしばらく待っていると、入り口に3つの人影が見えた。アラン大佐とその従者、そして婚約者のヨアンナ・L・リンベル大尉だろう。
 彼らの姿を確認すると、俺は敬礼をしてみせる。後ろに居て見えないが、ナオミもそうしているだろう。
「お待ちしておりました、ワトソン大佐。…彼女はフィリ少尉。担当のオペレーターです」
「突然済まないね。”彼”が目を覚ましたと聞いて、居ても立ってもいられなくなってね」
 後ろにはスラリとした長い髪の美女が控えている。たおやかな見た目だが性格キツそうだな。口説くのはやめといた方がよさそうだ。そもそも大佐の婚約者だし。さすがに命が惜しい。
「先に研究室で現状の説明をいたしましょうか?」
「いや、結構だ。後でデータを転送しておいてくれ」
「では、後ほどフィリ少尉よりデータを転送いたします。…こちらへ」
 俺は先頭に立ち、ナオミとアラン大佐以下2名を引き連れてムツキのいる部屋に向かう。ムツキの部屋は研究室の隣だ。基本的に窓はないが、マジックミラーのように外から中を見ることが出来る。
 ナオミが端末を操作すると、ベッドに座り込んでいるムツキの姿が見える。もう泣いてはいないようだ。ただぼんやりと座っている。昔のムツキには絶対見られなかった表情だ。…まあ無理もないが。
「彼がフジワラ・ムツキ。”神隠し”からの生還者です」
「”神隠し”からの?」
 大佐の後ろから声を上げたのはリンベル大尉だ。『神隠し』は現象としてよく知られているが、生還者が発見されたことはない。驚くのも無理はないだろう。
「ええ。詳しく説明いたしましょうか?」
「…いえ、結構です。そういう話には疎いので」
 リンベル大尉はわずかに顔を顰めた。本当にその手の話が苦手なのだろうが、あんな子供(西欧系の人間から見れば日系人は殊更幼く見えるから、小学生に見えているのかも知れない)がこんなところに閉じ込められているということに不快感を覚えたのかも知れない。
「健康状態は?」
「概ね良好です。ただ、詳しい心理検査をしたわけではないですが精神的なストレスは大きいでしょうね。量子テレポーテーションの発生と精神状態の因果関係は以前説明さし上げた通りですので、あまり良い兆候とは言えません」
「ふむ…」
 大佐が考えこむような仕草をしている。一体何を考えているかは分からない。
「お話をされますか?」
 一応聞いてみる。
「そうだね。少し話をしてみたい。…これから彼女の部下になる人間だからね」
「ま、待って下さい、大佐。あの少年が部下というのは一体どういうことです?」
 聞かされてなかったのか? 大尉がいささか慌てた様子で言った。
「『サンダーバード』のパイロット人員枠がまだ一人未定だったろう?彼が最後のパイロットだよ」
「あんな子供がですか?」
「あれでも肉体的年齢は14歳ですよ、リンベル大尉。戸籍上は成人ですから法制上も問題ありません。身体能力も見かけによらず極めて高い。何せ「あの」フジワラ・コウタロウ大佐のご子息ですからね」
 ムツキは父親似の童顔でしかも小柄。おまけに少食だったので発育も悪い。華奢に見えるが、実は結構筋肉がついている。父親に護身術の手解きを受けていたのもあるだろうし、とにかく動き回るのが好きな奴だからな。
「ですが…」
「これは決まったことなんだよ、アニー。そこのバンスタイン少尉の提案でね。『神隠し』の原理解明のため、前線に出すのが最適だと。アカサカ中佐の了承も得ている。むしろ彼女は歓迎していたよ。元々学者肌の人物でもあるからね、彼女は」
 大佐の言葉に、リンベル大尉は信じられないものを見るような目で俺見ている。鬼畜生か何かだと思われているのだろうが、「こんなところ」に置いておくよりは前線の方がまだマシだ。
「大尉は少し混乱しておられるようですね。後日改めて、説明してさし上げた方が良さそうだ。私も貴方の部下になる人間ですからね」
「は…?研究員の貴方が何故」
「私がフジワラ・ムツキのパートナー・オペレーターになるということです。データ収集にこれ以上のポジションはありませんからね。…よろしくお願いします、リンベル大尉」
 本心を押し殺して、あくまでただの研究者のようなツラをして一礼した。…お陰でリンベル大尉の不快感は余計に深まったらしいが、ここで下手を打つわけにもいかないからな。
「では、大佐」
「うむ。彼と話をしよう。楽しみだよ…実にね」
 アラン大佐は穏和は笑みを浮かべた。その笑みに、どこか底知れないものを感じたのは俺だけだろうか?

