本質のプラトニズム

プラトンイデア論における本質とは、実在する、普遍的な、本質そのものだ。

ただ、彼の論の深まりによってその本質の住処は変わるんだ。まず『饗宴』。ここでの美のイデアを把握するのは鑑賞的直観だ。つまり深層意識下といってもよい。

ところが、『ソピステース』ともなると、イデアは極限まで概念化される。そう、個物と普遍者の立ち現れ方が、激変している。

それでもなお、変わらないもの、それは、イデアが実在する普遍者であることだ。経験的事物を内在的に規定するのがプラトンのいう普遍的「本質」そのものだ。同一の名前でよばれるものは、根源的実在のリアリティーを持つ。永遠同一の、まさに不変項として。

パルメニデス』では高貴なるもののみならず、およそ下品なものにまで「本質」を認めるに至ったプラトンは、ソクラテス的道徳倫理的価値の彼岸にある絶対的超越者にあいまみ得たと、ここにいえるのではないかと、思っている。

意識の戯れ(1)

ひとの意識が面妖なものであるのは、その深層意識からふとした心象(イマージュ)の表出が起こったりすることに、その一因がありそうだ。少なくとも、精神分析学派の祖、とのちに呼ばれるフロイトはそう考えた。

でも、ちょっと考えればわかるように、表層意識も起伏に富んでいる。それが、平常だと思われている表層意識であっても、経験的事物への即物的な起伏には、間違いなく富んでいる。他方、深層意識は、現実から遊離した具体性を欠いた表象として立ち現れる。

いわば、表層意識が一次的知覚であるのに対し、深層意識が表象するものは、具体的事物xのn次的把握として、存在するということと考えてよい。眼前のディスプレイにも、今も深層意識はn次的、抽象的把握としての心象を形成している。

人間の意識は、イマージュ形成的だ、想像投企的、といってもよい。現象学的にいえば、ある任意の単語、たとえばネコ、といわれて、ネコの形状をイメージしてはいけないと禁止されても、表出されるものは表出される。

外的事物をネコと認識するのは、ネコに関する内生言語が抽象化されたカタチでなくてはならない。禅でいう「鏡を打破し去れ」というのは、簡単なことではないのだ。その種の深層意識的な表出が果てしないとき、そこに神秘主義が現前すると解することもできるだろうけれど、これは「何か」の本質ではないかと考える人々がいても不思議ではないのだ。

存在そのものへ!

言語とは、音声が奏でる記号体系にほかならなくて、その指示対象を明確化すること、なにがしかの意味をもってはじめて機能する、つまり問いとそのこたえ、これらが牽連性をもったとき、会話がなりたつ、一般的あるいは表層的には。

言語は存在の家だっていったのはハイデガーだ。もちろん、ハイデガーは惰性で語られることばなんか問題にしちゃいない、なにかそこに現存在を投企するような、実存にねざした瑞々しいひびきがあったときに、言語は存在の家となる、そういうことだ。

でも、言語って「存在」を水も漏らさず記述できるようなものじゃないんだ。ハイデガーがいう言語って、不特定多数のうちのひとりが、特定の誰かとして飛躍するその瞬間に、熟業体としてかがやくものだって、彼らしい陰鬱な表情で教えてくれるんだ。そのときにかがやくのは「存在」じゃない、言語をあやつる「存在者」。

硬くきめられたお約束なんていらない、目の前の、たとえば、月、月そのものになった存在者の言語以外に本質はない。月のきらめきそのもの以外の概念的理解なんて本質じゃない。

そんな存在の深みを欠いた表層的な空語はコミュニケーションなのかな、他者を理解しましょう、自分を理解してもらいましょう、それはニュートラルだけど、もっと深いところで自分の存在を感じていないと、結局のところ、空語が世に飛びかうのだ、と自戒したい。

ひとたび、ことばが結晶化されると、その指示内容が持つ動的なちからは隠蔽されてしまう。その決定的な一瞬にことばは本源的な存在を露にするんだ。