グーグルで身を削る過剰ダイエットにご注意

RPGのやりこみプレイにはいろいろなパターンがあるが、「いのちだいじに」だけでクリアとか、「がんがんいこうぜ」だけでクリアっていうのは可能なのだろうか。

実世界はRPGよりだいぶ複雑なので、「いのちだいじに」と「がんがんいこうぜ」をいかに適切なタイミングで使いわけるか、ということは、人類の生存にとって大きな課題であった。

「血気さかんで自信過剰な若者」と「はやる若者をいましめる年長者」という構図は、そういう複雑な環境の中で生き残るための戦略の名残だろう。つまり、個体の中で複数の戦略を切り替えるのは非効率的なので、群れの中で、それぞれの個体が年齢に応じて単一の戦略を担当し、個体同士の相互作用で最終的な意思決定するというシステムによって、人類は群れとして生き残ってきたわけだ。

最近の若者は、変に大人びてきていて、常に冷静で、客観的な自己評価から脱しない傾向が強い。一方で、高齢者の生存率が高まり発言力が増している。この状況では、従来のシステムがうまく機能しない。人類全体の生き残りのためには危機的状況だと思う。少なくとも戦略の組替えが必要とされているのは間違いない。

そして、この傾向にネットが拍車をかける。「自分がダメである」ことの証拠はグーグルでいくらでも検索できるが、「自分はOKである」ということはグーグルでは検索できない。バイアスが強くかかったメディアの発信する情報に対する注意はよく目にするが、「自分が何であるか」ということに関連して何かネットを利用すると、最悪のマスコミよりずっと兇悪なバイアスがかかった情報のシャワーを受け取ることになる。これに対する警告はあまり目にしない。

  • 原始時代の狩猟採集による食料調達では、高カロリーの食品を入手できることは稀である
  • 人類の体は、高カロリー食品を強く好む嗜好を持ち、摂取したカロリーを体に蓄積するようにできている
  • この体の仕組みは、高カロリー食品が希少である環境には適合しているが、現代の食生活にはアンマッチで成人病の原因となる
  • この不整合を意識的に調整して、環境に適応した健全な食生活を営む努力が必要である

心の問題についてもこれと全く同じロジックが成立すると思う。

  • 原始的な共同体の中での社会生活では、適切な自己評価の基準を入手できることは稀である
  • 人類の心は、厳しい自己評価を強く好む嗜好を持ち、摂取した自己批判を心に蓄積するようにできている
  • この心の仕組みは、客観的な評価基準が希少である環境には適合しているが、現代の社会生活にはアンマッチで自信喪失の原因となる
  • この不整合を意識的に調整して、環境に適応した健全な社会生活を営む努力が必要である

ネットによる自己評価を、原始的な心性の本能のままに自分に適用することは、高カロリー食品を食いたいように摂取することと同じで、非常に危険なことである。もちろん、愚行の権利は保証されるべきである。原始的本能のままに自滅しようとする人を強制的に差し止めるのはやり過ぎだ。

しかし、「過剰な高カロリー摂取が危険である」というアナウンスは必要だし、「過剰な自己批判は危険である」というアナウンスも必要だろう。

客観的な評価基準が容易に入手できて、それで自分の世界レベルの偏差値を判定できることはツールとしては有用である。しかし、ツールを活用することはツールの出力にアイデンティティを持つことと同じではない。

自動車を持っていれば便利だし、日常的に運転していると、車である自分を主語としてものを考えるようになる。よく知った街中で迂回路を探している時、「あそこは一方通行だから俺は通れないなあ」と思ったりする。通れないのは、自分の所有するツールであり、自動車を降りれば通れるけど「自分はそこを通れない」と考える。一方通行を避ける為には、この思考の混乱がむしろ良い方向に作用し、思考時間やエネルギーの節約になっているだろう。

でも、山登りの好きな人が、自動車を所有したことで、「自分は車道以外を通れない」と思ってしまっては、馬鹿にならない機会損失が発生する。自分が富士山で登れるのは5合目までだと思ったり、ひどい時には、5合目から上には何も存在しないと思ったりする。

ネットや他のメディアで入手した情報や評価基準による自己評価に過剰に執着することは、自動車を持つことで富士山の山頂に登ることを断念した登山者のようなものだ。

これは、単なる漠然とした印象なのだが、「自分について何かうぬぼれを持っている」ということを不道徳的なことのように考えている人が多いような気がする。おでかけする前には、鏡ではなくグーグルを見て、自分のうぬぼれをもれなく刈りこんでおくのがマナーであるというような考えの人。

こういう人は、自分の実績や才能に言及する時に非常に慎重になる。「実は私もブログなんかやってまして、まあ、世の中には物好きも多くて、多少は見てくれる人もいるようです。一度、何のまぐれかベージビューが○○を超えたことがあるんですが、まあ、これなんかネットの評価がいいかげんなものか証明したようなものですね。その後は、すぐにいつもの10%増しくらいの所に落ちつきましたし、自分が注目を浴びたというより、たまたま大手のサイトにリンクされただけのことで、そのサイトは人気はあるんですが、集めるネタは玉石混淆で私の所なんかも混ぜたりしちゃうのが玉に瑕で」みたいな感じ。

自分にプラスの評価を与える時は、充分に客観的なデータで検証してから残った可能性のレンジの中で最低点をつける。一方、自分をマイナス評価する時には、恣意的であいまいなロジックや根拠の無い推測を使い放題。そこに論理の抜けを見つけて、「いや、10%の人が残ったってことは、実は君のブログは結構人気あるんじゃないの」なんて言うと、あわてて「いや全然大したことないですよだって」と言いながら、何とかこれを否定できないか別のロジックを必死に考えているような人。

そして、他人が客観的評価に適合しない自己評価を持ち、それを公言している人を見つけると、鬼の首を取ったようにその人の評価を下げるデータをつきつける人も多い。

グーグルというのは使い方によっては、本物の自己評価に到達する為の助けになるだろう。

交通機関を一切利用しない登山者より、それを活用する登山者の方が、与えられた休暇の中で、より高い山に登れるし、より景色のいい山に登れる。でも、途中で交通機関から降りて徒歩で歩くことを拒否する登山者は、どの山にも登れない。

グーグル(やネットによるランキングによる自己評価)でものを考えることは、ある段階までは必要だ。だけど、そこから降りることが必要な地点がある。「自分がいいと思うからこれでいいのだ」という基準は徒歩のようなもので、その歩みは遅いけど、それでないと行けない場所もあります。