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2011-10-16

新暦224年1月7日 AM11:00 ヨアンナ・L・リンベル

「S地区の研究所への視察、ですか?」
 カップに口をつけかけた手を止めて、私は問い返した。
 間もなく正午を迎える。私は貴族の筆頭であるワトソン邱のテラスにて少し早めの昼食だ。
 目の前に座っているのはアラン・P・ワトソンワトソン家の長子であり、私の婚約者である。
「ああ。君に見せたいものがあってね。ちょうどいい連絡が入ったんだ」
 誰もが振り返るような金髪碧眼の美男子だ。彼が微笑めば誰もが魅了されるであろう。一方でその眼差しにはどこか冷たさと空虚さを感じさせる。生まれついての許嫁だが、私は未だに彼の本質を理解出来ないでいる。
「よろしいのですか?私は一大尉に過ぎません。S地区の研究所と言えばかなり重要な研究なのでは…公私混同は」
「いや、構わない。今後、君にも関係してくることだからね。むしろ必要と言っていい」
「と、言うと?」
 問いかけても、彼は意味深に微笑むだけで、答えは返ってこない。彼はいつもこんな調子だから、私はそれ以上聞き出すのをやめた。
「お義姉様、いらしていたのですか」
 後ろから呼びかけて来たのは、カタリナ・P・ワトソンだ。アランの妹である彼女は、私にとっては一応、義理の妹にあたる。兄と同じ金髪碧眼の可憐な少女は、昔から私を慕ってくれている。よくいえば素直で純粋、悪く言えば世間知らずな女の子だ。
ごきげんよう、カタリナ。今日はお休み?」
「はい。日曜日ですから、お休みをいただいています」
「ああ、そういえば今日は日曜日でしたね。軍務についているとどうしても曜日の感覚が狂ってしまうわ」
 私は苦笑いする。そういえばいつも私に付き従っているマーガレットにも、任務のない日曜日だから、と休みを与えていたのをすっかり忘れていた。
「カタリナ、レノはどうしたんだい?ハイスクールのない時は君に付き従うよう言いつけてあるはずだが」
「え…ハイスクールのお友達と遊びに行くということでしたから、お休みを。私は特に外出の予定もありませんし、あの子の手を煩わせることは何もありませんから」
 レノというのは、昔からカタリナのお付きをしている少年だ。小姓か執事みたいなもので、カタリナの身の回りの世話は彼が全てやっている。
 社交的でなんでも器用にこなす優秀な子だが、カタリナの世話をするだけの生活は窮屈らしい。時折目を盗んでは遊び歩いているようで、カタリナもそれを黙認している。
 本来ならスケジュールは全てカタリナに合わせるべきで、彼のような立場の人間がハイスクールに通うことはないのだが、カタリナは昔からレノに甘いところがあるので、可能な限り普通の少年達と同じような生活をさせているのだ。
 というより、レノは辞したのだが、カタリナが強引に就学を薦めたようなところもある。ワトソン一族の人間は民間人からすれば天上人のようなもので、普通の友人は作りにくい。おっとりしていても好奇心旺盛なカタリナは、彼を介して流行や世事の情報を集めているのだろう。
「そうか。君がいいなら構わないがね、あの子にはもう少し躾が必要じゃないかな」
 アランは穏和な笑みを浮かべる。私はその笑みに、何故か空寒いものを感じた。
「そ、それよりお兄様もお義姉様も、何のお話をしてらしたの?今度お義姉様が赴任なさる新造艦のことですか?」
 カタリナも同じものを感じたのだろうか。話を逸らす。
 今度私が赴任する新造強襲艦。『サンダーバード』という名前の艦だ。
 光栄にも私はEA隊の隊長に任じられた。まだ実戦経験の乏しい私では不安もあるが、副隊長としてアレクセイ・グランツ大尉の赴任が決定している。激戦をくぐり抜けて来たベテランパイロットだ。指揮経験もあるし、上手くフォローしてくれることを期待している。気になるのは、まだ一人だけ赴任の決定していないパイロット枠があることだが…。
「そうでもあり、そうでもないといったところかな。いずれにせよ軍人ではない君に話せることではないよ」
 また意味深な言葉を口にする。こうやって人を煙に巻くが好きなのだろうか。
「お義姉様。今回の赴任はアカサカ・ミズホ中佐直々のご指名なのでしょう?お会いになったことはあるんですか?」
「いいえ、まだ直接会ったことはないわ。私も楽しみにしています。女性軍人で中佐の名を知らない者はいませんから」
 アカサカ・ミズホ。ラピュタ連邦空軍中佐。民間から軍に入り、女性ながら32歳の若さで中佐にのぼりつめた稀有な存在。女だてらに軍に入る者なら、誰もが憧れる存在だ。
「…彼女は優秀だ。優秀過ぎるくらいにね。あれほどの人物が何故前線を離れて中枢部に入らないのか、全く持って不可思議だよ」
 アランがティーカップを置いた。陶器の擦れ合うカチャリ、と言う音が冷たく響く。
「彼女から学ぶことは多くあるだろう。君の成長を楽しみにしているよ、アニー」
「ええ。ご期待に添えるよう、努力します。アラン」
 私は真摯にそう答えた。アランの意図がどうであれ、アカサカ中佐から学ぶことが多くあるのは確かだろう。 
「…大佐、そろそろお時間です」
「ああ、もうそんな時間か」
 アランの従者がそう告げる。私やカタリナと違って、彼には幼い頃からの従者がいない。詳しい話は知らないが、何年も前に病で命を落としたということだ。アランは自分のことをほとんど話さないし、カタリナはまだ幼かった頃のことだから。
 この男はパスカルデミアンと言ったか。取り立てて特徴のない男だ。
「もうお出になるんですか? せっかくいらしたのだからゆっくりしていけばいいのに…」
 カタリナが名残惜しそうに言う。
「そうもいかない。これも仕事の一環だからね」
「帰りにまた立ち寄るつもりよ。その頃にはレノも戻っているでしょうから、一緒に夕食にしましょう」
「はい。レノもきっと喜びますわ、お義姉様」
 そう言葉を交わすと、私はアランとその従者と共に、私は研究所への視察へ向かった。

