放浪の弊害


窓を開けるといい風が入ってくる。それを目にしただれもが「編集部」と形容する私の書斎にも分け隔てなく。
地震であれした書斎、紙の類はバベルの如く積み上げ、その他のものはとりあえずスーパーマーケットのビニール袋に一切合切放り込み、それがまた余震であれして、神々の怒りが・・・とか言いながら、もうどうでもよくなっちゃって、また部屋の隅に積み上げるのみにしている。あと数日でドラムが届いてしまうので、どうにかしなければならないし、積み上げた紙類のどこかにマウスパッドが挟まっているはずであって、もうずっと町田康の「耳そぎ饅頭」のハードカバーの上にカッターマットを敷いて、その代わりにしている。パソコンをミニPCにしてからというもの、書斎には触れていない、バベルも崩れてしまいそうだしね。基本的にベッドの上、だからハードカバーは必須なのであって決してカッターマットだけでは用を足さないのである。便利。ハードカバーは便利。
昨夜の北関東は丹波哲郎がでてくるのではないかというくらい霧が深く、写真を撮るのに難儀した。写真を、というか、運転のほうが難儀だったんだけれども。撮り溜めた写真を眺めてみると似たようなのが多くて、それはなぜかというと、走行中の車の助手席から写真を撮っているからなのだけれども、特に助手席から外を眺めていると、車から降りて歩きながらゆっくりと写真を撮りたいなあという場所がたくさんある。もともと、あくまで、メインは運転≒放浪であり、基本的には車からは降りぬし別段景色も重要でない。そして基本的には夜であって、ストロボがなければ真っ暗だがストロボをつかうわけにはいかず。夜と車は随分に損な点もある気がしてならぬ、とおもい、昼に何枚か写真を撮ってみたのだけれど、なんとなく、すきになれない景色だったのでこれからもきっと夜。見慣れないだけなのかもしれないが、やっぱり昼は好かん。
慣れ、は果たして、よいことなのだろうか。茨城to埼玉to千葉to茨城、四時間。放浪に放浪を重ね、半径50kmくらいでは大して満足できぬ脳。ドンキホーテに寄り込み、ジャムおじさんのハンドパペットに手を突っ込んで一人遊びをしている私に後ろから連れ合いが言う、「ここに初めて来たとき、すごく遠くへ来たつもりでいたね」。言い知れぬ不安のような虚無のようなものをかんじ、何とも受け答えができない。
放浪は、どこへ行けば終わるのか。