「世の中は厳しい」なんて大嘘

個人にある種の才覚とネット上での行動力さえあれば、リアル社会に依存せずとも、ネット上に生まれた十分大きな経済圏を泳ぐことで生きていける。本書が紹介する20人の先駆者たちが証明しているのは、そういうことだ。「ニート」だ「引きこもり」だと親が心配して騒いでいる間に、実は息子や娘たちがインターネット経済圏で両親の倍も三倍も稼いでいたなんて事例は、「次の十年」を待たずして続々と報告されることだろう。

これは、2年前の2005年8月に書かれた梅田さんの書評だけど、「次の十年を待たずして続々と報告されることだろう」という予測は、見事に当たった。

厳しい雇用環境下に置かれる「就職氷河期世代」の20代~30代 の若者たちの中から、会社に雇用されることを捨て、自営志向による不労所得 に時間をかけ、親や同世代以上の年収を稼ぐようになった「ネオニート」といわれる成功者が現れ始めている。

しかし、こういう報告は、いつも例外扱いされる。WEB自営のような生き方は、常に個人の例外的な才能や偶然の幸運に帰着させられ、なかなか見習うべきモデルケースとされることはない。

そういう生き方は、市場の見通しとか競合相手の参入可能性とかを具体的に評価する前に、一律で「世の中はそんな甘いもんじゃない」「世の中は厳しいものだ」という言葉によって否定されてしまうのではないだろうか。

私は、上記の梅田さんのエントリを受けて次のように書いている。

これからの「正業」はGoogleに勝てる会社を起こすか、Googleに入社できる能力を持たないとやっていけない。その難易度は、宇多田ヒカルイチローになるのに近いものになる。

しかし、ロングテールのしっぽで月収20万くらい稼ぐアーチストになるのは、一部上場企業に入社するくらいの難易度になる。「良くできた息子さんですねえ」と近所や親戚に褒められ、母親はちょっと鼻高々。でも、サインを求められたり町内で知らないものがいない、というようなレベルではない。iTMSが求める商品、売りやすい商品はメガヒットでなくて、そういうアーチストの大群である。 「正業」をめざすのは野心にあふれた人か自信過剰な人か夢見がちな人か本当にたぐいまれなる才能に恵まれた人で、一般の人は「アーチスト」と「副業」の中間のような収入源を複数持って、それで食っていくことが普通になると思う。

20世紀には、アーチストを目指すのは「非現実的で成功する可能性がほとんどない(けど万が一成功したら莫大な見返りがある)生き方」だった。一流企業を目指すのは、「誰にでも可能とは言えないが努力次第では充分可能であり、現実性を考慮しつつ多少高めに置く人生目標としては適切なレベルの夢」であった。

21世紀は、これが逆転すると思う。

一流の企業で正社員として安定した身分と充実した仕事を確保するということは、ずっと難しいことになる。どんな業界も、寡占化が進み、トップ企業はスリムになっていくだろう。ごく少数の社員が、ITと集団知クラウドソーシングを活用しながら仕事をする。特別な才能を持たない普通の人にとって、そういう場への参入は、「非現実的で成功するほとんど可能性がない(けど万が一成功したら莫大な見返りがある)生き方」になるだろう。

一方で、アーチストになることはずっと簡単になる。

どんなジャンルでも、競争相手は世界中のあちこちにいて、そこに参入するための条件を満たす国は増えつつある。しかし、それは、単一市場の拡大ではなくて、市場の数が無数に増殖していくということだ。

音楽からアニメからゲームから演劇から全部ひっくるめて、日本全体にジャンル別に細分化された1000個の市場が出現して、各市場において、専業2〜3人と兼業100人ずつを養うということなら、充分あり得る話だ。そのうちいくつかの市場は、今のオタク市場やアニメ周辺産業みたいな形で、顧客ベースを海外に広げているかもしれない。