エマ  全10巻 完結セット  (Beam comix)

エマ 全10巻 完結セット (Beam comix)

2011-10-15

新暦224年1月7日 AM08:00 フジワラ・ムツキ

 ――奇妙な夢を見て目が覚めた。
 知らない少女だった。どことも知らない世界だった。
 はっきりと覚えている。綺麗な女の子だった。まるで造られたかのように綺麗な女の子。
 そして、世界はいくつもの景色混じり合っていた。緑豊かな大地、穏やかな海、荒廃した大地、人々の行き交う摩天楼。そのどれもが教科書の中でしか見たことのない光景だった。
 あれは本当に夢だったのだろうか。
 分からない。
 ただ、あの少女の言葉だけが耳に反響している。
 『あなたは誰?』
 俺はフジワラ・ムツキ。ラピュタのアーコロジー日本人区画のジュニア・ハイスクールに通う学生。
 そう答えることが出来たはずなのに、俺は何も答えることが出来なかった。
 それからいくつか、言葉を交わしたような気がするが、はっきりとは思い出せない。
 それよりここはどこだろうか?
 だだっ広い真っ白な空間。ほのかに香るアルコールの匂い。病院か何かだろうか?それにしては他の患者も看護師や医師の姿――人の気配を全く感じない。そのくせ、「誰かに見られている」ような感じがする。
 ベッドから体を起こしてキョロキョロと周囲を見渡すと、一つだけドアがあった。
 病院服のようなものを着せられている。足元がすーすーして落ち着かない。素足で床に足をつけると冷えた感触がこれが現実であることを教えてくれる。俺はそのまま歩いてドアに近づく。
 …開くためのボタンも何も見つからない。内側からは開かない仕組みになっているのだろうか?
 とりあえず押してみよう…と瞬間、ドアが開いて、俺は空中につんのめるような格好になった。地面に激突すると思った瞬間、俺の顔はむに、という柔らかい感触で受け止められていた。
「転ばなくてよかったわ。とりあえず、頭をどけてもらえるかしら」
「うわぁっ!?」
 俺は思わず後ずさった。おもいっきり胸に顔を押し付けた格好になっていたのだ。これでは完全に痴漢じゃないか。
 被害者は落ち着いた雰囲気のスラリとした黒人女性だった。眼鏡がいやによく似合っている。
「ああ、気にしなくていいわ。子供に興味はないから」
 こちらが謝ろうと口を開く前に言われてしまった。本当に何とも思っていないようだ。確かに身長差はかなりあるが、あからさまな「範囲外」判定に少しむっとして口をつぐんでしまう。
「悪いけれどベッドに戻ってくれるかしら? 規則上、管理者の許可がないと貴方を部屋から出してはいけないことになっているから」
 聞きたいことは山ほどあったが、この場では答えてくれそうにもない。俺は渋々とベッドに座りなおした。
「聞きたいことが山ほどある、って顔をしているわね。許可が出ている範囲なら答えるけれど」
 また口を開く前に先読みされてしまった。
「あんた誰?…それからここはどこだよ」
「私はナオミ・フィリ。ラピュタ連邦空軍少尉。ここで実験機器のオペレーターをしているわ。ここはラピュタ連邦空軍のS区画にある研究所よ」
「S区画って…」
 父さんから聞いたことがあった。ラピュタ連邦空軍は専用のアーコロジーを持っており、奥に行けば行くほどセキュリティが厳しく、重要度も高くなる。S区画というとかなり奥まった場所だ。つまり、軍のトップシークレットとなり得る研究をしている場所、ということにある。
「貴方の知っている通りよ。だからここでやってることについて詳しいことは言えないし、私も知らないことが大半」
 手元の端末をチェックしながらフィリ少尉は言う。
「ちなみに今日は新暦224年の1月7日よ。あなたの健康状態は……問題ないみたいね」
「はぁ?今年は214年じゃ…」
