タブーについて語ることがタブー

古畑任三郎 -- もう一つの最終回が好評で、「これを本当に放送してほしい」というありがたい言葉をいくつかいただいている。しかし、これを放送するのはまず無理だと私は思う。問題はたくさんあるが、ひとつだけ絶対にクリアできない大きな問題がある。それは「禁断のギャグ」だ。

このプロットでは、「禁断のギャグ」を実演して画面に見せる必要はない。だから、普通の意味での自主規制に引っかかることはないだろう。しかし、そういうタブーの存在について、間接的に触れないわけにはいかない。

このストーリーの中のタモリは、放送業界の暗黙のタブーの為に、自分の才能の一部を発揮できずに苦しんでいる。いくらフィクションとはいえ、そういう設定のドラマを放送することは許されないだろう。たぶん、実際のタモリはそのことで苦しんではいないが、彼がテレビで表現できない才能を持っていることは、事実だからだ。

テレビ局の建前としては、タブーは絶対善で間違いのあり得ないものだ。タブーの中に無意味な禁止事項や副作用のある制限事項はない。だから、タブーによって禁じられるものは、全て救いようのない悪でなければならない。そしてそのことを疑ってはいけない。

もし、これを放送したら、誰もがその「禁断のギャグ」を見たいと思うだろう。そして、その欲望は議論を巻き起こす。それが禁止されていることは正しいことなのか?必要なことなのか?たとえ、放送の中では表現しないとしても、そういう願いを持つ者、陰でタブーを冒している者を放送で使うのは許されることなのか?そういう議論が起こり、その議論は、最終的にタブー自体の正否についての議論へとつながっていくだろう。それをテレビ局が許すはずがない。

タブーの存在について論じることが最大のタブーなのだ。

void GraphicWizardsLair( void ); // 「ネットでの発言に免許を」という発想が出てくるのは、たぶん「ブラックジャーナリズムという飛び道具を使えば簡単に人気が取れる」とか「名誉毀損や誹謗中傷で簡単に他人の妨害が出来る」というルール無用さを嘆いて、ジュネーヴ条約みたいなものを決めようという話かもで、これに関連する問題をotsuneさんが論じている。


だけど「ネットの発言に免許制度を」と言っている人は、そもそもヴァーリ・トゥード(何でもアリ)の悪評判上等なWeb文化は得意ではないんだろう。なんとかして自分のやり方である既存のマスコミの文化にWeb文化を従わせたい。


差別関係のタブーや宗教団体関係のタブーや広告代理店がらみのヤラセ宣伝の仕掛けなどは、Web文化とは相性が悪い。(ソニーXCP rootkit事件やネットワークウォークマンのヤラセ宣伝blog騒動は既存の文化では当たり前のやり方だったけど、Web文化では不誠実だと攻撃される)

WEB文化の「ヴァーリ・トゥード」性の中で特に受け入れ難いものが、「タブーについて論じようとする姿勢」ではないかと思う。タブーを全否定するわけではなく、議論しようとすることだ。どんなタブーがあり、その境界線はどうなっていて、どのように運用されていて、それによって誰が救われて、副作用としてどういう問題が起きているのか。代替策は無いのか。WEB文化は、そういうことを全部クリアにしてから結論を出そうとする。

「タブーの存在について論じることが最大のタブー」であることを権力の基盤としている人たちとその文化が全面衝突するのだ。むしろ、タブーを最初から否定する方がまだ許容されやすいだろう。

だから、WEBの中で発生する権力が、これまでのそれと違うのかどうかのポイントは、「タブーの存在について論じること」を許容できるかどうかだと思う。

実は、Google八分という言葉を思いついた時Google八分の存在について論じることは許されないだろうと私は考えた。「Google八分の存在について論じることは許されない」とGoogleが言うわけではなく、次のアルゴリズムによってそのルールを実装するのだ。


基本的には、「Google八分の刑」はあるURLに宣告します。そのページがグーグルランクのマイナス査定を受けることになります。例えば、このBLOGが「Google八分の刑」と宣告されたら、このページのグーグルランクは無条件でマイナスになります。そして、グーグルで検索してもこのページは表示されません。


さらに、このページにリンクしたページも同様の影響を受けます。このページにリンクすると、リンク元のページのグーグルランクが下がってしまうのです。そのページのランクが低ければつられてマイナスランクになるし、元のランクが高いページでもランクが下がって、表示順位は後の方になってしまいます。そして、この影響はさらにリンク元に対するリンクにも波及していきます。


結果として、私のページにリンクする人はいなくなります。もしいたとしても、その人にリンクする人はいなくなります。だから、検索にも引っかからないし、私のページへのリンクも存在しない。私のページは存在していてもそこにたどりつくことができなくなり、この日記はインターネットの中に存在しないも同然となります。


これは技術的には難しいことはないので、Google社がその気になったらすぐにできることです。社会的な発言を一切封じることに等しい「Google八分の刑」の執行が可能なだけの、非常に大きな権力をGoogle社は持っているわけです。

(補足にも関連する記述あり)

しかし、これまでの所、Google八分はページ単独で実施されている。多くの人がそのことに興味を持つので、その結果、「Google八分」について論じるページのページランクは高くなる。Googleは、人手をかけない機械的な処理で、これを「是正」することができるが、まだしてはいない。

Googleがこれをしないのは、必然性があることなのか、将来変わることがないのか?Googleは、自身のタブーについて論じることを永遠に許容するのだろうか?そこを見極めることが重要なのだと思う。