兼業も含め10万人いるなら、アーチストを目指すことは、「誰にでも可能とは言えないが努力次第では充分可能であり、現実性を考慮しつつ多少高めに置く人生目標としては適切なレベルの夢」になるだろう。兼業アーチスト+バイトという着地点を目指し地道に研鑽をつむことは、堅実かつ意義ある仕事で、尊敬されるべき生き方になるだろう。

企業の周辺でフリーランスとして働くということも含めて、WEBを使った副業的な仕事が数多く生まれ、そういう生き方が社会の主流になっていくと思う。生き方が多様化していて、ロングテール同士がネットで繋って市場を形成できるのだから、仕事の枠組み自体も非常にロングテール化していくはずだ。

そして、こういう変化は、実は既にもう起きているのだと思う。

たとえば、身分として大企業の正社員でいる人の数はそれほど減ってないけど、大企業の中で正社員に払われるコストにふさわしい仕事をしている人の数は、相当減少しているのではないか。会社が丸ごと税金を強奪することで成りたっているような企業も多い。

そもそも、社会にとって有用な価値を創造してそれで稼ぐ企業が本当の一流企業である。そういう意味での「(本物の)一流企業の(本物の)正社員」というのは、本当は既にもの凄い狭き門になっているけど、既に入っている人が残っているから目立たないだけなのだ。

受け取る給与に見合うだけの価値創造に貢献してない多くの人が、自分の地位にしがみついている。そういう生き方自体を批判する気はないが、そういう人たちが自分の経験に基づいて生み出す言説は、社会にとって非常に害になるものだと思う。

価値を一切創造しない人にとって、自分の給料とは、他の誰かが稼いだ金を奪うことでしか得られないものだ。確かに一定の価値を奪い合う生存競争は、熾烈なものになることもある。「世の中は厳しい、甘いもんじゃない」と言う人は、そういう競争の中にいる人だ。

それは、その人たちが生きる世界の中では真実なのだろう。それを否定するつもりはないが、その経験を社会全体のこととして一般化するのはどうだろうか。

どこかに価値を創造する人がいなければ、奪い合い競争をするための原資も得られない。

大企業の中で、大した価値を生まずに正社員の給料をもらっている人たちは、そのことを否認した上で、自分の信念を組み立てているのではないだろうか。そういう人が、わずかながらでも自分で価値を創造しそれで食っていくという、WEB自営のような生き方を認めることは難しいだろう。

もちろん、価値を創造するということも簡単ではない。「創る」ことにも厳しい競争がある。それを含めて「世の中は厳しい」というなら、それは筋が通った意見である。

ただし、「奪い合う競争」の中での厳しさと、「創り合う競争」や「つながり合う競争」の厳しさは全く別のもので、厳しさは避け難いとしても、どちらの種類の厳しさを取るかは選択できる。

そういう前提を置いた上で、「どちらの厳しさも拒否して、親のスネを齧り続けるモラトリアムなチキン野郎が、最終的に社会に放り出されて直面するのは、創りあう競争である。そこで道を切り開くしか生きる道がないように、世の中の仕組みが変わりつつある。なんとかして自分自身の中から価値を見出すしかない。生きていく為には、そこから逃げることが許されないのが世の中というものだ」というような意見を言う人がいたら、それは傾聴に値すると思う。

そういう意味では、21世紀は厳しい時代であり「世の中は厳しい」というのは真実なのかもしれないと思うけど、脳内に構築した20世紀の世界の中に引きこもって、他人の価値にぶらさがって生きている人間には言われたくないだろうね。

私自身は、自分が生きる為になんらかの価値を生み出すことは、誰にとっても簡単なことだと考えている。

企業の中には、それをつぶす為の仕組みが何重にも張り巡らされているから、そういう試練を全部くぐり抜けて価値を創造するってことは大変なことだと思うけど、ネットの中には、逆に価値を引き出し育てる仕組みがたくさんあり、今もどんどん生まれている。それを通して見れば、多様な価値とそれを評価する人々がいくらでも見つかる。だから、ネットの中を見てれいば、価値を生み出すことは簡単に思えてくる。

そして、そういう見方が、社会の標準になればいいと思っている。

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