「認識にズレがあるようね。証拠を見せてあげたいところだけれど、外部の情報を与える許可がないの。まあ――もうすぐ担当者が来るから、詳しい話は彼から聞いて」
 それきり、少尉は黙ってしまった。
 眠ってる間に10年経っていた?
 そんなことがあり得るはずはない。その間に干からびて死んでしまう。
 まるでタイムスリップでもしてしまった気分だ。
 この状況…どう見ても拉致監禁じゃないのか。隙を見て逃げられないだろうか。しかしフィリ少尉がつけている階級章は本物のようだし、嘘をついている様子もない…が、階級章くらい偽造出来るし、嘘のうまい奴はいくらでもいる。そう考えると大分怖くなって来た。…このまま行くと人体実験か何かに使われるんじゃないのか。
 まあ、仮に逃げるとして…まず、どうやってドアを開けるか…。考えを巡らせる。フィリ少尉とは体格差があるし、オペレーターとはいえ軍人なら最低限の訓練は受けているはずだ。女性相手とはいえ武器もなしでは勝ち目は薄い。となると、方法は一つしかない。”担当者”とやらが来たら確実にドアが開くだろう。その隙に脱走する。この方法しかなさそうだ。
 しばらく無言の時間が続くと、ぷしゅ、と間の抜けた音を立ててドアが開いた。俺はその隙を逃さず、サッカー部で鍛えた瞬発力でドアに向かって駆け出した。この身長でも、サッカー部ではエースストライカーだった。足には自信がある。
 ドアの前に立っていた亜麻色の髪の男の横をすり抜けようとした瞬間、襟首を後ろから引かれ、俺は勢いで思いっきりつんのめった。全速力のつもりだったのに、まるで予想されていたかのような動きだった。俺は子猫のように首根っこを掴まれた状態で恐る恐る、斜め後ろを見上げてみる。
 どこか見覚えのある顔の青年が苦笑いしていた。身長は180cm…あるかないかだろうか?少なくとも頭一つ分は差がある。白衣を身につけ、胸にはフィリ少尉と揃いの階級章。どうやらこいつも軍人らしい。
「ここまで予想通りの行動を取られると苦笑いするしかないな」
「バンスタイン少尉。その状態だと彼のお尻が丸見えですけれど」
「おっと」
 そういうと、青年は俺の襟首を離した。俺は慌てて座り込んで服の裾を正す。
「ここまでは少尉の予想通りですね」
「まあ長い付き合いですからね」
 フィリ少尉は俺の裸の尻を見ても何とも思っていないらしい(どおりですーすーすると思った)。バンスタイン……そう呼ばれた青年は相変わらず苦笑いしている。
 バンスタイン。俺にとっては馴染みのある名前だ。しかし、俺の知っている人物は、ここまで背が高くなかったし、幼なじみでありクラスメイトだったのだから”青年”ではない。
「久しぶり、だな。ムツキ。ああ、いや、お前にとっては昨日のことか」
「誰だよ、あんた」
 俺は抵抗を諦めて、不機嫌な視線をバンスタイン少尉に向ける。確かに見覚えはある気はするが、こんな大人の知り合いはいない。少なくとも俺の記憶では。
レオナルド・トウジョウ・バンスタイン。覚えているだろう」
「覚えてるよ。なんだよあんた、レオンの親戚かなんかか?」
「いいや、本人だよ」
 青年は肩をすくめる。
「嘘つけ。レオンはもっとナヨナヨしてて女々しくて貧弱な奴だったぞ。お前みたいにチャラい奴じゃない」
「ひどい言われようだな」
 青年は苦笑いする。フィリ少尉は端末を見ながら言う。
「214年当時の少尉の写真と現在の少尉を比較すると信じられないのも当然ですね。14歳の貴方は見るからにナヨナヨしてて女々しくて貧弱そうです。そして確かに今はチャラいですね。出会い頭に私を口説く程度には」
「………」
 一欠片も容赦の無い言葉にバンスタイン少尉は黙りこんでしまった。
「ここは確認のためにお互いしか知り得ないことを言ってみてはどうでしょうか。この距離なら私には聞こえませんし」
「ああ…そうだなぁ…」
 フィリ少尉の提案に、バンスタイン少尉は少し考え、屈み込むと、俺の耳元でポソポソと、「俺とレオンしか知らないあのこと」をささやいた。
「な、なっ、なんであんたがそんなこと知ってんだよ!?」
「だから言っているだろ。俺が”レオン”なんだから。知ってて当たり前だ」
「……」
 俺は反論する言葉が見つからず、黙りこんでしまう。
「とにかく、お前が今置かれている状況を説明する。俺が家庭教師してやってもなお理数系が軒並み赤点スレスレだったお前にも分かるようにな」
 そんなことまで知っているということは…やっぱり目の前の青年が幼馴染で親友のレオン…らしい。たった一晩でここまで背が伸びて性格まで変わるなんて、信じられないが。
「フィリ少尉から聞いていると思うが、今は新暦224年1月7日だ。お前の認識からすると、ほぼ10年のズレがある。
 端的に言うとだな、ムツキ。お前は10年後の世界にタイムスリップして来たんだ。
 もっと正確に言うと、個人としてのフジワラ・ムツキは新暦214年2月4日19時58分27秒に管理コンピューターのモニタリングからロストしている。いわゆる『神隠し』だな。
 その後、量子論的な宇宙の中核…重なりあいの世界……あー…わかりやすく言うと「時空の狭間」に転送されて…。
 そして10年後の今、軍の研究チームが座標を特定し、「この世界」に「戻って」きた」
 全然分からなかった。
「つまり、どういうことだよ?」
「お前は現代の浦島太郎ってことだ。規模は小さいけどな」
 苦笑いしながら、レオンが答える。
「……キサは。キサと父さんはどうしてるんだ」
「キサはアレクセイ・グランツって人に引き取られたらしいよ。おじさんは……」
「なんだよ?」
「亡くなった。五年前に、事故で」
「死んだ……」
 死んだ。父さんが。そして、身寄りのなくなったキサはアレクセイおじさんに引き取られた。
 俺は、呆然として動けなくなった。竜宮城から帰ってきた浦島太郎も同じ気持を味わったのだろうか。
 …フジワラ・コウタロウ。現役最強と謳われたエース・パイロット。俺の父さん。明るくて、少しおっちょこちょいで、でも誰よりも強かった、俺の自慢の父親。
「――残念ながら事実よ。5年前、フジワラ・コウタロウ少佐…いえ、大佐は乗っていたバスの暴走事故で娘さんを庇って亡くなっているわ。暴走の原因は今も不明…」
「少尉」
 レオンが咎めるような声を出した。
「…失礼。デリカシーに欠ける発言でした」
「あと、キサは元気に暮らしているよ。飛び級連邦公立科学院を卒業して、今は臨床心理士をやってる。今もお前にも会いたがってる。お兄ちゃん、お兄ちゃん、ってべったりだったからな、あいつ」
 懐かしそうにレオンが言った。
 そこには、確かにかつての気弱な少年の面影があって。
 月日が刻んだ年輪があって。
 世の中は俺を取り残して10年経ってしまったことを俺に実感させた。
 俺は、ボロボロと涙が溢れるのを止められなくなった。
「お、おい…」
 レオンが慌てた様子で声をかけてくるのも、遠くに聞こえる。
「バンスタイン少尉。落ち着くまで、そっとしておきましょう」
 諌めるようなフィリ少尉の声が聞こえる。
「ムツキ君。何か必要なものがあったら枕元にアラームがあるから押して頂戴。それからトイレと洗面所は部屋の右隅にあるわ。あと下着も。私達は一旦持ち場に戻るけど、しばらくしたらまた来るから。その時には限定的にだけど部屋を出る許可くらいはもらえると思うわ」
 フィリ少尉の声をぼんやりと聞きながら俺は、パンツぐらい着せておいてくれよ、とどうでもいいことを考えていた。

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